· 

メッセージ主題:『イエス様の眼差し』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年5月20日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌517「はるかに仰ぎ見る」

賛美: 今月のワーシップソング 「You Are My Hiding Place」

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文23:詩篇第66篇:新聖歌p.897-8

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌515「わが罪のために」

 

聖書拝読:ルカの福音書22章54節~62節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(61-62)

 

メッセージ主題:『イエス様の眼差し』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

今日はペンテコステ(聖霊降臨、五旬節)を記念しての礼拝が諸教会ではもたれていることでしょう。聖霊降臨とは、イエス様の復活・昇天後、集まっていた120人の信徒たちの上に、神様からの聖霊が降ったという出来事であり、その後、イエス様を救い主と信じれば、聖霊が私たちに降りてきて、内住されるという、信仰生活に最も欠かせないことでもあります。本日はこのことを記念する日でありますが、当ぶどうの木キリスト教会では、先週も申しましたように、通年の主日礼拝主題を「イエス・キリストの生涯」と題しまして、毎週、イエス様の生涯を時系列に沿ってメッセージをさせていただいています。今は、イエス様が十字架にかかる前のところでありますので、ペンテコステのことにつきましては、その時がくれば、お話しさせていただくことにいたします。

さて、先週は、『真の大祭司』と題しまして、イエス様の「神の右の座に着かれる」ということはどういうことなのかについて、共に学ばせていただきました。今朝は、『イエス様の眼差し』と題しまして、使徒ペテロが鶏が鳴く前に、三度イエス様を知らないとして、自分の身を守ってしまったところから、イエス様はそんなからし種ほどもない信仰の私たちを、それでも愛してくださるのだということを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

イエス様が大祭司たちに捕らえられた時、周りにいた弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。しかし、彼らは全く遠くまで逃げ去ってしまったわけではありません。自分の師であるイエス様がこれからどうなっていくのか心配で、役人や大祭司たちに気がつかれない程度の距離をもって、イエス様の後を追っていました。事実、ペテロは大祭司の家の中庭に、ほかの群衆に紛れて座って様子をうかがっていました。

 

しかし、その中庭の火あかりのため、ペテロは女中に気づかれてしまいます、「この人も、イエスといっしょにいました!」と。ペテロは、あわてて、それを打ち消し、「いいえ、私はあの人を知りません」と保身に走ってしまいました。当然かもしれません。イエス様のことは気がかりですが、いざ自分の身に危険が及ぶとなると、だれでも「あの人は知らない、関係ない」と言ってしまうのではないでしょうか。しばらくして、また他の人、こんどは男の人が彼に気がついて、「あなたも、彼らの仲間だ」と告げました。わたしは、この異様な空気の中で、民衆も興奮しています。ですから、こんな穏やかな感じの言葉ではなく、もっと語気のきつい感じではなかったかと想像するのであります。「お前も、やつらの仲間だろ!」っと。ペテロは、あわてながら否定します。「いや、おら、違いますだ。」 慌てたので、ついガリラヤ訛りが出たかも知れません。私には、ガリラヤ訛りがどのようなものかは分かりませんが、雰囲気を出すために東北弁のような感じにしてみました。さて、それから一時間ほど経って、また別の男が、自信ありげに言い張ります。「確かに、こいつは、あいつと一緒だった。こいつもガリラヤ人だ、方言でわかる。」 ペテロは、必死に否定します。「あんだの言うごたぁ、オラにはわがんねぇ、オラしらねぇ!」もうがむしゃらの否定であります。ペテロの言葉が終わらないうちに、鶏が「コケッコッコー」。

 

その一部始終をイエス様はお聞きになっていました。イエス様が振り向いてペテロを見つめました。ペテロもイエス様と目が合います。そして、ペテロはイエス様のお言葉を思い出したのです。「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われたことを。ペテロは中庭をでて、激しく泣きました。ペテロは自分の不甲斐なさに、イエス様に申し訳なくて、泣いたのです。マルコは、ペテロがイエス様に「三度イエス様を否定する」と言われたこと、そしてペテロがそのことに対して、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と力を込めて言い張ったと記録しています(14:30-31)。ペテロは、その時は、本当にそう思ったのです。そして、「自分がイエス様を裏切るはずがない」と一番弟子であったという自負もあるかもしれませんが、そのような自信に満ちあふれていました。そして、鶏の鳴き声を聞き、イエス様と目が合い、ペテロは自分が本当に弱い者であり情けない者であることに気がついたのです。彼がイエス様に申し上げた、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカ22:33)と言わしめた自信は、もろくも崩れ去ったのであります。鶏が鳴き、イエス様と目があった時に、イエス様の眼差しは、彼にとって一生涯忘れられないものとなったことでしょう。

 

イエス様の眼差しは、ペテロを「ほら、わたしが言った通り、お前はわたしを否定しただろう。わたしが正しいことがわかったか」と非難しているものではありませんでした。イエス様の眼差しは、慈愛に満ち、悲しみをおびつつも、ペテロを励ますものでした。イエス様は、ペテロがこのことでつまづくことをご存じで、ペテロのために、いえ、弟子たち、わたしたちの信仰の立ち直りのために祈って下さったのです。「シモン、シモン、見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32) イエス様は、ペテロの立ち直りのために、そして、弟子たち同士で励まし合うように祈られたのであります。そこには、恐怖のために保身をしてしまい、イエス様を知らないとまで言ってしまったことも、すべてイエス様はあらかじめ赦されておられたのであります。

 

そして、今も、イエス様は私たちのために、祈って下さっておられます。私たちのつまづきをすべて赦し、私たちが立ち直るのを祈り、励まし合うことを勧められるのです。「励まし合い」は、つまづいたから、落ち込んでいるから、信仰が弱くなってきたから、行なわれることでもあるでしょうが、そうならないように励まし合うことも大切なのです。パウロは、そのことをローマ書で次のように語っています。「わたしがあなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」(1:11-12)また、ヘブル書の著者は、もっと具体的にこのことを示しています。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(3:12-14)このように、日々、互いに交わりをもち、励まし合うことがいかに信仰を全うするのに大切であるかが説かれています。日曜日だけの交わりでは、不十分なのです。実際に会って祈り合うのも良いでしょう。またメールで励まし合うのも、フェイスブックのようなソーシャルネットワークで、距離感をなくして、交わりをもち、励まし合うこともひとつでしょう。しかし、一番大事な事は、イエス様がその輪の中にいらしてくださって、祈っておられることであります。これほどの励ましはありません。私たちは個人個人、イエス様に祈られているのであります。そして、私のことで、言いますれば、まだイエス様にじかにお会いしたことはございませんが、ペテロが忘れられないイエス様のあの眼差しを、私も感じている、いえ、見ているといったほうがよろしいでしょう、私もあのイエス様の眼差しを忘れられない一人なのでございます。あのイエス様の眼差しを思い出すたびに、イエス様は私にこうおっしゃっておられることを覚えるのです。「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っています。ですから、あなたは、つまづきからも必ず立ち直ります。そして、立ち直れば、兄弟姉妹たちを力づけ、また共に励まし合って、罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。わたしがあなたを選び、行って実をむすぶようあなたに任命したのです。わたしの戒めを守りなさい、互いに愛し合いなさい。」皆さまも同じことを、イエス様からお聞きしておられるのではありませんか。皆さまもすでにイエス様の眼差しをご覧になっているはずです。どうかそのことを常に覚える者とさせていただきましょう。

 

今から3分間、黙想をいたします。今朝のイエス様の眼差しを黙想しつつ、主の変わらぬご愛に感謝をささげましょう。主のお導きに、皆さまの心をそえてください。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「イエス様の眼差し」と題しまして、主は常に私たちの信仰のために、救いのために、祈り励まして下さっておられることを学びました。どうかそのことをいつでもどこでも覚える者とさせてください。賛美が口にとどまる者とさせてください。お互いに励まし合うものとさせてください。愛しまつる主イエス・キリスト様の御名により、十字架の救いとお導きとご愛に感謝しつつ、また今日のペンテコステの恵みを覚えつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌486「雄々しくあれ」

賛美: 今月の歌・新聖歌104「十字架の上に」

今月のワーシップソング「You Are My Hiding Place」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

You Are My Hiding Place

(Words & Music by Michael Ledner)

 

You are my hiding place

You always fill my heart

With songs of deliverance

Whenever I am afraid

I will trust in You

I will trust in You

Let the weak say I am strong

In the strength of my Lord

I will trust in You.

 

Hiding place: 避け所

Deliverance: 解放、救出

Trust in: 信頼する

The weak: 弱き者 Strength: 力