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メッセージ主題:『テテレスタイ(完了した)』

聖句拝読:ヨハネ福音書 19章28節~30節

中心聖句:30節

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

 

メッセージ主題:『テテレスタイ(完了した)』

 

イエス様は、十字架上で七つの言葉を発せられました。

  1. 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

  2. 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

  3. 「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネ19:26、27)

  4. 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』(マタイ27:46)

  5. 「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)

  6. 「テテレスタイ、完了した。」(ヨハネ19:30)

  7. 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 

今日は、その七つ言葉のうちのひとつ、6番目の「テテレスタイ、完了した」という言葉から、イエス様の愛ゆえの救いを覚えてみたいと思います。

 

このテテレスタイというギリシャ語は、「完了した」と言う意味ですが、過去と現在と未来に及ぶ、「完了」であります。これは、イエス様による、私たちの罪の赦しと同じ感覚であります。過去の罪は赦された。現在の罪は赦されている。未来の罪は赦される。日本語は未来形があいまいですので、ちょっと言葉にするとピンときませんが、罪に関して言えば、皆さまもうご存じの通りであります。では、この罪の赦しと関連の深い、テテレスタイというこの言葉を発せられたイエス様は、実際に何を完了したとおっしゃられたのでしょうか。

 

それを、今回は、過去、現在、未来という区分ではなく、このテテレスタイが持っています三つの少しずつ違う意味、①「終止符をうった」②「完了した」③「成就した」という区分で、見ていきたいと思います。

 

  1. 「テテレスタイ、終止符をうった」

イエス様は何が終わった、終止符をうったとおっしゃったのでしょうか。創世記3章を見てみましょう。

神様が蛇に仰せられたところの一部を読んでみます。15節です。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これは、実際の蛇の頭を踏み砕く事でも、蛇がかかとにかみつくことでもありません。これは、ひとりの子孫であるキリストが蛇であるサタンを踏み砕いて勝利することであります。また、蛇がキリストのかかとをかみつくとは、イエス様に精神的にも肉体的にも苦痛を与えるということです。例えば、12弟子の一人であるイスカリオテのユダの裏切りは精神的に苦痛をあたえるものでありました。ヨハネはそのことを次のように記しています。過越の祭の前の夕食でのことです。「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いをいれていた」(13:2)とありますように、イエス様が自ら選んだ十二弟子のひとりに、悪魔が忍び込んだのです。また、悪魔はペテロや他の弟子たちにも忍び込みました。ルカはイエス様の言葉をこのように記録しています。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(22:31)弟子たちは、イエス様が祭司長たちに捕らえられた時に、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。イエス様はそのことも前もってご存じで、32節では

 

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とおっしゃいました。イエス様はすべてをご存じでしたが、やはり悲しかったのではないでしょうか。ひとりで十字架にかからないといけないことも分かっていましたが、悲しかったのです。ですからイエス様は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(マタイ26:38)そのように、もだえられたのです。肉体的な苦痛は、イエス様の十字架を頂点としての、平手打ち、むち打ち、十字架での磔などであります。イエス様は悪魔にかかとを咬みつかれたのであります。

イエス様が「終わった」とおっしゃられたのは、その悪魔の支配が、イエス様によって終わった・終止符をうったということです。精神的にも肉体的にも苦痛を味わいながら、イエス様は悪魔の頭を踏み砕いたのであります。私たちは悪魔の誘惑する罪の奴隷であり、罪の重い鎖につながれた者でありました。イエス様はその重い鎖を砕き、罪の奴隷から、私たちを解放されたのです。つまり、罪がまねく死とその死の恐怖からの解放です。ベブル書2章14節~15節では、次のように説かれています。

 

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださるためでした。」 イエス様の十字架での贖いが、悪魔を滅ぼし、死に対する永遠の勝利を勝ち取ったのであります。

そう、イエス・キリストは、ダニエルが預言したメシアなのです。「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定めらえている。それは、そむきをやめさせ、罪をおわらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」(ダニエル9:24) イエス様は、悪魔の支配する罪を終わらせたのであります。悪魔の頭を踏み砕き、悪魔との戦いに終止符をうち、私たちに永遠の命を与えるという勝利を収めたのであります。「テテレスタイ」とは、イエス様は静かな口調であったでしょうが、戦いに終わりを告げた、勝利の言葉なのです。主の前にひざまずき悔い改める皆さまに、「あなたは、すでに罪の奴隷ではない」とおっしゃっておられるのです。






  1. 「テテレスタイ、完了した」

イエス様の完了されたものは何だったのでしょうか。先ほども申しましたが、「完了した」という感覚の中には、過去、現在、未来において、その時々で「完了した」ということです。イエス様が完了したのは、罪による永遠の死からの救いの御業であります。そして、救いは必ず救う相手があってのものであります。イエス様は救う相手を見つめながら、御業が「完了した」とおっしゃるのです。そして、その救いには、ある条件的な「時」がともなって完了するのであります。その時とは、イエス・キリストと出会う時であり、信じる時であります。そこで、思わされますのは、信仰義認であります。信じることで義とされ救われるという神様からの恵み。パウロはこのことを、ローマ書で、「今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(3:26)と、神様の「今」、つまり、過去、現在、未来においての「今」、私たちがイエス様と出会い、信じる時である「今」、私たちは義と認められるのであります。神様は私たちの罪を赦し、義と認め、ゆえに永遠のいのちを授けようと、御子イエス様をこの地上へとお送りくださいました。イエス様を信じる者を救おうとされておられるのです(1コリント1:21)。救いは自力で出来るものではありません。

例えば、溺れている人が、自分を助け出すことができないのと同じです。溺れてしまっている人には、飛び込んでその横に行って抱きかかえて助け出さないといけません。それができるのは、同じように溺れている人ではありません。罪人は自分も救えないし、他の罪人も救えないのです。それができるのは、罪のないお方、イエス様だけなのです。イエス様は、福音書のいたるところで「あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいます。パウロが、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)と説くように、私たちが救われ永遠のいのちをいただく保証となるのは、イエス・キリストにあっての信仰のみなのであります。そして、イエス様と出会い、イエス様を信じる、その時である、「今」、あなたにとっての、イエス様の救いの御業は「完了する」のです。

 

  1. 「テテレスタイ、成就した」

イエス様は、何を成就されたのでしょうか。ルカは「使徒の働き」の中で、次のように記しています。「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。」(13:27) そうです。イエス様は旧約聖書にでてきます救いの預言を成就させました。このことに対して代表的な、イザヤ53章を見てみましょう。この53章全体が、イエス様とイエス様の十字架を預言しているものですが、特に、5節6節では、イエス様の十字架での私たちのための罪の贖いを語っています。お読みいたします。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を、彼に負わせた。」事実、イエス様は十字架に釘ではりつけになり、また生死を確認するために槍で脇腹を突かれました。神様は、御子イエス様に私たちすべての罪を負わせ、イエス様の尊い聖なる命によって、その罪を贖われたのです。それは、神様との和解、平安が私たちに与えられることになったということです。そして、信じる私たちには、聖霊が降り、永遠のいのちが保証されるようになりました。ペテロはこのイザヤ53章の預言が成就したことを、次のように語っています。1ペテロの2章22節から25節までです。少し長いですが、大切なところですので、すべてお読みいたします。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何も偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちの罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

このように、イエス様は、「テテレスタイ、預言はすべて成就した」とおっしゃったのです。このことによって、イエス様は、イスラエルの民が、いにしえから待ち望んでいた「油注がれた者、メシヤ」「救い主、キリスト」であることを証明されました。つまり、イエス様は私たちが全面的に信頼するに足るお方である、神の御子であると、自らを明らかにされたのであります。

 

イエス様が十字架の上で、「テテレスタイ」とわざわざ弟子たちに、また周りの人たちに聞こえるようにおっしゃいました。ですから、記録に残っています。これは、イエス様の勝利の宣言であります。悪魔の支配を終わらせ、私たちの罪という重い鎖を断ち切り、過去・現在・未来における罪をあらかじめ贖ってくださったイエス様を信じる信仰によってこそ、私たちは救われ、永遠の命にあずかることが可能となったのであります。救いの御業が完了したのです。またそのことすべてが、旧約聖書にある預言を成就し、イエス様をメシヤ・キリストであると証しているのであります。

 

では、イエス様の勝利の宣言である、テテレスタイ、実は私は、このテテレスタイが、私たちに対する問いかけでもあるのではないかと思っているのです。この「テテレスタイ、終わったよ、完了したよ、成就したよ、あなたはどうしますか」というお言葉にたいする、私たちの応答はどのようなものであるべきなのでしょうか。

 

私たちは罪を犯します。そして、その都度、悔い改めます。全く情けないことではありますが、同じような罪を何度も何度も繰り返してしまうことがあるのではないでしょうか。皆さまはどうか分かりませんが、私は、「あ~、またやっちゃった」ということが多々あります。「もう同じような過ちばっかりして、悔い改めても、赦されないんじゃないか」と思ってしまう、、、こともなきにしもあらずです。しかし、それは私の弱さでもあり、また驕りでもあるでしょう。イエス様は、「テテレスタイ、あなたの罪の赦しは完了している」とおっしゃっておられるのです。

 

その時、その時の「今」に、心から悔い改める者に対して、「あなたの罪は赦された」とおっしゃるのです。「こんな何度も何度も同じような罪を犯すものは赦されないんじゃないか」、、、イエス様を侮ってはいけません。父なる神様から罪を赦す権威を授かり、「あなたの罪は赦された」とおっしゃれば、あなたの罪は赦されているのです。イエス様の赦しによって、その犯した罪に対して二度と裁かれることはありません。そして、イエス様は、弟子たちに次のようにおっしゃいました。ルカがそのことを17章3節4節で記録しています。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度、あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とおっしゃいました。この七という数字は完全数であるということですので、つまり、「何度でも赦してやりなさい」とおっしゃっておられるわけです。イエス様が弟子たちにそのように何度でも赦すことを勧めるわけですから、イエス様も同じように、私たちが悔い改めれば赦してくださるのです。

 

ですから、イエス様は、「悔い改めて赦された罪のことを思い返して悩むのではなく、また過去を振り返るのではなく、前を向きなさい」とおっしゃっておられるのです。

では未来のことはどうでしょうか。イエス様は未来のことも、「思いわずらってはいけない、心配しなくていい」とおっしゃいます。マタイ書の6章では、イエス様はこのように述べられています。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(中略)だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。」とおっしゃいます。この御言葉は日常生活に必要な衣食住のことが中心となっています。しかし、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」という戒めの中には、「未来の罪の陰に怯える必要はない」ということが含まれています。私たちは、キリストを信じる信仰において、主に信頼し依り頼み、感謝し喜びつつ、主を見上げながら歩む時に、イエス様はこうおっしゃるのです。「また犯してしまうかも知れない罪に怯える必要はない、怯える気持ちは、わたしが起こさせない。私はあなたの避け所でもあり、砦でもあり、また逃れの道でもあるのです。」そう言って、イエス様は私たちの手を取り、引き寄せて、闇から遠ざけて下さるのであります。




「テテレスタイ」これは、イエス様のすばらしい愛の言葉であります。イエス様は私たちに十字架の上からおっしゃいます。「テテレスタイ」「わたしは、あなたの信用に足るものであり、あなたのすべての罪を赦します。あなたはもう罪の奴隷ではありません。今、わたしを信頼し、わたしに従って来なさい。そうすれば、今、あなたにはたましいの安らぎが、平安と喜びが来ます。わたしは、今、約束します。こののち、あなたには永遠のいのちが与えられ、わたしとともにパラダイスにいるでしょう。」 (祈り)