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メッセージタイトル:「真の逃れの道」

メッセージタイトル:「真の逃れの道」

中心聖句

1コリント10:13

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

2コリント12:9-10

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、屈辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 

お読みいただきました、第一コリントでは、パウロは、天の父は、「耐えられないような試練に遭わせることはなく、耐えられるように困難からの脱出の道、逃れの道が常に備えられている」と説きました。本当にそうなのでしょうか。私たちは、よく兄弟姉妹の証しの中で、主なる神様からのかずかずの逃れの道、救い、御手の差し伸べをお聞きすることがあります。そして、それは私たちが生きていく上で、とても私たちに勇気を与えてくれるものです。例えば、ある人がお金に困っていて、もうどうしようもないところに、立たされていたとします。そして、もう主に依り頼むしか、祈るしかないとなったときに、どこからかお金が送って来られたり、不思議とお金の返済が伸びたり、そんな話をお聞きしたことがないでしょうか。また、医者から余命3カ月と言われ、治療もしなくなってから、結局延びに延びて、3年も平安の中、祈りと主との交わりの時間が与えられたというような証しもよく耳にします。これらを私たちは奇跡と呼び、主の御業として、主の御名をあがめるのであります。

 

しかし、私たちは勘違いをしてはいけないと思うのですが、癒しも奇跡も、すべては神様の御名がほめたたえられるためのものだということです。余命3カ月が3年に延びたとしても、死は必ず訪れます。福音書に出てきます、あのラザロにしましても、イエス様によって、生き返りはしますが、いつかは肉体的な死を迎えることになったはずです。しかし、ラザロが生き返ったことによって、主の御名はあがめられ、神の力は畏れられたのであります。

 

私たちが主の御業を証しする場合、ほとんどが、「祈りが聞かれました」とか「窮地を救われました」とか「医者が匙を投げた病気が完治しました」と言うような、いわゆる成功例であり、奇跡であります。そして、聞く方もそれを期待しています。主の御名をあがめたくて、「ハレルヤ!」「アーメン」と言いたいのをうずうずしながら証しに聞き入り、その証しに自分を重ねてみたりしています。私はこれが悪いと言っているのではありません。いえ、反対に、大いに主の御業の証しをしていただきたいと思っている一人であります。また、私もそのようにさせていただきたいと願っています。

 

では、なぜこのようなことを申すのかと言いますと、私たちは、このパウロの「主が備えられた逃れの道」と聞きますと、どうしても奇跡を期待してしまいがちになるのであります。しかし、ひねくれ者の私は、『いや本当に「逃れの道」は奇跡なのだろうか』と思ってしまうのです。もちろん、私が今ここにこうしてしゃべっていること自体を奇跡だとすれば、すべてが奇跡であり、奇跡の連続で私たちは生かされているとも言えます。実は今年の3月1日の早朝に、私は急性心筋梗塞でもうこの世にはいなかったかもしれないのです。医者の言葉を借りれば、あと2時間手術が遅ければ、死んでいたらしいです。私は独り暮らしですから、苦しい中、よく自分で救急車を呼べたと思っています。これも私にとっては恐ろしいぐらいの奇跡であり、主の御業であり、主の目的を感じる生かされ方なのであります。そのような主の御業の証しをすることもできますし、したいとも思っています。また皆さまも聞きたいと思われるのではないでしょうか。しかし、今日は、その話はわきに置いてお話ししたいと思います。また、後の交わりの時にでも、お話しすることにいたしましょう。

 

「逃れの道」は、本当に私たちの期待するような奇跡なのでしょうか。実は、私たちが期待する「奇跡」は祈り求めても起こらない時のほうが多いのではないでしょうか。逆に言えば、少ないからこそ、時々「証し」として紹介できるとも言えなくもありません。では、どうしてパウロは、「(神は)あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と説かれるのでしょうか。パウロのこの言葉の中に「逃れる道をも『必ず』備えていてくださいます」と「必ず」を入れて述べていませんが、文脈からは、そのように取れるのでございます。「逃れの道」を奇跡だと考えるならば、常に奇跡が起こっていることになります。しかしながら、皆さまもご経験のあるように、奇跡はそうたびたび起こるものではございませんし、期待するようなことを祈り求めたとしても、神様はそれをお許しならない時がある、いやお許しにならないことのほうが多いのかもしれません。主の目には、その祈りの内容は、私たちにとって最善ではないと、また最善の時ではないと映るのかもしれません。

 

では、常に備えられている「逃れの道」とはいったい何でしょうか。そのことを考えますときに、私は、イエス様が観察されておられました「やもめの献金」を思い起こすのでございます。マルコもルカもその観察を記述しておりますが、マルコの方を参照させていただきます。12章41節~44節をお読みいたします。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」イエス様によれば、このやもめは、貧しい中から自分の持っている全生活費を献金したことになります。全生活費を献金してしまいますと、明日から、いえ、今から生活ができなくなるかも知れません。私なんかは、『この女性はこれから、ひとりでどのようにして、生活するのだろう』と案じてしまうのであります。私の基準からすれば、まったく、無謀なことなのです。しかし、この女性は、恐らく喜んで感謝して、全生活費を献金したのです。そして、恐らく、この女の人は、この日だけ、全生活費を献金したのではないでしょう。神殿に参拝しに来る度に、全生活費を献金したのだと思うのです。彼女は、主が彼女の必要をすべて備え満たして下さっていることを、経験し続けているのです。ですから、彼女は主にすべてをお任せし、信頼し寄り頼むことを覚えてしまったのです。もちろん、彼女は彼女なりに一生懸命、日銭を稼く努力をしていたでしょう。彼女は自分のできる限りのことをし、自分の「分」を果たし、後は主にお任せする、心配するのではなく、主に信頼することを学んだのです。

 

私は、ここに、パウロの言う所の本当の意味での「逃れの道」があるような気がするのです。主に信頼し、主に寄り頼む信仰と神様ご自身、これこそが、「逃れの道」なのではないでしょうか。詩編では、この「逃れの道」のことを「避け所」とか「砦」として、主を賛美しています。一か所だけご紹介いたします。詩編46篇2節~4節をお読みいたします。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」苦難は試練でもあり、主の助けは「避け所」「砦」そして「逃れの道」でもあるのです。

 

パウロは、精神的にも肉体的にも不安があったようです。しかし、その不安は、祈り願っても、主が取り除くことをなさいませんでした。第二コリントの12章7節8節のところにその記述がございます。お読みいたします。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」この三度というのは、何度もという意味だそうです。つまり、何度も祈り願ったが、そのとげは取り除かれなかったと言われるのです。そのかわり、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とパウロに告げます。弱さゆえに、主に寄り頼むことを覚え、「わたしは弱いときにこそ強い」と、自分の力ではなく、全能の神である主が力を貸し、助けてくださるのだと、パウロは悟るのであります。

 

旧約聖書でも、主は、時折、兵士の数を数えてはならないという命令を下したり、兵士の数をわざわざ減らして戦わせたりすることがあります。これも、すべて主に寄り頼むことを導いたものであり、主の力を内外に見せつけ、主を畏れることを学ばせたものであります。まさに、万軍の主が伴われていれば、私たちは「弱いときにこそ強い」のであります。

 

パウロの言うところの「逃れの道が常に備えられている」とは、「主が常に伴っていてくださる」ということなのです。それを可能にするのが、聖霊の内住であります。そして、その内に住みたもう聖霊・キリストによって、私たちは患難さえも喜ぶことができるようになるのです。パウロはこのことをローマ書5章で説いています。新改訳でお読みいたします。3節から5節までです。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 パウロが述べるように、内住の聖霊キリストによって、私たちは患難を耐え抜き、結果的に永遠のいのちにあずかるという希望を現実のものとすることができるのであります。パウロは6節を続けます。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」パウロたちは「弱かった」と過去を振り返っています。つまり、イエス・キリストを知り、信じて、聖霊を受けた後は、主が私たちに伴って下さるので、聖霊によって、私たちは「弱くなくなった」「強くなった」と主張しているのです。まさに、主にあって、聖霊を通して、「私は弱いときに強い」と宣言しているのであります。「自分は弱い者だ」と自覚し、主に全面的に降伏し寄り頼む時にこそ、そこに主の力を見いだし、主が私たちのために生きて働いてくださっている恵みを感謝し味わうことができるのではないでしょうか。

 

「真の逃れの道」とは、神様ご自身であり、御子イエス・キリストであり、私たちの内に住みたもう聖霊のことであり、また常に主に信頼し寄り頼む信仰のことでもあります。私たちは、その与えられた信仰によって、悪からも誘惑からも遠ざけられ、天の父からの知恵をもいただき、弱い時にこそ強く、また忍耐の果ての希望は失望に終わることはないと、確信できるのです。主の特別の御手が差し伸べられる「奇跡」を願うことは悪いことではありません。大いに奇跡を願いましょう。しかし、その「奇跡」を信じ願う時に、いえ、そのように願う前に、すでに、「主の御翼の陰に私たちは置かれている」、「聖霊の逃れの道が備えられている」、「『避け所』としての全能の主が伴われている」、そのことを覚えたいと思います。「真の逃れの道」はイエス・キリストを信じる私たちにすでに備えられていて、その平安の道に歩む喜びを、私たちに与えてくれるのです。

最後に、詩編63編8節をお読みし、神様からのメッセージを終えさせていただきます。「あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。」

 

 

お祈りをいたします。