つかしん朝祷会
7月27日(金)
聖書箇所:エゼキエル33章30節~33節
人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。
題:「Start Over:やりなおし」
エゼキエルはバビロン捕囚の民と一緒にいた預言者であります。そしてバビロン捕囚の民は、南王国ユダの民であり、3回の捕囚で、男性4600人が捕囚されていったとエレミヤ書52章30節に記録されています。つまり、その家族を合わせて約15000人が、バビロンに移されました。当時のユダヤ人の人口は約25万人ですから、ほぼ6パーセントにあたるユダヤ人がバビロンに捕囚されたのであります。たかだか4600人の男性が移されただけで、聖書の歴史は動くのであります。なぜなら、この4600人のほとんどが、政治的にも経済的にも、有力な支配者層の人々と、あとは、技術者でした。技術者は武器も作れます。ですから技術者も含められました。数的には4600人ですが、されどユダ王国を動かす中枢の4600人であったわけです。その当時、ユダ王国に残されたのは、農民であり、貧民層の人々で、彼らの信仰はどんどんと異教化されました。そのことを神は嘆いています。エゼキエル書33章24節から29節までにあります。24節と25節をピックアップし、お読みいたします。「人の子よ。イスラエルの地のこの廃墟に住む者たちは、『アブラハムはひとりでこの地を所有していた。私たちは多いのに、この地を所有するように与えられている。』と言っている。それゆえ、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは血がついたままで食べ、自分たちの偶像を仰ぎ見、血を流しているのに、この地を所有しようとするのか。」バビロン捕囚の時代、アブラハムの土地は、偶像礼拝で汚されていたのです。私はこのところを読むと、まるでモーセがシナイ山で神と語り終え、十戒の書かれた二枚の板をたずさえ戻ってくると、民たちは堕落し、金の子牛を作り、伏し拝み、それに犠牲(いけにえ)をささげている始末。出エジプト記の32章に記されていますが、霊的指導者がいないとこうも変わるものかと思わされるのであります。バビロンに移された4600人の支配者層は、ユダヤ民族にとっての霊的指導者でもあったのです。
さて、では、そのバビロン捕囚の民の生活環境はと言いますと、王の保護の下にあり、一定の経済的、社会的自由が与えられていたようであります。エレミヤはそのことを預言し29章4節から14節に記しています。5節「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ」7節「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」10節「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこのところに帰らせる。」このように、彼らはエレミヤの預言から、希望をもって、バビロンに安住しようとするのです。しかし、この安住は、50年という捕囚期間の中で、信仰の荒廃が進んで行くのです。そして、主は、彼らをエルサレムに返す前に、捕囚の民に「主に立ち帰りなさい」と導くのであります。そのためにもエゼキエルは選ばれています。
エゼキエル書の33章から39章までは、バビロン捕囚からのイスラエルの回復が中心となっています。今朝の33章では、エゼキエルがイスラエルの見張り人として立てられ、捕囚の民は見張り人であるエゼキエルの警告に耳を傾けるべきだと神は唱えています。そして、神は「悔い改めよ、悪の道から立ち帰れ」と、民にチャンスを与えるのであります。たとえ善行を積んできたとしても、悪を行ない不正をすれば、死が訪れる。たとえ悪人であっても、悔い改めれば赦され、生きることができる。「やりなおし」ができると、そのように主はおっしゃるのであります。
今朝の聖句30節のところでは、エゼキエルはエルサレムの陥落を預言し、その預言が成就したことを捕囚にあった民衆の知る所となり、民衆は大挙してエゼキエルのところに向かい、次の預言を聞こうとするのであります。ユダヤ人にとっては、聖地エルサレムがついに陥落したという知らせは、相当ショッキングなニュースであります。特に捕囚の民は、かつて、エルサレムに住んでいた人たちが大半でしたから、「エゼキエルの『エルサレム陥落』という預言が成就した」というニュースは、集会場でも、家々の戸口でも、もう井戸端会議状態で持ちっきりであります。しかし、ここで彼らは「エルサレム陥落」について嘆いていないのです。荒布をまとい、灰をかぶり、断食し、地にひれ伏して、「自分たちが主に従わなかったから、エルサレムが陥落した。主をお赦しください」とは言っていないのです。もしそのような気持ちがあったとしたら、エゼキエルが預言した時点で、民衆はそのようにしたでしょう。
ニネベに対するヨナの預言を思い出してみてください。ヨナ書3章です。ヨナは、大嫌いなニネベの町ではありますが、主のお言葉通りに、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫んで、ニネベの町を一日中歩き回ります。するとどうでしょう、すぐさまニネベの人たちは、神を信じ、断食をし、荒布をきて、悔い改めるのです。ニネベの王も、荒布をまとい、灰をかぶり、悔い改めの断食を町に布告するのです。神はニネベの人たちが悪の道から立ち返るために努力しているのをごらんになって、ニネベの町を滅ぼすのを思いとどまるのです。彼らは「やりなおす」ことができたのです。
しかし、バビロン捕囚の民は、エゼキエルの預言を聞いても、そのようにはしませんでした。「エルサレム」は彼らにとってとても重要な場所ではありますが、バビロンに移され、バビロニアの文化も取り入れつつ比較的自由な暮らしを保証され、「エルサレムの陥落」はどこか心の隅で他人事のようになっていたのかもしれません。ですから、「あのエゼキエルの預言が成就した」とニュースになるのです。「他の預言者とくらべて、エゼキエルはすごい、大した奴だ」と話題になっていたのです。彼らは、「エゼキエルはすごい預言者だ。彼が次にどのような預言をしてくれるのだろうか。私たちはどうなるのだろうか」と、口々に言い合いながら、エゼキエルのもとに集まり、彼の預言を聞こうとするのです。
しかし、その彼らの行為は、1等賞や2等賞がよくでる宝くじ売り場に人が群がるのと同じではないでしょうか。大阪駅前広場の宝くじ特設売り場は、その日になると、人人人であふれかえっています。人は何かにすがろうとするのです。宝くじ売り場では、人は当たる確立の高さにすがり、バビロン捕囚の民は、エゼキエルにすがったのであります。神ではなく、よく当たると評判のエゼキエルにすがったのです。彼らは、エゼキエルの口から「彼らにとって都合のよい知らぜ」を聞こうと集まってきたのです。神はそのような状況を、エゼキエルに伝えました。それが、31節32節に表わされています。「彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。」音楽のように、耳障りのいい言葉しか、彼らは期待していませんでした。
彼らがエゼキエルの口から期待していたのは、実にエゼキエル書36章37節38節です。お読みいたします。「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町町を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、私が主であることを知ろう。」民衆はエルサレムの復興を、イスラエルの回復の預言を待っていたのです。しかし、彼らは彼らの分を果たし、主のことばを実行しようとは考えなかったのです。神は彼らにイスラエルの回復の目的を告げます。 36章32節です。「わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。――神である主の御告げ――イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ。」イスラエルの復興は、民のためではなく、民が「神が主であること」を知るため、主の御名があがめられるためであります。そして、彼らは自らの悪い行いを恥じなければならない、悔い改めなければならない、主に立ち帰らなければならない、つまり、主に立ち帰って、信仰の「やりなおし」をしなさいと、主は告げられるのであります。
バビロン捕囚の民は、努力して、エルサレムに帰還をはたしたわけではありません。神がバビロニアを弱くし、かつペルシヤを強くし、そして、ペルシヤのキュロス王は、恐ろしいほどの寛大さをもって、イスラエルを含む、捕囚の民を解放し、それぞれの故国へと帰還させるようにしたのです。これは神の御業以外のなにものでもありません。神は、結局、捕囚の民の「信仰のやりなおし」を待たずに、彼らを帰還させて、その後で、神が主であることを知るようにしたのです。イスラエルの回復とともに、民の信仰の「やりなおし」を導いたのです。
さて、今朝のメッセージタイトル、Start Over でありますが、「やりなおし」という日本語をつけさせていただきました。「やりなおし」と言うと、最近では、コンピューター用語から一般的になりました、「リセット」または動詞として「リセットする」という言葉が頻繁に使われるようになってきています。日本語では、「初期化」「初期化する」という言葉になりますが、皆さん、よく「リセット」を使われます。「リセット」とは、今までのことは、全部忘れて、無しにして、ゼロからやりなおすことであります。私は、信仰における「やりなおし」はリセットではないと思っています。私たちは、間違いを起こせば、そこで立ち止まって、悔い改めて、また歩み出す。それが、信仰の「やりなおし」であり、Start Over であります。私たちの主は、リセットの神ではありません。神がリセットされるとは、人類を始めから造り直すということであります。それに近い状態になったのが、ノアの箱船の時でした。しかし、神様はリセットされず、ノアからStart Over されたのです。今朝、見させていただいた、ニネベの民も、バビロン捕囚の民も、神はそれぞれの形で、彼らをStart Over に導いたのです。ニネベの民は、悔い改めて Start Over を許されました。バビロン捕囚の民は、エルサレムに帰還させてStart Over するよう導かれました。私たちの主は、リセットの神ではなく、Start Over の神なのです。
私たちは常に間違いを犯します。同じ間違いを何度も何度も繰り返して、もう赦されないのではないかと思う時もあるのではないでしょうか。私などしょっちゅうです。もう何度も何度も、自分が嫌になってしまう時があります。しかし、私たちの主は、Start Over の神です。私たちは間違いを犯すたびに、その場に立ち止まり、悔い改めて、主の方を向き直し、歩み始めるようにと、導かれるのです。短気なリセットの神ではありません。辛抱強い Start Over の神です。イスラエルの民を見てください。聖書の中で、神は預言者を通して、何度も何度も、神の選ばれた民を神の下へと導きます。私たちの主は、創造の神です。私たちを造られ、私たちのことを、私たちの弱さをすべてご存知です。私たちが繰り返し間違いを犯すこともご存じです。百も承知なのです。主は、そんな私たちを根気よく導かれます。リセットの神には、愛がありません。ダメダメ人間である私たち(失礼、わたし)はすぐに見放され、見捨てられ、造り直されるはずです。しかし、神は愛です。私たちの主は、Start Over の神ですから、辛抱強く、根気よく、私たちを見守り、導き、愛してくだるのです。そして、私たちの主は、約束を守られる神です。神は私たちに、救い主、イエス・キリストをこの世に送り、ひとり子であるイエス様の命を犠牲にして、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。それは、預言者をとおして、契られた神の約束であります。そして、私たちも、イエス・キリストを信じたときに約束したはずです。イエス・キリストをずっと信じ愛しますと。イエス様を信じたということは、ずっと信じるということです。主を愛したということは、ずっと愛するということであります。なぜなら、主は永遠だからです。主と私たちの間の約束は永遠に保たれるのです。主は、キリストの血の約束として、永遠に私たちを赦し、永遠にStart Over に導かれるのです。そのような主を、私たちも、約束として、永遠に愛し続けなければいけないのです。もちろん、皆さんは、愛し続けたいはずです。
「愛する」ということは、「行動」が伴います。エゼキエルが口酸っぱくして説いたバビロン捕囚の民は、主の言葉をよろこんで聞きながらも、実行しませんでした、行動をおこしませんでした。何を実行しなかったのでしょうか。それは、「主に立ち帰る」という「やりなおし」であります。主は、「やりなおし」のチャンスを御言葉としてくださったのにも関わらず、彼らは、聞いて喜ぶだけにとどまったのです。
皆さんのよくご存じの聖句、聖句中の聖句といわれる、ヨハネの福音書、3章16節、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」すばらしい福音の御言葉であります。しかし、わたしたちはこの言葉と聞いて喜びますが、喜んでいるだけではダメなのです。ハレルヤと叫んで、主の御名を讃美しているだけではダメなのです。 神は私たちを愛するがゆえに、御子イエスをお送りくださいました。神は、実に、神の愛を行動で示されたのです。私たちが、御子イエスを通して、救われるようにと、失くしてしまった永遠のいのちを取りもどせるようにと、主は、私たちを、常に、Start Over 「やりなおし」に導いて下さっているのです。私たちが、その神の愛に応えるとすれば、御子イエスに従っていくことだけなのです、御言葉を実行することだけなのです。それも、Start Over を繰り返しながらでいいのです。私たちの主は、愛の神であり、Start Over の神なのです。どうか、自分が間違ったことをしたと思ったなら、御言葉に従っていないと悟ったなら、すぐに主の下に行き、ひれ伏して、悔い改めをし、やりなおしを願いましょう。『こんな同じような間違いを繰り返すような情けない私は、もう赦されないんじゃないか』 そう思って、主を悲しませないでください。情け深く、辛抱強く、愛の溢れる私たちの主は、必ず、あなたに御手をさしのべ、おっしゃいます。「わたしの手をとりなさい、そして、目を上げ、立ちなさい。あなたはすでに、赦されています、癒されています。ここから、わたしと共にやりなおしの一歩を踏み出しなさい。」 お祈りをいたします。