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メッセージ主題:『イエスの血の責任』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年6月3日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌40「ガリラヤの風かおる丘で」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

交読: 交読文25:詩篇第73篇:新聖歌p.899-900

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌112「カルバリ山の十字架」

 

聖書拝読:マタイの福音書27章15節~31節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」(24-25)

 

メッセージ主題:『イエスの血の責任』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『ユダヤ人の王』と題しまして、イエス様がピラトのもとに連行された時に、ピラトはイエス様のことを「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と確認しますが、その「ユダヤ人の王」とは、さまざまな立場でどういう価値存在だったのかを学ばせていただきました。今朝は、『イエスの血の責任』と題しまして、イエス様を十字架にかける程の重罪に処すか無罪とみなすかと祭司長たちに煽動されてしまった民衆と総督ピラトとの間でのやりとりの中で、イエス様の血の責任、つまり十字架刑に処するとする判断責任を民衆が負うことになったところから、イエス様を十字架にかけたのは、律法学者でも祭司長たちでもなく、民衆であり、その責任は今の私たちにもあるということを学ばせていただきます。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

24節で、ピラトは、群衆の目の前で水で手を洗う行為を見せ、「イエスの血について、私には責任がない」と告げました。これは、明らかにイエスは無罪であると主張しているのですが、「自分たちで始末するがよい」と判断を民衆にあずけ、暴動になるのを防ぎ、沈静化を図ったのです。

一方、民衆は、過越の祭の時に、望みの囚人をひとりだけ赦免していたのをイエスにしてはどうかというピラトの提案を拒否し、暴動(革命)を起こし人殺しをしたバラバ(マルコ15:7)を釈放するように要求したのです。そしてイエスを「十字架につけろ」と叫び続けたのです。十字架刑はローマの司法でのもので、おもに殺人などの犯罪に対する極刑であり、イエス様の言動がローマに対する敵意や挑戦とは認められませんので、十字架刑に処することはできないはずですが、ピラトは民衆の暴徒化を恐れたのであります。

 

ですから、イエスを十字架につけたのは、ピラトではなく、当時エルサレムにいた民衆、「十字架につけろ」と騒ぎ続けた人たちであります。民衆は「イエスの血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」、つまり、イエスに対する極刑の責任は民衆にあると明言したのです。イエスを十字架につけたのは、民衆でした。イエス様は、大祭司たちに捕らえらえる前に、自ら「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます」とはっきりご自身の十字架での死を予言しています。しかし、イエス様は御自身の血の責任はだれにあるともおっしゃいませんでした。ペンテコステの日に聖霊に満たされた弟子ペテロは、次のように声を張り上げて訴えました。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:36)エルサレムで祭司長たちに煽動され「イエスを十字架につけろ」と叫んでいた民衆だけでなく、イスラエルの民全員が、結果的にイエスを十字架につけたのだと主張したのです。そして、ペテロの言葉を聞き心を刺された人々に対して、ペテロはこう続けました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」つまり、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、賜物として聖霊を受け、救われる人」は、全員、イエスを結果的に十字架につけた人たちなのです。それは、イスラエルの人に限らず、救いにあずかる人が、イエスを十字架にかけたのと同じことになります。そう、私たちはイエスを十字架にかけた張本人なのです。もちろん、私たちは、約2000年前に、ピラトに向かって、こぶしを振り上げ「イエスを十字架につけろ」と叫んだ民衆の中の一人ではありません。しかし、イエス様の血の責任はあるのです。イエス様の血の贖いの恩恵を受ける者は、全員、イエス様の血において責任があります。

 

ペテロが言うように、私たちは、イエス様を十字架につけた者です。しかし、それと同時に、私たちもイエス様といっしょに十字架にかかったのであります。パウロはそのことをいたるところで説いていますが、ローマ書の6章6節では、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」と述べています。実際にイエス様といっしょに十字架にかかったわけではありませんが、イエス様が十字架上で死に、そして復活されたように、「キリスト・イエスにつく者(である私たち)は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)そして、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4b)ですから、私たちは、イエス様を十字架につけ、そして同時にイエス様といっしょに十字架にかかり、死によって古い自分を捨て去り、イエス様が復活なさったように、私たちをも死から復活させてくださるのです。イエス様の血の贖いによる恩恵を受けた私たちゆえに、私たちはイエス様の血の責任があるのです。救われた者としての責任です。それは、例えば、イエス様の私たちに対する戒め「互いに愛し合いなさい」を守ることであると言えるでしょう。しかし、私は今朝あえて、もう少し具体的になるよう、次の御言葉を紹介し、神様からのメッセージを終わりたいと思います。エペソ5:18b-21です。口語訳の方を紹介いたします。「むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、キリストに対する恐れの心をもって、互いに仕え合うべきである。」

 

今から3分間、黙想をいたします。今朝、イエス様がお示し下さいました、十字架でのイエス様の血の責任を私たちは前向きに受け止めていきたいと思います。主は黙想中に、私たちがイエス様に従い仕え、他の兄弟姉妹ともお互いに仕え合うことをお示し下さるでしょう。主のお導きを、すなおに受け止めさせていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「イエスの血の責任」と題しまして、主のメッセージをお聞かせくださいましてありがとうございます。私たちがイエス様を十字架につけ、また私たちも主と共に十字架にかかり、共に死に、共に復活させていただいた恵みに感謝いたします。また前向きに、霊に満たされ、詩と讃美と霊の歌をもって語り合う者とさせて下さい。愛しまつる主イエス・キリスト様の御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌172「望みも消え行くまでに」

賛美: 今月の歌・新聖歌254「心にあるこの安きを」

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7








Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

 

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

 

Reach out: 手を伸ばして届く