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メッセージ主題:『エルサレムにて聖霊をうけよ』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年8月5日 

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌437「行きて告げよあまねく」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「He is Lord」

交読: 交読文34:詩篇第108篇:新聖歌p.907-8

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌458「光の高地に」

 

聖書拝読:ルカの福音書44章24節~53節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(49)

 

メッセージ主題:『エルサレムにて聖霊をうけよ』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『とにかく信じてみよう』と題しまして、信じることの大切さを学ばせていただきました。イエス様が三日目によみがえられ、そのことを弟子たちが信じられなかった時に、十字架での傷跡を弟子たちに示されました。イエス様は死と復活を経験されましたが、目の前にいるイエス様と十字架にかけられる前のイエス様が同じであり、その方を主と信じる以外に私たちに救いがないことをイエス様はお教えくださいました。感謝いたします。今朝は、『エルサレムにて聖霊をうけよ』と題しまして、イエス様が、死を克服し復活され、罪の赦しを得させる悔い改めの福音をあらゆる国の人々に宣べ伝えよとおっしゃる中で、その力となる「聖霊」をエルサレムにて受けよと命令されました。今朝はこのところから、主の信仰の導きを学ばせていただきます。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

イエス様は、「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。」とおっしゃいました。では、イエス様の父とは、創造主である神様のことでありますが、その神様が約束してくださったものとは何でしょうか。ヨハネは次のようにイエス様のお言葉を記録しています。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)神様が送って下さるのは、助け主である聖霊です。では、どのように私たちを助けるのでしょうか。それは聖霊が私たちにすべてのことを教え、イエス様のお話しになられたこと、すべてを思い出させるのであります。そして、聖霊は「平安」であります。イエス様は続けて、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるものとは違います。」(ヨハネ14:27)イエス様がもっておらえた平安、天の父からの平安であり、神様との和解で得られる平安でもあり、神様ご自身の平安でもあるのです。そして、このイエス様を通して送られる神様からの贈り物である、助け主、聖霊、平安は、それを受けた人が天からの力を得るとイエス様は説かれます。ゆえに、「いと高き所から力を着せられる」とおっしゃるのであります。また、パウロは、このことを「キリストを着る」という表現を使っています。ローマ書13:14では、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」もう一か所は、ガラテヤ書3:26-27では、「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」「キリストを着る」ということは「バプテスマを受けてキリストにつく者、従う者とされた」ということであり、また「キリスト・イエスに対する信仰が始まり、神の子どもとされた」ことを意味します。つまり、キリストを信じた瞬間に、主は、天から助け手でありキリストである聖霊を送り、私たちが「キリストを着る」という状態になるのです。その「キリストを着る」という状態は、「肉の欲のために心を用いないようにするため」「肉的世的な誘惑から遠ざかるため」なのであります。では、なぜ、「天からの力を着る」であったり、「キリストを着る」という表現になるのでしょうか。旧約聖書の記述の中では「荒布を着る・まとう」という表現は、「悔い改め」の代名詞のようなものでもあります。また、イエス様も次のようにおっしゃいます。「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。『ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。』」(マタイ11:20-21)つまり、「キリストを着る」とは、「悔い改めてイエスを信じる」ということなのです。つまり、「キリストを着る」には、「今までの行ないを悔い改める」ということと、「イエス・キリストを救い主として信じる」ということが、含まれているのです。この二つのことは切り離せません。悔い改めなしに、イエス様を信じることはできません。また、どちらか一方だけでは、本当にイエス様を信じたことにはならないのです。

 

また、パウロはこの「キリストを着る」という代わりに「聖霊の宮となる」という表現を使っています。1コリント書では、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払ってかいとられたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(6:19-20)パウロは、「キリストを着る」という「悔い改め」と「イエスを信じる」ということの徹底として、また「神の栄光を現わす器となりなさい」という奨励を行なうために、「聖霊の宮または神殿」という言葉を使います。

 

さて、これまで、悔い改めをもって、キリストを信じて聖霊を受けることが「天からの力・キリストを着る」ということでもあると学びました。では、なぜ、イエス様は、その「力を着る」ために、エルサレムにとどまっておきなさいとおっしゃられたのでしょうか。エルサレムには、神殿があります。そして、イエス様が十字架にかけられたゴルゴタの丘のある場所でもあります。つまり、死と復活がなされた場所であり、神殿があるのがエルサレムであります。私はこのこともとても重要ではないかと思っています。ラザロが死んだときに、イエス様がいらして姉のマルタに次のように尋ねました、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでもいきるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)このイエス様の迫りは、現代の私たちひとりひとりにも共通して問われています。そして、私たちの応答は、マルタの応答のように「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」であるべきです。そして、この「死とよみがえり」を実行されたのが、ゴルゴタの丘であり、その近くに掘られた横穴の墓であります。パウロが送ったテモテの手紙の中で、パウロが「次のことばは信頼すべきことばです。『もし私たちが、彼(イエス)とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる』」(2テモテ2:11)と主張するように、キリストを信じる者は、キリストと共に死に、共に復活し、共に生きる運命にあるのであります。そのことが行なわれたのがエルサレムであります。では、現代の私たちも皆、洗礼を受け、聖霊をうけるために、エルサレムに行かないといけないのでしょうか。いいえ。イエス様のおっしゃったエルサレムは、その当時は、エルサレムという土地であったかもしれませんが、弟子たちがひとところに集められていた、つまり信じる者の集まりである教会または集会が、イエス様のおっしゃる現代のエルサレムなのであります。教会や集会には、信じる者がいて、信じる者たちは聖霊の宮であり神殿であります。そして彼らは「主と共に死に、共に復活し、共に生きている」群れなのです。イエス様は、その聖なるエルサレムである教会や集会にとどまっておきなさい、そして信じる者とされるときに聖霊のバプテスマを受けなさいとおっしゃるのです。

 

そして、聖霊のバプテスマを受けたなら、その人は聖霊の宮となり神殿となって、その人自身がエルサレムともなりえるのです。ですから、復活されたイエス様が、弟子たちを導き福音を宣べ伝えていたガリラヤに、彼らを集め、次のようにおっしゃったのです。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)

 

私たちは信じる者とされているはずです。つまり、私たちはそれぞれに、主と共に死に、共に復活し、共に生きていて、私たちの体は聖霊の宿る、聖なる宮とされています。そして、私たちは私たち自身がエルサレムとなっているということなのです。つまり、私たちはひとりひとりが、責任をもち、協力し補いあって、福音を宣べ伝え、弟子を作り教育し、福音を伝える僕として世に送りなさいと、イエスさまはおっしゃり、私たちと共にいてくださって、そう励まされるのであります。

 

私たちは恐れてはいけません、おののいてはいけません。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊」(2テモテ1:7)なのですから。勇気をもって、主から知恵をいただいて、主の証人として、イエス様の愛をお伝えしてまいりましょう。

 

今から3分間、黙想をいたします。私たちは、すでに力と愛と慎みの霊を送り込まれているのですから、その聖霊に突き動かされるように、福音を伝えるものとさせていただきましょう。常に愛と勇気と知恵もって行動できるよう、人と接することができるよう導いていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「エルサレムにて聖霊をうけよ」と題し、私たちはすでに聖なる宮であり神殿であり、そしてエルサレムでもあることを学びました。どうか、私たちが、常に「主の愛を伝える者」として主がたてられていることを自覚させてください。また、猛暑が続いております。熱中症からも、すべての方々が守られますようにお祈りいたします。被災地域の方々、ボランティアおよび関係者の方々も守られ、復興が順調に進みますようお祈りいたします。

今朝の学びを、主イエス・キリスト様の御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌468「やがて天にて」

賛美: 今月の歌・新聖歌481「祈ってごらんよわかるから」

今月のワーシップソング「He is Lord」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

今回で、マンガ聖書物語を中心とした通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

を終了いたします。来週からは、「使徒の働き」を通して「宣教の足跡」を共に学ばせていただきます。

 

He is Lord

He is Lord, He is Lord
He has risen from the dead
And He is Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

You are Lord, You are Lord
You have risen from the dead
And You are Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

 

has risen: あがる(よみがえる) the dead: 死者

Lord: 主、君主 knee: ひざ

bow: 曲げる tongue: 舌

confess: 告白する