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メッセージ主題:『主に栄光を帰する』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年7月8日 教会創立一周年記念礼拝第一弾

礼拝前祈祷:10:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:11:00

賛美: 新聖歌143「いとも尊き」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Seek Ye First」

交読: 交読文30:詩篇第96篇:新聖歌p.903-4

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌105「栄えの冠りを」

 

聖書拝読:ルカの福音書23章44節~48節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(46)

 

メッセージ主題:『主に栄光を帰する』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

また、今朝はぶどうの木キリスト教会、創立一周年記念第一弾の朝でございます。創立日は2017年7月17日、7のよくつく日でございます。7は聖書では絶対数として無限や永遠を現します。創立してから1年を迎えられますことに、神様とささえてくださっておられる皆さまに感謝いたします。さて、創立記念では、ありますが、いつもどおり、「イエス・キリストの生涯」を見させていただきたいと思います。

先週は、『居場所』と題しまして、イエス様が弟子のヨハネに母マリヤを引き取るように願ったところから、人間関係という意味でのイエス様の目に映る教会のありかたを考えさせていただきました。今朝は、『主に栄光を帰する』と題しまして、イエス様が十字架上で放った最後の言葉「父よ。わが霊を御手にゆだねます」から、イエス様が、この地上でのミッションを完了し、父なる神の栄光を現わす、その姿勢に学ばせていただきたく思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

イエス様は、十字架上で七つの言葉を発せられました。

  1. 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

  2. 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

  3. 「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネ19:26、27)

  4. 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』(マタイ27:46)

  5. 「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)

  6. 「テテレスタイ、完了した。」(ヨハネ19:30)

  7. 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 

今日は、その七つ言葉のうちのひとつで七番目最後の「父よ。わが霊を御手にゆだねます」という言葉から、イエス様の神に従順し全てをゆだねる姿勢と、また47節にあります、百人隊長の、人の死にあっても神をほめたたえる姿勢に、学ばせていただきます。

 

イエス様は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』とおっしゃる中で、過去現在未来にわたる人類すべての罪を背負われ、神から遠く離れた存在と自らがなられ、「わたしは渇く」と神から全く離れたがゆえに、切に神を求められました。そして、全人類の罪の帳消しのための犠牲としての肉体的な死が近づいてきているのを知って、「テテレスタイ、完了した。」とおっしゃられ、イエス様の神である父から与えられたミッションが完了し、神と人間の間にあった隔てを取り除かれました。それが「神殿の幕は真っ二つに裂けた」という出来事であります。この神殿の幕は分厚く、外からの光をいっさい遮断するものであり、人間の罪によって、義であり聖である神とは交わることのできない事の象徴でありました。しかし、イエス様が「完了した」とおっしゃられた時点で、その幕は引き裂かれ、私たちは、私たちはイエス様の犠牲、罪の贖いによって、神の御座に大胆に近づくことが許されたのであります。ゆえに、ヘブル書の著者が次のように唱えることができたのです。「私たちの大祭司(イエス様のことですが)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4:15-16)このように罪人の私たちが、神に「父よ」と呼びながら、大胆に近づけるのは、イエス様がご自分の命と引き換えに、執り成しをしてくださったからであり、「アバ、父よ」とおっしゃられるイエス様が、私たちを「兄弟」と呼んでくださいますから、私たちも神を「父」と呼べるようになったのであります。それもすべて、イエス様が神である父のイエス様に与えられたミッションを「完了してくださった」おかげなのであります。

 

そして、イエス様は肉体の死を迎え、三日目に死を克服して復活されるのであります。このことが、今朝の中心聖句のお言葉「父よ。わが霊を御手にゆだねます」に表現されています。この「わが霊を御手にゆだねます」とは、「父の許に帰る」ことを意味しています。イエス様は、「だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが父を見たのです。」(ヨハネ6:46)とおっしゃいますように、イエス様は、父なる天の神からでて、ミッションを終え、天に戻って行かれる方なのです。つまり、イエス様のミッションはすべて神様のなせる業であり、ご計画でありますから、そのミッションを終ええたことに対して、神の御名をあがめ、讃美するのです。それが、イエス様の十字架での最後のお言葉、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」に現されています。「主に栄光を帰す」とは、ことなのです。全ては、神様のご計画、神様の業、そして神様の創造であります。神によって創造された私たちは、どんなことがあっても、どんな目に遭っても、神の御名を讃美すべきなのです、主に感謝すべきなのです、神に栄光をお返しすべきなのです。

 

私は、6月、エゼキエル書を読んでいました。エゼキエル書は、バビロン捕囚の真っただ中にある預言書であります。そして、至るところに「わたしが神、主であることを知ろう」というフレーズが置かれています。二か所ほど読んでみましょう。まず、25章6節7節です。「まことに、神である主はこう仰せられる。あなたは手を打ち、足を踏み鳴らし、イスラエルの地を心の底からあざけって喜んだ。それゆえ、わたしは、あなたに手を伸ばし、異邦の民にあなたをえじきとして与え、あなたを国々の民の中から断ち滅ぼし、国々の間から消えうせさせる。この時、あなたは、わたしが主であることを知ろう。」ここでは、イスラエルの民があまりにも神をないがしろにするため、神がバビロン軍をつかわして滅ぼす。それでやっと、誰が神であり主であるのかを知り、神である主に戻る、栄光を主に帰すようにと説かれています。また、それとは逆に、28章26節では、「彼らはそこに安らかに住み、家々を建て、ぶどう畑を作る。彼らは安らかにそこに住みつこう。回りで彼らを侮るすべての者にわたしが裁きを下すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう」と記されていますように、バビロン捕囚で、散らされた民がイスラエルに戻って来きて、平和に暮らす、そのことによって、「主を知る」「主に栄光を帰す」のであるとエゼキエルは預言するのであります。

 

また、パウロは若いテモテを励ますつもりで、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(2テモテ4:2)と福音宣教の大切さを説きます。この励ましの言葉の根底には、パウロの1テサロニケ人への手紙の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(5:16-18)という意識があります。そして、それこそが、「時が良くても悪くても、常に主の御名をあがめ、讃美し、主に栄光をお返ししなさい」ということなのです。

 

バビロン軍によって、イスラエルが離散し、崩壊したとしても、「主を知り、主を讃美し、主に栄光をお返ししなさい」。バビロン捕囚が終わり、イスラエルが元のように集められ平和になれば、「主を知り、主を讃美し、主に栄光をお返ししなさい」と、エゼキエルはそのように訴え、神はエゼキエルを通して、私たちに、私たちの人生の主役は私たちではありますが、主権者は私たちではなく、創造の神、主であると告げておられるのであります。そして、イエス様はそのことを、十字架の上から教えてくださっておられるのです。「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」「父よ、主の御名を讃美し、主に栄光をお返しいたします」と。

 

そして、この事が何となくかもしれませんが、分かっていた人がイエス様の周りに一人いました。その人は、イエス様の弟子でもなく、家族でもなく、ましてユダヤ人でもありません。その人はローマ軍の百人隊長でした。この百人隊長は、イエス様をして「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」と言わしめたローマ軍の百人隊長、マタイ書8章にでてくる、「部下の病気を治していただくように、その場で命令し癒して下さい」とイエス様にお願いした、その当時カペナウムに駐在していた百人隊長、彼なのかどうかは、分かりませんが、ルカ書23書の百人隊長は、イエス様の十字架上でこと切れるまでをずっと見ていた人で、イエス様が息を引き取ったときに、「神をほめたたえ」たと記録にある唯一の人であります。他の人は、胸をたたき嘆き悲しんだのでありますが、この百人隊長だけは、その悲しみのなかでも、「神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった』と言ったのであります。つまり、彼は主の御名をあがめ、イエス様に神を見たのであります。彼が、イエス様をキリストと信じ、後に信仰をもったかどうかは全く分かりませんし、もともとユダヤの神を信じていたかどうかも分かりませんが、この百人隊長は、このイエス様の死にあって、神をほめたたえたのであります。彼は、ただ単にイエス様の神に対する姿勢に感動した訳ではなく、イエス様の荘厳さを目の当たりにし、「神をほめたたえた」と記録にある限り、神をあがめ、主の御名を讃美したのであります。

 

私たちはどうでしょうか。時が良くても悪くても、主の御名を讃美し、主をあがめ、主に栄光を帰することができるでしょうか。いえ、そうしましょう。そうしますと断言しましょう。すべての事は、主権者である神を知るために、主の御名をほめたたえるために、神が、そのように導いておられるのですから。神にすべての栄光をお返しいたしましょう。

 

今から3分間、黙想をいたします。今朝は、特に先週からの未曽有の豪雨、およびその前にありました地震のかずかず、そして今後起る災害が、もし神を知るためのものであるなら、それらの災害から免れることも、速やかな回復も、神を知るためのものであるはずです。できますれば、災害から免れ、また早い復興によって、私たちが神を知ることができますように、祈り導いていただきましょう。また、自分の身の上に、どんなことが起ころうとも、主の御名を讃美し、主に栄光をお返しする者とさせていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「主に栄光を帰する」と題しまして、時が良くても悪くても、私たちが主を見上げ、主に信頼し、祈り続け、主の御名を讃美し、感謝するとともに、主に栄光をお返しすることを学ばせていただきました。どうか、そのような者となれるように、内に住み給う聖霊を通して導いてください。

今朝の学びを、主イエス・キリスト様の御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌428「キリストには代えられません」

賛美: 今月の歌・新聖歌113「君もそこにいたのか」

今月のワーシップソング「Seek Ye First」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

Seek Ye First

(Words & Music by Karen Lafferty)

 

Seek ye first the Kingdom of God

And His righteousness

And all these things

Shall be added unto you

Allelu Allelujah

 

Seek: 探し求める

Ye: = you

Kingdom: 王国

Righteousness: 義(正しいこと)

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