大阪エイムキリスト教会 火曜日リバイバル集会 2018.7.24
中心聖句:ヨハネの福音書19章25節~27節(新改訳聖書)
「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロバの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
メッセージ主題:『居場所』
こんばんは、そしてお帰りなさい。私が「お帰りなさい」と、もう一度、申し上げますから、皆さんは「ただいま」とおっしゃってくださいますか。
おいおい、私がこのようにお願いした意味がお分かりになると思います。
では、言ってみましょう、「お帰りなさい」、、、「ただいま」、、、ありがとうございます。
(スクリーン①写真)ジャンガリアンハムスター
最近、私は、ジャンガリアンハムスターのメスを一匹飼いはじめました。名前をジョイといいます。この種のハムスターは2年前後が寿命で、私は、すでに9カ月たったものを買いました。ペットショップで売れ残った小動物は、肉食動物の餌になることもあるそうです。ですから、私は、一番年上のお姉さんをいただきました。人間の寿命を80歳とすると、30歳ぐらいの働き盛りの女性というところでしょうか。実に可愛いです。
使っていない水槽がありましたので、その中におがくずを入れて飼っています。
もちろん、この猛暑ですから24時間エアコンをきかして、その水槽を涼しい所においています。10日間前後を基準に、その古いおがくずを新しいのに入れ替えます。
水槽や餌箱も熱湯消毒して、ダニの発生をできるだけ防ごうとしています。
それにジョイちゃんをお風呂に入れてあげるのですが、お風呂は最初はむちゃくちゃ嫌がりました。しかし、ちょうどいい湯かげんのシャワーをお腹辺りにかけてあげますと、
ほーっという顔をして、「極楽極楽」いえ「天国天国」という気持ちでしょう。
まったく動かなくなってほっこりしております。
先ほども申しましたが、10日間ほどで、新しい環境になります。ですから、ジョイは、まず、自分の居場所を作ろうと、いろいろと新しいおがくずの中を探索したり、移動したりして、自分の居心地のいい場所造りから始めます。
私たちもそうではないでしょうか。
家庭や職場、学校、それぞれの環境の違うところで、自分の居場所作りをしているのではないでしょうか。自分の部屋をもったときのうれしさは、私は今でも覚えています。
机や本棚の配置をいろいろと変えてみたりして、、、
また、自分の部屋がなかったとしても、自分の机が与えられたりすると、ちょっと落書きを見えないところにしてみたくなったり、名前を書いたりして。学校や職場では、机が与えられても、落書きはできません、、、ですよね。皆さんは、よいこでしたでしょうから、机のどこかに名前をほったりしていませんですね。でも、なんか上に置いて飾ってみたり。それは、その机を自分のものにしようとしているのではなくて、自分の心地よい居場所を作っているのではないでしょうか。机という訳ではなく、私たちは自分の置かれている空間や環境を快適にする、また、居心地よくしたいと思うのではないでしょうか。
最近、会社では、自分の机を持たず、ロッカーがあって、ノートパソコン一台で、いろいろなテーブルの置かれた空間で、作業し、会議室ではそのノートパソコンだけを持って行ったり。そのような会社や会社の部署が増えてきているようです。その空間の中では、どの場所に行っても、どのテーブルを使ってもいいのですが、だんだん時間が経つにつれ、だいたい場所が決まって来るようです。それぞれの人が自分の一番居心地のいい空間を見いだすのであります。
今の皆さんもそうではありませんか。前に座る人、後ろに座る人、端に座る人、そして真ん中に座る人。それぞれが、それぞれに一番心地よい空間を見つけるのです。
そして、ほとんどの皆さんは、毎週日曜日に、この教会に集われ、神様からの御言葉を聞かれます。どうして、毎週来られるのでしょうか。毎週来ないと、誰かに怒られるのでしょうか。誰かに注意されるのでしょうか。そうではないはずです。
毎週、来たいから、神様の御言葉を聞きたいから、牧師先生を筆頭に教会員の皆さんにお会いしたいから、みんなと一緒に神の御名を賛美し、祈りたいから、だから、この教会に集まるのではないでしょうか。もうすでに、皆さんは、この教会をご自身の居場所とされておられるのです。家庭や職場や学校など、他にもご自分の居場所があるでしょう。
しかし、皆さんには、ここも、この教会も、皆さんの大切な居場所となっているはずです。教会には、一週間に一度しか、いらっしゃらないかもしれません。今日は火曜日ですから、一週間に二回来られるのかもしれません。しかし、皆さんは、毎日聖書を読まれ、毎日、お祈りや讃美をする時間を取られておられるのではないでしょうか。または、そうしようとされておられるのではないでしょうか。それも御自分のプライベートな場所で行われているはずです。皆さんには、このことを覚えていただきたいのですが、家でお祈りや讃美をする霊的な空間と、この教会とは霊的につながっています。ですから、この教会にいらっしゃるのが、週に一、二度であっても、霊的には、毎日この教会に来ていることと同じなのです。あなたの身体がこの教会にないときであっても、あなたの心は、今あなたの座っておられる場所にあります。
そして、もっと大切なことは、イエス様があなたのそばにいらっしゃることです。
今夜は、この居場所のことについて、もう少し、聖書のところから考えさせていただきましょう。
今晩の聖句を見てください。イエス様が弟子のヨハネに母マリヤを引き取るように願ったところであります。
(スクリーン②聖句1)ヨハネの福音書19章25節~27節(新改訳聖書)
「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロバの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
十字架にかけられたイエス様のそばには、マリヤが少なくても三人いました。イエス様の母マリヤとクロバの妻のマリヤ、それとマグダラのマリヤであります。この三人のマリヤは、常にイエス様と行動を共にしていた女性たちのうちの、代表的な存在でありました。
もちろん、その中でもイエス様の母、マリヤは別格であります。
しかし、イエス様が、30歳の時に、福音を宣べはじめてからは、母マリヤを、「母」とは呼ばれませんでした。尊敬をこめた呼び方としての「女の方」と呼ばれたことが二か所、記録に残っています。一つは先ほど読まれましたヨハネ書19章26節のところ、そしてもう一つは、イエス様の最初の奇跡、水をぶどう酒に変える奇跡のところです。
少し見てみましょう。ヨハネ書2章4節です。
(スクリーン③聖句2)ヨハネの福音書2章3節~5節
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
この後、イエス様は、「6つあった水がめに水を縁までいっぱいに入れなさい」と、そのように手伝いの人に言って、「そこから、その水を汲んで宴会場にもっていきなさい」とおっしゃいます。はたして、その水が、最上のぶどう酒になっているという奇跡であります。
この奇蹟の話をいたしますと、長くなってしまいますので、ここでは、ほんの少しだけにしておきます。イエス様は、「女の方」と尊敬を込めて語られ、それに答えて、母マリヤは、息子であるイエスではなく、油注がれた者としてのキリストをそこに見いだし、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と手伝いの人につたえるのです。この時点で、もうすでに母と子の関係ではなく、それ以上の油注がれた者、つまりキリストとキリストを信じる者との関係なのです。
そのことが、もっと、よく分かりますのは、マタイ書12章48節~50節です。
(スクリーン④聖句3)マタイ書12章48節~50節
しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
イエス様が群衆に話しておられるときに、母マリヤと兄弟たちが、イエス様に何か話そうとして、外に立っていました。そのことを誰かが、「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています」そのように、告げますと、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。、、、天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」、とイエス様はおっしゃいました。ここに私たちは、イエス様の主にあっての家族観を垣間見ることができます。イエス様はこの「主にある家族」を大切にされるお方なのです。実母を母と呼ばず、尊敬をこめての、一姉妹としての「女の方」と呼ばれ、また、実母を特別扱いせず、他の主にある姉妹方と同じように、接しられたのではないでしょうか。ですから、今晩の聖書の箇所のように、母マリヤを弟子のヨハネにたくされたのです。
イエス様には兄弟姉妹がいました。ペンテコステ以降、弟子のペテロの後を引き継ぎ、エルサレム教会で指導的立場にいたヤコブ、その他にヨセフ、シモン、ユダ(マタイ13:55)
それと、二人以上の姉妹(マルコ6:3)です。しかし、イエス様はそれらの兄弟姉妹に、母マリヤの世話をするようにお願いしませんでした。それどころか、他人である弟子のヨハネに自分の母として引き取るように伝えました。それも十字架にはりつけにされ、もう死がそこまで来ている時にです。
私は、以前、この箇所を読んだ時に、『やはりイエス様も実母マリヤを母として愛しておられたのだ』と思っていました。ところが、最近、読み返したときに、もちろん、イエス様は母マリヤを愛されておられますが、実の兄弟姉妹ではなく、霊の兄弟に母を託された、それは実母への愛というより、一姉妹への大きな愛、主にあっての霊的な兄弟姉妹が、貧富の差を越え、障害の壁を越え、年令の差を越え、人種の垣根を越え、お互いがお互いを支え合う、お互いがお互いの必要を満たす、そのような愛の人間関係をイエス様はお示しになり、それを望まれたゆえのお言葉でではなかったでしょうか。
また、母マリヤも自分の実の息子や娘たちに世話になるのではなく、イエス様の弟子の世話になることを望み、その申し出を受けられたのであります。それは、まさしく、イエス様が以前におっしゃられていた「天におられるわたしの父のみこころを行なう者は、だれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」ということに通じるのであります。主にあっての、キリスト・イエスを中心とした家族、これが教会の姿なのであります。
イエス様は、十字架上での死後、三日目に復活されました。そして天に上げられたのち、ペンテコステの聖霊降臨によって、教会が誕生します。イエス様は、マリヤという名のひとりの老姉妹を若い弟子である兄弟に託すことで信仰による生活協同体の基礎を築いたのではないかと、私は思うのであります。もちろん、イエス様は、三年間の公生涯の中で、財産を共有し、宣教のために用いることをなさいましたし、弟子たちもそのように教育されたことでしょう。しかし、弟子たちの間で、他人の両親や祖父母の面倒を見ることは
イエス様が活動しておられる時にはなかったのではないでしょうか。またその記録も福音書にはございません。記録にないからといって、しなかったことにはなりませんが、
イエス様が、死の直前の、最後の最後になって、母マリヤを弟子ヨハネに託したということを考えますと、それまでにはなかったのではないかと想像するのであります。そして、イエス様の母マリヤが、弟子ヨハネの世話になることは、大きな意味をもっていると私には思えるのです。
初期のキリスト教会では、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」(使徒4:32)そのように、自分の財産を差し出して、共有財産とし、必要に応じて分配していました。しかし、この信仰による生活協同体も、早い段階できしみが生じます。使徒の6章1節では、「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。かれらのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。」それだけではありません、働かないで他人をたよりにしている輩もでるしまつです。そして、この共同体は、早い段階で、個人を大切にしながら教会をささえるという、今のスタイルに変化するのです。
つまり、教会ありきの生活から、個人が守られての教会生活へと変貌してきています。このことが良いのか悪いのかは、私には判断がつきません。なぜなら、私も、個人が守られての教会生活にどっぷりつかっているからです。
では、私はここで何を申し上げたいのかといいますと、イエス様が十字架の上で、教会の霊的基盤である、「信徒の居場所」を作られたということです。教会という信者の集まりにおいて、皆さん、ここが、ひとりひとりの居場所になっているかということなのです。
イエス様は母マリヤという、一人の老姉妹のために、弟子ヨハネの母となる居場所を作られました。マリヤにとっては経済的な居場所ともなったでしょうが、世間話をするコミュニケーションとしての居場所、また神の御名をたたえる信仰的な居場所、共に祈りをささげる仲間としての居場所。イエス様は、そのような居場所を私たちに提供してくださったのです。
私は、この全ての垣根を越え、あらゆる状況において、教会は、主を信じる人たちの居場所を提供するようにと、イエス様は、私たちにおっしゃっておられるような気がするのです。老若男女を問わず、主にある兄弟姉妹は、教会とつながり、教会に自分の居場所を見つける、そして、その居場所は孤立するものではなく、いろいろな方の助けと祈りによって支えられている、そんな居場所が教会という人の集まりであります。
その居場所はとても魅力的であり、新しい方も喜んで受け入れる包容力があり、そして続けて来ようと励まされる、そんな居場所を、イエス様は「作るんですよ」と、十字架の上から、おっしゃっておられるような気がするのです。
「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」
「そこに、あなたの母がいます。」
「そこに、あなたの兄弟姉妹がいます。」
皆さまの座っておられる場所は、皆さまのこの教会における居場所であります。それと同時に、この礼拝堂の中で皆さまの周りにいらっしゃる人たちに、その居場所は支えられているのです。お互いにお互いを支え合ってこその、居場所なのであります。個人の生活の中に、家庭や職場や学校などの居場所があるように、また、個人的な神様との交わりとしてのプライベートな居場所があるように、今、皆さまが座っておられる、その心地よい居場所には、主にある兄弟姉妹が伴っておられるのです。ただ単に、位置的に前後左右にいらっしゃるというのではありません。共に祈り、共に讃美をすることによって、私たちのこの居場所には、主が常に伴っていてくださるからです。
イエス様はおっしゃいます。
(スクリーン⑤聖句4)マタイの福音書18章22節
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
では、一人の時には、イエス様は伴って下さらないのでしょうか。いいえ。イエス様をあがめ、心と思いを一つにした教会にあなたの居場所があるなら、あなたは一人になったときでも、あなたの心である、霊的居場所は、教会にもあるのです。そして、主は、教会を通して、あなたに安らぎを与えくださいます。皆さんに祈られているという安心、主が常にささえてくださっているのだという確信、それらが、教会を通してあたえられるのです。
あなたの人生の大きな居場所は、ここにあるのです。
なぜなら、イエス様が、「ここに、あなたの兄弟姉妹がいます、家族がいます」とおっしゃるからです。どうか、このことを覚えてください。
この外の世界でどんな辛いことがあったとしても、あなたは、ここに、あなたの居場所を見つけることができるのです。あなたには、この教会に、あなたの居場所が用意されているのです。
主はパウロを通して言われます。
(スクリーン⑥聖句5)ローマ人への手紙12章15節
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」
あなたの居場所はここにあります。あなたの帰る場所はここにあります。
「おかえりなさい」
お祈りをいたします。