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メッセージ主題:『痛みから逃げない主』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年6月17日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌20「主の真実はくしきかな」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

交読: 交読文27:詩篇第90篇:新聖歌p.901-2

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌203「ああイエス君こよなき友よ」

 

聖書拝読:マタイの福音書27章33節~37節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。」(34)

 

メッセージ主題:『痛みから逃げない主』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

今日は父の日であります。教会につながられておられるお父さまがた、いつもお祈りありがとうございます。父の日ですから、父の日のメッセージとも思いましたが、通年礼拝主題を『イエス・キリストの生涯』として、イエス様が復活され再び天にあげられるまでのことを、毎週語らせていただいていますので、今週もそのようにさせていただきます。

 

先週は、『泣いてはいけません』と題しまして、イエス様が十字架を背負わされていくところで、通りでイエス様を慕う女性に対してイエス様は声をかけ、「私のことで泣いてはいけない」とおっしゃいましたことを黙想させていただきました。今朝は、『痛みから逃げない主』と題しまして、イエス様が十字架に磔になり、兵士たちが慣例的に飲ませようとした、痛みを和らげるぶどう酒を飲まれなかったことを通して、イエス様の罪の贖いの本気を見させていただきたく思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

イエス様は、慣例的になっています、痛みを和らげるぶどう酒を拒否されました。そのぶどう酒は、「苦みをまぜた」とマタイ書では描写されていますが、マルコ書では、「没薬を混ぜたぶどう酒」(15:23)とされています。クリスチャンなら、「没薬」と聞けば、イエス様の誕生をお祝いして、東方の博士たち(占星術師)が、ささげた品の一つであるとピンとくるのではないでしょうか。あの時、彼らが携えて来たのは「黄金、乳香、没薬」(マタイ2:11)でありました。没薬は乳香と同様、高価な香料のひとつでもありますが、麻酔薬と同じ働きをし、また、埋葬のときに防腐剤としても用いられていました。イエス様の埋葬の時、ニコデモが用意したのが没薬でした(ヨハネ19:39)。ニコデモは、没薬とアロエを混ぜて約30キロの防腐剤を用意したとありますから、没薬も相当量使う予定だったことになります。とにかく、イエス様はその苦みのある没薬で作られたしびれ薬入りのぶどう酒を飲まれませんでした。つまり、痛みを緩和することを拒否されたのです。手足首に太い釘を打たれ、十字架が立てられた時に、自分の体重によって、その傷口が開くのでありますから、相当な痛みが継続的に襲って来るのではないでしょうか。手首の傷口をかばうために体を持ち上げようと足を踏ん張ると、足首の傷口が広がります。イエス様はどうして、痛み止めを飲まれなかったのでしょうか。

 

このしびれ薬は、飲み薬ですから、全身がしびれ、感覚が鈍くなるばかりではなく、意識もある程度朦朧(もうろう)としてくるはずです。現代の医療であれば、局部麻酔のように、意識はしっかりとしていても、体の一部は感覚がなくなるということも可能ですが、イエス様の時代には不可能でした。また、当時局部麻酔があったとしても、イエス様はその処置を拒否されたでしょう。なぜなら、イエス様は、天の父の御自分に対する十字架での目的をご存じだからです。イエス様はいろいろなところで、弟子たちに、「苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」ことを語られました。また、はっきりとその死は「贖いの代価」であると言及しておられます。マタイ20章28節のところで、まだエルサレムの町に入る前のところです。お読みいたします。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」「贖いの代価」とは、奴隷を自由の身にするために支払われるお金のことであり、罪の鎖でつながれ罪の奴隷となっている私たちを解放し、神のものとするために、イエス・キリストは御自身のいのちを身代金としてささげられたのです。ですから、その過程で生じる苦痛は、私たちが罪の奴隷として苦しんでいる、全人類の苦痛を表しています。そしてその苦痛は、神から離れるという原罪の苦痛でもあるのです。イエス様は、この苦痛を和らげ、あいまいにしては、贖いが成就されないことをご存じでした。また、イエス様は、かずかずの苦しみを通して、私たちに神への従順をお示し下さっておられるように、この十字架での苦痛も、天の父なる神への従順の表われともとれるでしょう。ヘブル書の記者は、そのことを次のように記しています。5章7節~10節です。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対してとこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」

イエス様は、神様からの使命であります、「人類の罪の贖い、神との和解」を完成させるために、わざわざ、苦痛を軽減することなく、返って、全ての苦痛を経験しただけではなく、私たちが通るであろう苦難に対しても、主への従順を現すためのものとして、お示しくださったのです。それは、使徒パウロが得た悟り・確信であります「患難さえも喜んでいる」(ローマ5:3)ということにつながっていくのであります。

 

では、神様は、私たちもイエス様が味わった同じ苦痛や苦難を経験し、神様への従順を学ばそうとされておられるのでしょうか。私はそうではないと思っています。イエス様はすでに、私たちが経験するかもしれない精神的肉体的苦痛のすべてを経験し、それに打ち勝ってこられました。また、死をも克服されておられます。すでに、イエス様は私たちの代わりに苦痛を受けられたのです。イエス様が経験した以上の、またそれと同等の苦痛を受けることがないように、です。パウロはそのことを、次のように説きます。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、絶えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリント10:13)では、「脱出の道は」と申しますと、パウロが続いて「ですから、偶像礼拝を避けなさい」述べていますように、キリストの血にあずかること、キリストの言葉である教えから離れないこと、キリストに似ることなのであります。イエス様が、私たちの「避け所」「砦」となり、「盾」となって、私たちの痛みをすべて経験し、天の父なる神への従順によって克服されたのです。イエス様のお言葉をお借りすれば、「わたしがこれら(十字架で)のことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)のように、イエス様はすべての苦痛を克服され、イエス様を信じる私たちに平安を残されたのです。それが私たちの心に下された聖霊であります。そして、神様はすべての人を支配する権威をイエス様にお与えになられました。(ヨハネ17:2) 私たちの内に住み給う霊なるキリストによって、私たちには常に脱出の道が備えられ、この世での苦痛が平安へと導かれるのです。

 

これも、すべて、『イエス様が、苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうとはされなかった』ことに象徴されるのです。

今から3分間、黙想をいたします。今朝、イエス様がお示しくださいました、イエス様がすべての苦痛を経験し、神への従順によって、その苦痛を克服され、私たちへの愛をお示し下さいましたことに感謝いたします。私たちは、そのような愛を行なってくださるイエス様に心から従っていく者とさせていただきましょう。今からの短い時ではありますが、静まって主の御声に耳を傾けさせていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「痛みから逃げない主」と題しまして、主の私たちへの愛をお語りくださいましてありがとうございます。患難や苦痛の中にいます時、イエス様が父なる神様に従順であられたように、私たちも、より一層、主に従順な者とさせてください。愛しまつる主イエス・キリスト様の御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

賛美: 新聖歌486「雄々しくあれ(壮年バージン)」

賛美: 今月の歌・新聖歌254「心にあるこの安きを」

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

 

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

 

Reach out: 手を伸ばして届く