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メッセージ主題:『主は生きておられる』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年7月22日 教会創立一周年記念礼拝第二弾

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌102「主は命を」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Seek Ye First」

交読: 交読文32:詩篇第103篇:新聖歌p.905-6

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌103「わがためイエス君」

 

聖書拝読:ルカの福音書24章1節~12節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。』」(4-5)

 

メッセージ主題:『主は生きておられる』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『復活への第一歩:野ざらしにならなかったイエス』と題しまして、イエス様が十字架で死なれ、その遺体を野ざらしではなく、真新しい墓に葬られたことから、神様のご計画を見させていただきました。今朝は、『主は生きておられる』と題しまして、イエス様が十字架で死なれ、真新しい墓に葬られ、三日目に、よみがえられたこととその言葉の意味を学ばせていただきたいと思います。     まず、お祈りいたします。(祈り)

イエス様は、十字架にかけられる以前から、何度も弟子たちに「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして、彼らに殺されるが、三日目によみがえります」(マタイ17:22-23)と告げられました。またそのことは弟子たち以外の民衆にも、そして祭司長たちの耳にもとどいていました。ですから、祭司長たちは、ピラトに「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後に、よみがえる。』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。」(マタイ27:63-64)とお願いしています。しかし、弟子も含めて誰一人として、イエス様がおっしゃった、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)というお言葉が、三日目によみがえり、新しく霊的神殿、聖霊が私たちの心の内に宿って、私たち自身が聖霊の宮、神殿となることを理解できませんでした。ですから、民衆は十字架にはりつけられたイエス様に、「おお、神殿をこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」(マルコ15:29-30)と揶揄するのであります。

さて、安息日が終わり、週の初めの日の早朝、マリヤたちは、弔い用の香料をもって、イエス様が安置されている墓に行きます。しかし、墓の入口を封印していた石はわきに転がされていて、また兵士たちもいません。不思議におもって、墓の中に入ってみますと、はたして、イエス様の遺体がありません。ヨハネ書では、もう少し詳しく描かれていて、イエス様を包んでいた亜麻布はあり、また頭に巻かれていた布切れは亜麻布から少し離れてるところに巻かれたまま置かれていましたが、イエス様の遺体は見つかりませんでした。(ヨハネ20:6-7)イエス様の頭に巻かれていた布切れがそのまま巻かれたまま置いてあったということは、誰かがイエス様の遺体を持ち去ったということではなく、イエス様が消えてしまったことを示唆するものであります。

 

しかし、ただ単に、マジックショーのように、イエス様は消えたのではなく、二人の天使が、イエス様は「よみがえられたのです」とマリヤたちに告げます。『イエス様が死を克服し、よみがえり、今生きておられること』を。もしも、ベタニヤのマリヤと姉のマルタがもしこの場にいたとしたら、彼女たちは、弟ラザロをよみがえらせた時のイエス様のお言葉を思い出したのではないでしょうか。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」あの時、彼女たちはこの言葉をすなおに信じたのです。しかし、イエス様の墓に行ったマリヤたちは、キツネにつままれたような顔をして、墓からでてきたのではないでしょうか。まだイエス様の復活の確信がもてないでいたのではないでしょうか。目に見える「死」という現実が、彼女たちをまた私たちを、真実から遠ざけるのであります。

 

さて、今朝は、「主は生きておられる」ということは、私たちにとってどういう意味があるのかを考えてみたいと思います。もちろん、イエス様は死を克服してよみがえられました。しかし、この「主は生きておられる」というようなフレーズは、旧約聖書にもよく出てきます。この言葉が最初に出てきますのは、民数記14章21節です。その前後20節から23節までをお読みいたします。「主は仰せられた。『わたしは、あなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地をみることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。』」 ここでは、「主は生きている」ということは「主の栄光が全地に満ちている」つまり、「主が民の前に奇跡や業を行い、民が主を知るきっかけとなる」ことを意味しています。また、パウロは、ローマ書の中でイザヤ書の45章23節を引用するところで、「主は生きておられる」ことを付け足しています。14章11節です。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」 つまり、「主は生きておられる」とは「主は生きて私たちが主を畏れ、主を知るために、主の御名をあがめるために働いてくださっておられる」ことであります。

 

エレミヤは、「主は生きておられる」という言葉は、誓いの言葉であるとしています。エレミヤ書4章2節では、「あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。」とされます。また、12章16節では、「かれらが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる。』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。」とあり、「主は生きておられる」と誓うことは、真の信仰を告白する方法でもあるのです。実に「主は生きておられる」は、信仰告白の一番短いバージョンとも言えるでしょう。

 

イエス様が安置されていた墓に現われた二人の天使たちが言った「生きている方」とは、もちろんよみがえったイエス様を差し、イエス様に対する信仰の誓いの言葉ではありません。しかし、それを聞いたマリヤたちは、「主は生きておられる」という信仰告白の言葉が、その天使の言葉にかぶせられていったのではないでしょうか。イエス様を「主」として信じあがめていたマリヤたちは、天使の「イエス様はよみがえり、生きておられる」というメッセージに、初めはとまどったかもしれません。しかし、イエス様の「三日目によみがえる」というお言葉を思いだし、徐々に、「主はよみがえられた」という確信に変わり、そしてついに「主は生きておられる」という信仰告白へと導かれていったのではないでしょうか。墓から出て、弟子たちの集まっている所にかけていく間に。

 

私たちも、この時のマリヤたちのようでありたいと思います。「主がよみがえられた」という確信なしには、「主は生きておられる」という信仰告白はできないのであります。私たちは、本当に、「主は生きておられる、主は私たちの内にいて、働いておられる」と確信しているでしょうか。私たち自身が「主の聖なる宮」であり、「キリストである聖霊の住み給う神殿」であり、主にすべてを明け渡した者となっているでしょうか。もちろん、今の私たちは完全ではありませんし、まだまだ罪深い性質を持っている者です。しかし、「主は生きておられる」と告白し、「私を、常に主を受け入れ、主を喜び、主に従うものとさせてください、造り替えてください」と願う者であるでしょうか。いえ、今から、心からそのように願う者とさせていただきましょう。

 

今から3分間、黙想をいたします。どうか生きておられる主に願って下さい。「主は生きておられる」と告白し、主を畏れ、主に全く従うことのできる者へと造り替えてください、と願い祈りましょう。また、あなたの心を主に探っていただきましょう。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「主は生きておられる」と題し、「主がよみがえられた」と信じることは、「主は生きておられる」と信仰告白することでもあることを学びました。どうか、私たちが、常に「主は生きておられる」と告白する者となるように、私たちをお導きください。また、先日の豪雨による被災地域の方々、また関係者、ボランティアの方々の健康が守られ、事故や二次災害からも守られますように。恐ろしいほどの猛暑であります。熱中症からも、すべての方々が守られますようにお祈りいたします。

今朝の学びを、主イエス・キリスト様の御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌104「十字架の上に」

賛美: 今月の歌・新聖歌113「君もそこにいたのか」

今月のワーシップソング「Seek Ye First」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

Seek Ye First

(Words & Music by Karen Lafferty)

 

Seek ye first the Kingdom of God

And His righteousness

And all these things

Shall be added unto you

Allelu Allelujah

 

Seek: 探し求める Ye: = you

Kingdom: 王国 Righteousness: 義(正しいこと)

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