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題:「前を向いて歩こう」

ニューオーサカ朝祷会

6月5日(火)

聖書箇所:哀歌3章22節~24節

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。」

 

題:「前を向いて歩こう」

 

ハレルヤ、主の御名を讃美いたします。

哀歌は、預言者エレミヤ、または同時代の人によって書かれた、悲しみの歌であります。何を悲しむのかと申しますと、エルサレムの崩壊を嘆いたもので、いわゆるバビロン捕囚が始まってすぐの紀元前585年前後に書かれたものではないかと考えられています。

 

哀歌は五章ございまして、第一章はエルサレムが敵の手におち、神殿が汚され滅ぼされたこと、そしてそれはエルサレムの罪の重さ故のことであり、神の怒りとさばきがくだったのだと告白しているのであります。第二章はエルサレムの民に対する神の怒り、神殿の崩壊などが描写され、神があわれみ、顧みて下さるように懇願しています。第三章では神の怒りは、民が希望を失うまでに、鉄槌を下されることが語られていますが、神はエルサレムを完全に滅ぼさずにおかれる。それは、神の愛とあわれみによるものであり、再び神に依り頼む信仰が燃え上がるのであります。第四章は以前のエルサレムの繁栄と美しさと、現状の悲惨さとを比べて歎くのであり、第五章は惨めな現状を神に訴え、エルサレムの回復を求めて神に祈るのであります。

 

今日は、その中でも第三章の22節から、本当なら17節から45節までをお読みさせていただければと思ったのですが、時間の関係もあり22節から24節までとコンパクトにさせていただきました。後でお時間を作って17節から45節までお読みくだされば幸いです。

 

哀歌の詩人は、20節まで、悲しみのどん底にいます。それを代表するのが17節です。お読みいたします。「わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた」とありますように、旧約聖書の時代の「平和」は、神との絶対的な関係「神が伴っている」ことを意味しますので、神から見放され絶望のどん底にいるのだと、詩人は嘆いているのです。しかし、18節のところで「わたしの生きる力は絶えた、ただ主を待ち望もう」また、21節のところでも「再び心を励まし、なお待ち望む」と告白し、自分の力をすべて放棄し、主に屈服した様子がうかがわれます。日本語でも「苦しい時の神頼み」と申しますように、これは世界共通語に近い感覚なのかもしれません。世界中の人々がこの感覚を持っているとすれば、私たち人類はやはり、この世界の創造主である神から造られ、神により頼むことを、DNAのように遺伝子の中に組み込まれているのかも知れません。とにかく、哀歌の詩人は、もう神しか頼る方はいないと、神様の方にふり向いたのであります。

 

そして今日の中心聖句22節に移ります。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」「主の慈しみは決して絶えない」とは、主の恵みは永久に続くと、そして「主の憐れみは決して尽きない」とは、主のご愛は枯れることのない泉のように湧き出ると、詩人は自分の気持ちを奮い立たせるように、神に向かって賛美をささげ始めるのであります。神の慈しみと憐れみをたたえる表現は詩篇にもところどころ出て来ます。一か所だけ紹介します。詩編145篇では、「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」(8-9)ひょっとしたら、哀歌の詩人は、慣れ親しんでいますこのようなダビデの詩編を思い出したのかもしれません。それはともかくとして、詩人は主の慈しみと憐れみに期待するしかないと絶望のどん底にあって、顔を上げ、主の方にふり向いたのであります。現状の悲惨さを見つめ悲観していた詩人は、過去の栄光に思いをはせるのではなく、つまり後ろ向きではなく、前を向き直して主を見上げたのであります。

 

もし、哀歌の詩人がエレミヤであったとすれば、エレミヤはエルサレムの滅亡を目の当たりにし、その現状を見て嘆きつつも、主の声を聞いたことになります。エレミヤ書29章10節から13節を見てみましょう。少し長いですが、お読みいたします。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時がみちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主はいわれる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」エレミヤは、バビロン捕囚が七十年で終わり(実際には五、六十年)、イスラエルの民がエルサレムへと戻されることを預言したのです。

 

そうです。哀歌の詩人も、いままでがそうであったように、主が選び約束をむすばれた民を永遠に見捨てるはずがないと主に期待し始めたのです。それは、この哀歌の3章31節から33節までの希望的確信の詩に現れています。お読みします。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」 私には、あたかも詩人が、神とエルサレムの関係を父親と子どもの関係のように描写しているような気がするのです。皆さんも人の子であり、また人の親でもある方もいらっしゃるでしょう。普通の親なら、けっして子どもを見捨てるようなことはしません。子どもがまっとうに育ってほしいと願いつつ、子どもをしつけます。心を鬼にしてしかったり、伸びるかなと思ってほめてみたり。良いところは伸ばしてあげようとし、いけないところは正してあげようとします。そして、子どもに、多かれ少なかれ期待をするのです。子どもはそんなことはなかなか分かってくれません。いつの時代でも「親の心子知らず」でありますし、人の親になって初めて、本当の親心が分かったりします。それでいいのかもしれません。

 

私たちと神様の関係もそうではないでしょうか。イエス・キリストを信じる人は誰でも神の子とされます。ヨハネ書の1章12節に、「言(イエス様)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とありますように、キリストを信じる私たちは、全員、一人ももれず、神の子どもなのです。しかし、残念ながら「神の心子知らず」なのです。私は、それでいいのかもしれないと思ったりしています。神様の心を分かる、分かろうなんて、思うだけで自分が傲慢だと思うのです。「神の心子知らず」それでいい。しかし、私が私の親にいくら叱られても、大好きだったように、何か困ったことがあれば、親に頼っていたように、神様を大好きでいたいのです、頼りにしたいのです。

 

哀歌の詩人もそうではなかったでしょうか。彼も神様が大好きだったはずです。「主は、決していつまでも捨て置かれない。苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」と、自分に言い聞かせもし、また神様に訴えていたのです。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」『そうでしょう、神様!あなたは見捨てられませんよね。私は今、前を向いて、あなたを見上げています。』哀歌の詩人はそう訴えているのです。

 

さて、後半の聖句を見てください。哀歌3章23節24節です。「それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。」 この聖句の「朝ごとに新たになる」のは、主の慈しみと憐れみでしょう。では、「主の慈しみと憐れみは朝ごとに新たになる」とはどういうことでしょうか。「朝ごとに」という表現は聖書にはしばしば出て来ます。一番初めに出て来ますのは、出エジプト記のマナという天から降って来た食べ物のところです。マナを「朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた」とあります。マナはすぐに腐ってしまい、翌朝まで残しておけなかったからです。その日その日を主に依り頼んで生きていくこと、主にその日その日の恵みに感謝すること。マナは、いわば神様の民に対する「しつけ」でもあります。イエス様は「その日の労苦は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)とおっしゃいます。逆に言えば、その労苦に対する、神様の恵みもあります。ですから、この聖句は「その日の恵みは、その日に十分である」とも言えるのです。もちろん、この聖句は、その前に「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」とあり、「明日のことを思い悩むのではなくて、今日という日を今を大事にしなさい。その日、その日の主の恵みに感謝しなさい」と説かれているのです。「主の慈しみと憐れみは朝ごとに新たになる」とは、「その日、その日の主の恵みは、十分ある」と哀歌の詩人は確信的に期待するのです。

 

では、「主こそわたしの受ける分」とはどういう意味でしょうか。私はこの「うける分」というのは「主から与えられる分」つまり「嗣業」のことだと思っています。この「主こそわたしの受ける分」を考えるのに、良い聖句があります。詩編16篇5節6節です。お読みいたします。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。」ここでは、「主はわたしに与えられた分」とは、「主はわたしの運命を支える方」と言う意味になります。つまり、「主は必ず私の訴えや祈りを聞いて答えてくださる方」であるという確信を表わしているのであります。ですから、次に、哀歌の詩人は「わたしは主を待ち望む」と続けられるわけです。

 

哀歌の詩人は、22節で「主は恵み深い方である」と賛美し、期待しています。そして23節で「主の恵みは、その日その日で十分ある」と確信し、また「主は真実な方である」から「主は私の訴えや祈りを必ず聞いてくださる」と主に信頼し依り頼みつつ、詩を歌いあげるのです。

 

哀歌は悲しみ嘆きの詩であります。しかし、その絶望の中に、この詩人は、希望を見いだし、主に期待するのであります。ですが、その期待は悔い改めなしには成就しません。ですから、5章最後の方の21節では、「主よ、御許に立ち帰らせてください、わたしたちは立ち返ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。」と主に懇願しています。「立ち帰り」は「悔い改め」のことです。詩人は悔い改めを宣言し、主に期待しますが、やはり人間です。彼は正直でした。悔い改めによって、主は必ず答えて下さると、主に希望をおきつつも、哀歌は将来に対する不安の入り混じった言葉で締めくくられています。詩人は歌います、『わたしはこのように将来において主に期待しますが、現実的には22節「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」』 彼は不安のあまり、現実の悲惨な状況に目を落としてしまいました。私は、彼を非難するつもりはありません。哀歌の詩人は私たちであり、彼の弱さは、私たちの弱さであり、彼の不安は、私たちの日常の不安なのです。私たちも揺れるのです。

 

今朝のメッセージタイトルは、「前を向いて歩こう」であります。また、特別に賛美していただいた、坂本九の「上を向いて歩こう」の替歌も同じタイトルであります。私は、この哀歌を読んでいる時に、この詩人の悲しみ、憤り、嘆き、声にならないぐらいの苦悶、苦闘、そして希望と不安の入り混じった感情が私の中に入り、私を圧倒してくるのです。しかし、この3章の22節から24節を中心とする、詩人の主にあっての希望と期待、そして自分を振るい起こすように、自分を納得させるように、自分自身を主に信頼し依り頼むように導く賛美、この歌に私は癒されるのであります。私たちの日々の生活は不安だらけで、辛いこともたくさんあります。ですが、私たちには、イエス様が十字架の贖いによって与えて下った「罪に対する勝利」「神様との和解」そして「永遠のいのち」という希望のゴールがあります。それでも、私たちの信仰はからし種ほどもありませんから、揺れるのです。でも、それでもいいじゃないですか。いえ、それでいいのです。その揺れも受け止めましょう。イエス様がおっしゃるように、「その日の労苦は、その日だけで十分である」そしてその裏返しとして「その日の恵みは、その日に十分である」のであります。つまり労苦は恵みなのです。後ろを振り返ってばかりいるのではなく、主を見上げて、前を向いて歩こうではありませんか。あなたの歩幅や歩調に、だれも合わしてくれないかもしれません。しかし、ただお一人、イエス様だけは、あなたに合わしてくださるのです。あなたに耳を傾けていてくださるのです。前を向いて歩きましょう。最後にもう一度、哀歌3章22節から24節をお詠みし、祈りをささげたいと思います。

 

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。」

 

(祈り)