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メッセージ主題:『神はひとりを求めている』

大阪朝祷会2018.6.4

奨励をさせていただきました。

聖句拝読:エゼキエル書 22章30節

「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」

 

メッセージ主題:『神はひとりを求めている』

 

ハレルヤ、主のみ名を讃美いたします。

今日は、私の35歳の誕生日です。実年齢は62歳ですが。1983年6月4日に、アメリカ、インディアナ州の大学町ブルーミントンにある単立教会エヴァンジェリカル・コミュニティ・チャーチで洗礼を受けました。それから35年間、紆余曲折あり、また2回の主の召しにも応えず、遠回りをしてきましたが、全てにおいて主の憐れみによって守られ、導かれて来ましたことを感謝いたします。

また、3月1日に急性心筋梗塞で、緊急手術を行い、9日間入院しましたが、5月30日に医師から順調に回復してきていると告げられ、皆さまのお祈りに、高い所からではありますが、感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

さて、今朝は「神はひとりを求めている」と題をつけさせていただきました。今、私の旧約の聖書通読は、エゼキエル書であります。



エゼキエルは、20代半ばの時に、エルサレムからバビロンの平野に捕らえ移されました。ですからエゼキエル書は、バビロン捕囚の民に、神のメッセージを届けるという重大な責任のなかで、書かれた書であります。

 

エゼキエル書22章では、エゼキエルは、「神の民であるイスラエル民族は、あらゆる階層において、さまざまな罪を犯している」と告白しています。しかし、神は、イスラエルの民を滅ぼすことがないようにと、あるひとりを探し求めておられました。では誰を求めていたのでしょうか。それは、「わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者」であります。ある注釈書では、「石垣の破れ」とは『神と人間の壊れた関係』を表わすようです。エゼキエル書13章5節でも同じ表現が使われています。お読みいたします。「お前たちは、主の日の戦いに耐えるために、城壁の破れ口に上ろうとせず、イスラエルの家を守る石垣を築こうともしない。」 このように、神はイスラエルの民のかたくなな心を嘆いておられます。ですから「石垣の破れ口に立つ者」とは、『神様と人間の壊れた関係を修復し、イスラエルの民を救う人』のことであると考えられるでしょう。

 

私はこのところを読んでいまして、ソドムとゴモラのことを思い出しました。

アブラハムが主と駆け引きするところです。主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」とおっしゃいました。アブラハムは「四十五人では?」と交渉し、主は「四十五人いれば滅ぼさない」と答えられました。アブラハムはさらに「四十人では?」、主は「四十人のために滅ぼさない」とおっしゃいました。そしてアブラハムはどんどん交渉を続け、主から「十人のためにわたしは滅ぼさない」と約束を取り付けます。しかし、残念ながらアブラハムの甥であるロト以外は正しい者はいませんでした。ですから、ロトの家族は命からがらソドムが滅ぼされる前にソドムを離れ、神は、ロトひとりのために、ロトがたどり着いた小さな町ツォアルを滅ぼされませんでした。全くの神の憐れみであります。アブラハムが、もし、「義人がひとりでもいたら」と交渉し成功していれば、ソドムは滅びなかったでしょう。主は、ひとりの正しい人のために、滅ぼされないのです。

 

私たちの主は、憐れみ深いお方で、滅ぼすことのないようにと、ひとりの義人を求めておられるのです。主なる神は仰せになります、「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」と。(エゼキエル18:30-31) 神は悔い改めて生まれ変わりなさいとおっしゃるのです。それはイエス様がおっしゃっておられることと同じであります。イエス様はパリサイ派のニコデモを諭します。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3) ニコデモは「新たに生まれる」ということが理解できませんでした。イエス様のおっしゃる「新たに生まれる」とは、霊によって新たな人間に創造されることであります。過去に犯した背きや悪の習慣を投げ捨て、罪から決別した状態が、「新たに生まれる」ということであります。エゼキエルは、神から、そのように新たに生まれた人、正しい人、悪との関係を断った人を神は待っておられると告げるのです。

しかし、神は、『主の前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者:神と民の間で和解を執り成す者』を見つけることはできませんでした。イザヤがそのことを語っています、「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。」(イザヤ59:16) 我らの主は、それゆえに御子イエス様を、私たちの救い主として、この地上へとお送り下さり、神と私たちの関係を修復してくださったのです。

さて、私たちは、今朝のこの聖句から何を学ぶべきでしょうか。もちろん、御子イエス様にあって私たちの罪の贖いに感謝し、御名をほめたたえることでもありますが、それとはまた別に、私たちの主は、今も、「ひとりを求めておられる」のではないかと、私には思われるのです。

 

イエス様は神と民の間の、和解を執り成されました。そして、今、イエス様と民の間を執り成す人を、主は求めておられるのではないでしょうか。救い主イエス様を知らない人たちが滅びるのは、主の御心ではありません。先ほどもお読みいたしましたが、「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。」とおっしゃる主なる神であります。神は今でも、「ひとりでも」と求めておられるのです。

 

主はこうおっしゃられるのではないでしょうか。

「ひとりでも、家族の中に執り成しをするものがあれば、わたしは滅ぼさない。なぜなら、わたしの言葉がそれを約束するからだ。」『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます』(使徒言行録16:31)

福音は一人の忠実な信徒から広がって行くのです。主はその一人を求めておられます。牧師であろうが、伝道師であろうが、教師であろうが、長老であろうが、一般の信徒であろうが、そんなことは関係ありません。ただひとりだけでもいい、忠実な僕を求めておられるのです。

 

イエス様の天の国のたとえ、「タラントン」のたとえを思い出してみてください。五タラントンと二タラントンを預かった良い僕たちは、結局、主からの賜物を活かし、預かった金額を二倍にしました。そして、神である主人からこうほめられるのです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21)神である主人が喜ぶ、多くのものの管理とは、いったい何でしょうか。それは多くの民が滅びないことです。救われることです。ですから、「多くのものの管理」とは「多くの人に福音を伝え、イエス様との執り成しをする」ことなのです。ひとりの、主に忠実な僕は、主の賜物を活かし、結果的に多くの人に執り成しをするのです。主は、そのひとりを求めておられるのです。そしてそのひとりの先にある、多くの人の救いをすでに見ておられるのであります。

 

「家族の中にひとりでも」「学校の中にひとりでも」「会社の中にひとりでも」「地域の中にひとりでも」忠実な主の僕、イエス様とイエス様の愛を紹介する証人、主と共に喜びを分かち合える働き人を求めておられるのです。そして、その人は、パウロの言うところの、「輝かしい勝利を収めている人」なのです。新改訳では、その人は「圧倒的勝利者」と訳されています。ローマ書8章37節です。37節から39節まで、お読みいたします。「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 神の求めておられるひとりの人は、主なるイエス・キリストを通して示された神の愛から、何びとによっても、どんなことがあっても、引き離されることのない、「圧倒的勝利者」なのです。なぜなら、その人には、キリストである聖霊が心に宿っているからであります。パウロは励まします。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」と。(2テモテ1:7)

 

神は、そのようなひとりを、そしてそのひとりの先にいる、多くの人の救いを見据えて、『あなた』を求めておられます。

 

そして、ここにおられる皆さまは、主が求めておられる、そのおひとりおひとりなのです。

 

イエス様はおっしゃいます。

「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

「実は話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:11)

だから、臆することなく

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)

 

(祈り)