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メッセージ主題:『泣いてはいけません』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年6月10日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌286「シャロンの花」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

交読: 交読文26:詩篇第84篇:新聖歌p.900

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌423「村の小さな教会」

 

聖書拝読:ルカの福音書23章26節~32節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。『エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」(27-28)

 

メッセージ主題:『泣いてはいけません』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『イエスの血の責任』と題でメッセージが語られました。イエス様を十字架にかける程の重罪に処すか無罪とみなすかと祭司長たちに煽動されてしまった民衆と総督ピラトとの間でのやりとりの中で、イエス様の血の責任、つまり十字架刑に処するとする判断責任を民衆が負うことになったところから、イエス様を十字架にかけたのは、律法学者でも祭司長たちでもなく、民衆であり、その責任は今の私たちにもあるということを学ばせていただきました。今朝は、『泣いてはいけません』と題しまして、イエス様が十字架にかけられることが決まり、ゴルゴタというされこうべの丘までイエス様自身が自分が磔になる十字架を背負わされていくところ、つまり日本の江戸時代であれば、市中引き回しの上磔獄門というところでしょうか、そのところで、通りでイエス様を慕う女性たちが嘆き悲しんでいました。その女性に対してイエス様は声をかけ、「私のことで泣いてはいけない」とおっしゃっておられます。今日は、その箇所を黙想したいと思います。

まず、お祈りいたします。(祈り)

イエス様を慕う人々にとっては、イエス様が十字架につけられようとしているところは、どうしても泣くところではないでしょうか。いろいろな感情が入り混じっていると思います。①単に親しくしている人が亡くなるという別れの悲しみ、②無実の罪で、一番重い刑罰に処せられるという無念の悲しみ、③イエス様がキリストであり、彼らの希望であったはずが、処刑されいなくなり、希望を失ってしまうという喪失の悲しみ、などがあげられるでしょう。しかし、イエス様は「泣いてはいけない」とおっしゃるのです。

 

では、イエス様は泣かないお方なのかと申しますと、そうではなく、とても感情豊かな方であられますから、私は個人的に、イエス様は人の悲しみを分かってよく泣かれたのでは、と推測するのです。福音書の中に、「イエス様が泣かれた」という記述は二か所だけ見つけることができました。ひとつは、ルカ書19章41節42節です。お読みいたします。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがお前の目から隠されている。』」つまり、エルサレムの住民が、福音を聞いても理解できない、頑なな心によって救われないことを悲しんでおられるのです。また、もうひとつは、ラザロの死の報告を受けた時でした。ヨハネ書11章33節~35節です。お読みいたします。「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。」イエス様は愛する兄弟ラザロが死ななくてはならないことに悲しみを覚え涙したのです。このようにイエス様も涙されるのです。しかし、ゴルゴタに向かう途中では、泣いている女性たちに対して「泣いてはいけない」と諭すのであります。

なぜでしょう? それは、十字架上での肉体の死が、最後ではなく、罪の贖いという犠牲の死によって、肉体にあった霊が、その肉体から解放され、本来の姿にもどるだけではなく、福音を信じる者の中に入り、その人の霊的な死から救い出すことができるようになるからです。ラザロの死の時に、姉マルタにイエス様がおっしゃったことが、そのままイエス様の「泣いてはいけない」に反映されているのです。ヨハネ書11章25節26節です。お読みいたします。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』」ですから、イエス様は「泣いてはいけません」いえ「泣く必要はありません、今から皆さんを、死に至る罪の奴隷から解放するのですから」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。そのことをイエス様は一粒の麦のたとえで現わされました。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24,25)「この世でそのいのちを憎む」とは、肉体的な生命に固執しない、霊的な生命を求めるということです。霊的な生命を求める人たちに、永遠のいのちはくだるのです。そうです、十字架の死は、イエス様がいにしえの預言を成就させ、栄光をうける時なのです。

 

そして、イエス様は「むしろ自分自身と自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」とおっしゃいます。これは、終末が近づいていることを予見されました。まだ、終末はきていないというのが大方の見方ですが、それでは、終末はいつ来るのかという議論はここではいたしません。このことは、まだ神様によって隠されています。しかし、確かなことは、この世で生あるうちに、イエス様に出会い、救い主と信じ、イエス様を受け入れなくてはいけないということです。イエス様が、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」とおっしゃるように、イエス様の十字架の死を受け入れるのは、私たちには新たなる出発の時なのです。罪の奴隷という解放からの喜びの時なのです。

それはあたかもモーセが率いる民のようだとも言えるでしょう。モーセの民は、エジプトで奴隷であり、罪の中にいるものでした。しかし、小羊の血を門にぬり、神による死の制裁をまぬがれ、そして悔い改めの紅海を渡り、エジプトから決別して、新たなる出発がはじまったのです。彼らは新しくされましたが、古い考え方や習慣も残ったままでした。ですから、主は40年間という長い歳月をかけて、主に従うよう、父親が子供をしつけるように、導かれたのです。

 

イエス様は御自分の十字架を背負いながら、その道のわきにいる私たちにおっしゃるのです。「泣いてはいけません。むしろ喜びなさい。わたしがあなたを解放するのです。肉的な束縛から自由にしてあげます。『もしあなたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にします(ヨハネ8:31-32)』。モーセの民のように、あなたは古い自分と幾多の葛藤もあります。しかし、『わたしはすでに世に勝っている』(ヨハネ16:33)ことを覚えなさい。『わたしにあって平安を得なさい、勇気をだしなさい。』『わたしが道であり、真理であり、いのち』(ヨハネ14:6)であることを忘れないように、わたしはあなたの中に助け手を置きました。わたしが、モーセたちに日々の食物であるマナを与えたように、わたしのことばを日々味わいなさい。あなたはすでにわたしによって癒されています。わたしの手をとって立ち上がりなさい。さあ、あなたも、あなた『自身の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』(ルカ9:23)」

 

今から3分間、黙想をいたします。今朝、イエス様がお示しくださいました、十字架の悲しみを喜びにかえて、イエス様に従いつつ、日々を歩ませていただくことを今一度導いていただきましょう。主のお声をお聞かせくださいと祈り、黙想中の主のお導きを、すなおに受け止めさせていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「泣いてはいけません」と題しまして、主のメッセージをお聞かせくださいましてありがとうございます。パウロの勧めにあります、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません」(1テサロニケ5:16-19)どうか、このことを忘れず、イエス様に従う毎日でありますように。愛しまつる主イエス・キリスト様の御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌231「いさおなき われを」

賛美: 今月の歌・新聖歌254「心にあるこの安きを」

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

 

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

 

Reach out: 手を伸ばして届く