· 

メッセージ主題:『雄々しくあれ』

阪神宣教祈祷会壮年部奨励2018.7.29

中心聖句:使徒の働き 18章9~11節

「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。』と言われた。そこでパウロは一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」

 

メッセージ主題:『雄々しくあれ』

 

メッセージタイトル「雄々しくあれ」は、今回の聖句には出てきませんが、この聖句の全体メッセージが「雄々しくあれ」だと思われるのであります。まず今回の聖句の位置関係をみてみましょう。

 

パウロはアテネを去ってコリントへ行きました。アテネでは、パウロの宣教は不振に終わりました。使徒の働き17章32節では、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう。』と言った。」とあります。パウロは、新しいもの好きなアテネの人たちに、あざ笑われ、失意のどん底にありながら、アテネを後にします。コリントでは、はじめに、天幕作りの職人アクラとその妻プリスキラのところに滞在し、彼らの仕事の手伝いをしながら、安息日ごとに、会堂で他のユダヤ人たちと論じ合っていました。パウロは、アテネでの失敗から学び、「イエスがキリストである」ことをはっきりと宣言しました。しかし、そのことで迫害をうけ、次にテテオ・ユストという信仰深い人のところにやっかいになり、一年半という期間、腰を下ろして、宣教に専念するのであります。

 

今回取り上げさせていただいた聖句は、そのような状況の下、主が幻によってパウロに現われ告げられた、パウロへの励ましの言葉であります。今回は詩篇を参照しながら、ひとつひとつ見させていただきましょう。

 

「恐れない」

「恐れない」とは、何から恐れてはいけないと、主はおっしゃるのでしょうか。反対勢力でもあり、アテネでの「あざ笑い」という苦い経験でもあり、恥ずかしめでも、迫害でもあるでしょう。詩篇の3篇「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」では、『敵を恐れてはいけない』と告げられます。3節から6節までお読みします。「しかし、主よ。あなたは私の回りを取り囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」「恐れてはいけない」なぜなら、主が私たちの回りを、取り囲む盾のように守られるからであります。ですから、私たちは枕を高くして、熟睡できると言われるのです。心配事があったとしても、必ず主がささえてくださり、主が解決へと導いてくださるという、主への信頼を、主は求められ、「恐れてはいけない」とおっしゃるのであります。主が伴われるので、「恐るるに足りない」、恐れるのであれば、「主を恐れる」、主への信頼をなくすことを、私たちは恐れないといけないのだと思うのであります。

 

「語り続ける」

「語り続ける」という意味合いには、「同じことを何度も語る」という意味と、「代々語り継ぐ」という意味と、「多くのことをまたは多方向から間断なく語る」という意味とがあるような気がします。私は、初めは主がパウロに「キリストによる救いという同じことを何度も語る」こととして「語り続けよ」とおっしゃったと思っていたのですが、ひょっとすれば、主は聞く人によって、「多方向から間断なく語りなさい」とおっしゃっておられるかも知れないと思わされました。それは、パウロが1コリント書9章19から23節のところで、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法の下にある人には律法の下にある人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のように」より多くの人を獲得するように、自由自在に福音を語られたことを思い出したからであります。詩篇では、ダビデがそのことを次のように表しています。40篇5節です。「わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず。あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。」このように、私たちに対する主の御業は、多すぎて語り尽くせないのであります。つまり、それだけ多種多様な御業とその現れ方がある訳ですから、聞く人に合わせて、「語り続けなさい」と、主はおっしゃっておられるのではないでしょうか。個人個人、同じ聖句であっても、受け取り方が異なります。福音のメッセージの真実はひとつですが、人の個性も人の状況も違いますから、伝わり方も、伝え方も異なるでしょう。つまり、私たちは、伝える人のことも知らないといけない時もあるということです。一片通りの伝え方ではいけないとも、主は導いておられるのかもしれません。主が「語り続けなさい」というメッセージの中には、私たちが思う以上に深い導きがあるのです。

 

「黙らない」

「語り続ける」が表なら、「黙らない」は裏に相当するような言葉かも知れません。しかし、「黙ってはいけない」という主のご命令の中には、「相手に圧倒されてはいけない」とか「黙っていては問題解決にならない」という意味が含まれているのではないでしょうか。「黙っている」ということは、相手の言うことに賛成していると思われかねないこともあるでしょう。詩篇では、ダビデは次のように告白しています。39篇1節2節をお読みいたします。「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口には口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。」 『沈黙は金』ということわざがありますが、主は、沈黙が必ずしもよい事であるとは言っていないのです。かえって、「沈黙は痛みを増す、結果的に問題解決にはならない」と教えてくださっています。私たちは、相手にどう思われようが、相手の救いのために黙ってはいけないのです。もちろん、福音の妨げになってはいけませんが、主の御名があがめられることが一番であることを、私たちは肝に銘じるべきであります。

 

「主がともにいる」

私たちにとって、これほど心強いものはないのではないでしょうか。万軍の主が、全能の神が、伴って下さるのです、私たちの味方になってくださるのです。詩篇23篇4節では、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」このむちと杖は、羊飼いが羊を正しい方向へ導くものであります。また詩篇46篇7節では、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」全能の神が私たちのとりでであれば、だれがそのとりでを打ち破ることができるでしょうか。私たちは完全に守られているのであります。そして、詩篇のように「主がともにおられる」と確信し、宣言することはとても大切なことなのです。

 

「襲って、危害を加えるものはない」

詩篇94篇では、神の守りの確信が歌われています。20節から23節です。「おきてにしたがって悪をたくらむ破滅の法廷が、あなたを仲間に加えるでしょうか。彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。」 私たちの代わりに、主が私たちに危害を加えるものと戦い、滅ぼして下さるのです。私たちが戦うのではなく、主が戦ってくださるのだという信仰を大切にしたいと思います。

 

「主の民がたくさんいる」

つまり、信仰の仲間、祈りの友のことであります。私たちは、主にあって、互いに祈り合い支え合う仲間がいるということに、常に励まされるのであります。共に祈り、共に主の御名を讃美することこそ、私たちの信仰生活においてなくてはならないものでありす。詩篇では、47篇全体でもありますが、特に1節と6節から9節をお読みいたします。「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。、、、神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。」 パウロだけではなく、クリスチャンにとって、祈りの友がたくさんいる、たくさんの方から祈られているというだけで、元気がでてきます。主が言われる「わたしの民がたくさんいる」とは、ほんとうに心強いお言葉であります。そして、このお言葉は、主の命令でもあるのです。「わたしの民に加わりなさい」とおっしゃっておられるのです。どうか、信仰の仲間である兄弟姉妹は、主の民であり、皆さんも、その中に加えられているという喜びと安心を共有しようではありませんか。

 

今日のメッセージ・タイトル「雄々しくあれ」は、よくヨシュア記1章を思い起こされるのではないでしょうか。「強くあれ、雄々しくあれ」と1章には4回でてきます(6, 7, 9, 18)。また、詩篇では、それに「主を待ち望め」が付け加えられています(27:14, 31:24)。それぞれに、激励の言葉であります。今回の聖句(使徒の働き 18章9~11節)には、「雄々しくあれ」とは直接出てきませんが、パウロやそして、この御言葉を聞く人々を励ますものであります。

 

私たちは、結果や相手の心象を恐れず、大胆にかつ、あらゆる方法で、福音を伝え続けるものとさせていただきましょう。また福音が伝わるための問題解決も主に導いていただきましょう。そして、そこには必ず神である主が伴っていて下さり、信仰を同じくする多くの友の祈りによって支えられていることを確信させていただきましょう。