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メッセージ主題:『ふたりの罪人』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年6月24日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌505「主われを愛す」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

交読: 交読文28:詩篇第91篇:新聖歌p.902-3

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌264「われ贖われて」

 

聖書拝読:ルカの福音書23章33節~43節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43)

 

メッセージ主題:『ふたりの罪人』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『痛みから逃げない主』と題しまして、イエス様が十字架に磔になり、兵士たちが慣例的に飲ませようとした、痛みを和らげるぶどう酒を飲まれなかったことを通して、イエス様の罪の贖いの本気を見させていただきました。今朝は、『ふたりの罪人』と題しまして、イエス様とふたりの罪人が十字架にかかり、そのところでのふたりの罪人のイエス様に対する処し方とイエス様の応答から、私たちの信仰のあり方を見させていただきたく思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

マンガ聖書物語での描写と少しズレがありますが、イエス様を十字架にかけたローマ兵に対して、イエス様は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」とおっしゃいました。その時、兵士たちは、イエス様の着物をくじを引いて分け合っていたのです。そのことについては、ヨハネの記録の方に詳しく記されています。(19章23節~24節)また、詩篇22篇18節の「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」という言葉が成就しているとも指摘しています。私は、ここで、どうして、罪人扱いされたイエス様の着物を分け合うのだろうかとずっと不思議でありました。しかし、最近読み始めました「聖書の土地と人びと」という三浦朱門、曽野綾子、河谷龍彦氏方の対談集の中に、当時の衣類のことが少しのっていました。衣類は日本の着物と同じで反物として扱われ、現代の服のように布地を裁断するのではなく、一枚ものや反物を縫い合わせて、長く着ていたそうです。なぜなら、綿ではなく亜麻布であり、着物は今とは違い高価であったからです。そのことをふまえて、このイエス様の着物も下着もとったということが理解できるのではないでしょうか。このことを理解できたからといって、イエス様の福音の直接的な理解の助けにはなりませんが、当時の暮らしぶりを理解することは、聖書を読み解く上で、とても有益だと感じております。

 

兎に角、ローマ兵たちがイエス様の着物を分け合った時に、彼らに対して、彼らの無知、彼らが救い主を目の前にして、古着を分け合っているという超現実的な事にしか気を留めていないことに対して、イエス様は「憐れみ」を感じ、天の父である神に彼らの盲目に対する赦しを乞うたのであります。彼らの古着を分け合うという行動に対してではなく、そのような日常にしか目がいかない、本当の救いを知らない、または知ろうともしない彼らの盲目に、主であるイエス様は悲しみを感じたのであります。そして、その「憐れみ」は、そこにいるローマ兵だけではなく、イエス様をののしっている民衆、「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(マタイ27:40)と言っていた野次馬たち、そして、イエス様の両横に同じように十字架にかけられている罪人二人にも向けられているのです。

 

イエス様は彼らのののしりに対して、気分を害しているわけではなく、彼らの目が閉ざされていることを憐れまれておられるのです。彼らに対して、「地獄に行け」とののしりかえしたり、「あなたたちは天国にいけないだろう」と裁きを下してはおられないのです。私たちの主であるイエス様はどこまでも憐れみの方なのであります。

 

イエス様は両隣にいる罪人ふたりにも憐れみをかけておられます。一方は「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と悪口をイエス様に浴びせます。彼は、いわば、死を目前にしてやけくそになっているのです。彼は死にたくないのです。十字架にかかり、もう数時間で死ぬ運命にありますが、彼はこの現世の死がすべてだと思って、死に物狂いで死から逃れようとしているのです。ですから、「私たちを救え、もしキリストなら!」と声を張り上げるのです。イエス様は、この罪人に対しても、恐らく「父よ。彼をお赦しください。彼は、何を言っているのか自分でわからないのです」と心の中でおっしゃっておられたに違いありません。

 

もう一方の罪人は、彼とは違っていました。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と、自分の悪行を認め、イエス様が清廉潔白な方であることを信じたのであります。そして、次にイエス様にお願いしたことが大切であります。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と懇願しました。これは懇願の形ではありますが、彼の信仰告白でもあります。「あなたの御国の位に着く」とは、「天の王として、神としての栄光を受ける」ことを意味し、実質、イエス様をキリストであり、ユダヤ人の王であり、神であると告白したのであります。そして「私を思い出してください」とは、この現世での死が、つまり肉体の死が、真実の死ではなく、霊としてのいのちがあることを信じ、その救いにあずかりたいと願っているのであります。イエス様は彼の信仰に応え、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」とおっしゃいます。彼はこの時点で救われたのであります。イエス様によって、永遠のいのちを約束された第一号は、使徒でもなく、家族でもなく、十字架につけられた極悪人でありながら、悔い改め、イエス様をキリストを信じ、イエス様にたましいの救いを求めた人でした。

 

私たちはここに、アブラハムと同じ、いえ、それ以上の「信仰義認」あるいは「救い」の本質を見る恵みにあずかれるのであります。アブラハムは、主が幻のうちにのぞみ、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と仰せられたことを、夫婦に子どもがいまだないにも関わらず、そのまま信じたのであります。ですから「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:5-6)と言われるわけです。この罪人は、「イエス様を主である」と信じ、「イエス様に肉体の死後のたましいの救いを求めた」のであります。そして、それだけではありません。彼はその前に、現世での悪行をイエス様の前で悔い改めたのです。私はここに、新約聖書における信仰義認(あるいは救い)の本質を見るのであります。①イエス様の前で悔い改める(罪を告白する)、②イエス様を主であると信じ告白する、③イエス様にたましいの救いを求める。救いの条件はこれだけなのです。礼拝を守ったり、善い行ないをしたり、聖書を読んだり、祈ったり、賛美したり、それらはいわば二次的なもの、救いの副産物なのです。もちろん、救いにもれないようにするためにも、また信仰を通して励まし合ったり、隣人にイエス様を紹介したりするにも、これらのことは、とても大切なことです。しかし、このイエス様による救いの第一号である罪人は、礼拝することも、善い行ないをすることも、聖書を読むことも、祈ることも、賛美することも、そのようなチャンスすらも与えられず、ただ信仰告白し求めるだけしか猶予はありませんでした。それにもかかわらず、イエス様は彼を引き上げられたのです。それは、死を目前にした人の病床洗礼と同じことが言えるでしょう。

 

では、もう一方のイエス様に罵声をあびせかけた罪人は、地獄にいくのでしょうか。イエス様はそこまではっきりとはおっしゃっておられません。私たちが今分かることは、イエス様といっしょにパラダイスに行った罪人が示した三つのステップ・条件、①イエス様の前で悔い改める(罪を告白する)、②イエス様を主であると信じ告白する、③イエス様にたましいの救いを求める、これらのことをこの世に生あるうちに行なうことで、永遠のいのちにあずかれる、イエス様とともにパラダイスに行けるということだけなのです。そして、これが良き知らせである福音であります。福音は本来、とてもシンプルなのです。また、このステップはイエス様との個人的なものなのです。決して、他人に左右されることのないものなのです。他人が躓かせることのできないのが福音なのです。「私は、あの人によって信仰を失くした」というのは真赤なウソです。それは、イエス様との個人的な関係、あの三つのステップをちゃんと踏まえていないからです。また、そのように、導かれなかったからです。どうか、このことを忘れないでいて欲しいのです。福音はシンプルで個人的です。シンプルゆえに、人に伝えることができるのです。個人的なゆえに皆さんの救われた喜びが伝わるのです。

 

とりあえず教会に行こう、とりあえず礼拝しよう、とりあえず善い行ないをしよう、とりあえず聖書を読もう、とりあえず祈ろう、とりあえず賛美しよう、これでは救われないのです。救いの確信や喜びは長続きしないのです。どれだけの人が福音を聞き、福音にあずかり、福音から遠ざかっていったことでしょうか。ある牧師の方が、「救われた喜びはどんどん色あせていく」という表現を使われました。本当にそうでしょうか。救いは一時の感情なのでしょうか。私個人的には、「救われた喜びや感謝は、年を追うごとに増してきている」ように思われるのです。主を知れば知るほど、聖書を読めば読むほど、祈りをすればするほど、喜びや感謝は増してくるのです。皆さんも、この三つのステップを経て信仰を持たれたはずです。どうか、そのことをもう一度、思い起こしてほしいのです。救われた喜びが色あせていくのではなく、日ごとに、喜びと感謝が増すはずです。福音はシンプルです。シンプルに確信し、シンプルに個人的にお伝えしていきましょう。

 

今から3分間、黙想をいたします。今朝、イエス様がお示しくださいました、救いの三つのステップ、皆さんが救われた時のことを思い起こしてください。劇的な救いの確信が与えられていなくてもいいのです。いえ、ほとんどの人が、そうではなく、大なり小なり何かを求めて、イエス様を知ったはずです。福音はシンプルです。イエス様の前で罪を告白し悔い改めたはずです。イエス様を主であると信じ告白したはずです。イエス様にたましいの救いを平安を求めたはずです。

主にあって喜び、感謝をささげましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「ふたりの罪人」と題しまして、私たちが救われた時のことを思い起こさせていただき感謝いたします。また救いの喜びと感謝は日ごとに増してきています。それも全てイエス様が私たちの内で働いてくださっておられるからであります。ありがとうございます。今朝の学びを、主イエス・キリスト様の御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

賛美: 新聖歌257「キリストは生きておられる」

賛美: 今月の歌・新聖歌254「心にあるこの安きを」

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7






Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

 

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

 

Reach out: 手を伸ばして届く