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メッセージ主題:『イエスの証人』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

前回で、マンガ聖書物語を中心とした通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

を終了いたします。今週から、「使徒の働き」を通して「宣教の足跡」を共に学ばせていただきます。

2018年8月12日 

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌267「渇けるわれは上より賜う」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「He is Lord」

交読: 交読文35:詩篇第110時篇:新聖歌p.908

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌420「雨を降り注ぎ」

 

聖書拝読:使徒の働き1章3節~9節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(8)

 

メッセージ主題:『イエスの証人』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『エルサレムにて聖霊をうけよ』と題しまして、イエス様が、死を克服し復活され、罪の赦しを得させる悔い改めの福音をあらゆる国の人々に宣べ伝えよとおっしゃる中で、その力となる「聖霊」をエルサレムにて受けよと命令されました。そのところから、主の信仰の導きを学ばせていただきました。今朝は、『イエスの証人』と題しまして、イエス様のお送りくださる聖霊が私たちに臨まれ、力を得ないかぎり、私たちはイエス様の証人としてはなれないことを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

先週に渡って、同じようなことを言わざるを得ない感じではありますが、「聖霊を受ける」ということは、「キリストを着る」ということでもあり、「聖霊の宮、神殿」とされることであります。これは先週お話しさせていただいたのでありますが、「聖霊を受ける」にしても、「キリストを着る」にしても「神殿となる」としても、イメージに具体性が欠けていて、分かりにくいと思われるかもしれません。ですから、私は今回、イエス様の証人として、「イエス様が私たちの中に生きづいている」というような表現を取り、「イエス・キリストにならう」ということを学ばせていただければと思っています。

 

よみがえられたイエス様は、弟子たちに向かって息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)と。また、十字架にかかる前には、その聖霊とは、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」のことであるとし、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」と聖霊がイエス様の平安であると示されています(ヨハネ14:26-27)。そして、イエス様が天に戻られた後、五旬節ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降り、聖霊に満たされ、力を得ることができます(使徒2:1-4)。私たちの内に宿る聖霊が、私たちにすべてのことを教え、またイエス様がお話しになったすべてのことを思い起こさせてくださるのです(ヨハネ14:26)。つまり、イエス様が私たちの内に生きて働いていてくださるのと同じことなのです。イエス様は、以前弟子たちに、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを説き明かされました(ルカ24:27)。私たちはイエス様の声を直接聞くことはあまりできませんが、私たちの内なるイエス様が、礼拝を通し、黙想を通して、または先達の方が書かれた書物を通して、解き明かしをしてくださるのです。もちろん、イエス様が、エマオへ行く途中の二人の弟子たちに現われて、聖書を説明してくださることがあったように(ルカ24:32)、私たちも直接イエス様から説明を聞くこともあるでしょうが、ほとんどの場合は、イエス様はほかの誰かや何かを使って、聖書の理解を手助けしてくださるのです。そして、イエス様が私たちに働きかけを行って下さるときには、私たちの心はうちに燃えているはずなのです(ルカ24:32)。イエス様がいらっしゃらないと、私たちの聖書理解は中途半端なもの、字面をおっただけの理解にとどまってしまいます。イエス様の助けがあってこそ、私たちは聖書の理解が深まるのです。ルカは、そのことをルカ書24章45節から49節に記しています。45節「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われました、49節「、、、さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります」。イエス様が一緒にいてくださらなければ、弟子たちがそうであったように、私たちも心を開き悟ることもできないのです。

 

私たちの最終目標は、天の御国で永遠のいのちをいただくことです。つまり、永遠の命をもつイエス・キリストに似た者とされることです。しかし、100%キリストに似た者とされるのは、キリストが再び現れた時です。ヨハネは書簡の中で次のように述べています、「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(1ヨハネ3:2)」私たちが、天の御国に入ることができるためには、一点の曇りもなく、100%清い者でなければなりません。それは、私たちの努力でなるのではなく、イエス様の憐れみで最後の最後にそうされるのです。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします(1ヨハネ3:3)」とヨハネは説きます。

 

では、私たちは何もしなくても、イエス様が全てを成して下さるのか、と言いますとそれは間違っています。私たちは私たちの分を果たさなければなりません。それは、イエス様の戒めを守ることです。もちろん、神を愛し、隣人を愛することは言うまでもないことですが、イエス様は、その二つを合わせてもっと具体的にされました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」 イエス様は、自分が指針であり目標であることを「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉で表されています。福音書におけるイエス様の直接の言動だけではなく、イエス様を証している聖書全体から、イエス様の愛を学び、実践することが、私たちの課題であり、果たすべき分であるのです。そして、この課題をやり遂げるのはとても難しく、肉をもった私たちには、100%成し遂げることは出来ませんが、イエス様の憐れみによって、最後は引き揚げられるのです。この私たちの分を果たそうとすることを、パウロは「キリストに倣う」と表現されています。「あなたがたも、多くの苦難の中、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者となりました。(1テサロニケ1:4)」厳密には、イエス様を信じたからといって、必ずしも「主にならう者になった」というわけではありません。パウロの表現を借りますと、イエス様を信じ、聖霊による喜びをもって、みことばを受け入れる者が「主にならう者」となりうるのです。それこそが、まさに「イエスの証人」なのです。

 

ここで少しトマス・ア・ケンピスの著書「キリストにならいて」の第一巻の第一章から少し引用してみることにします。トマス・ア・ケンピスは1380年前後に生まれ、司祭として、約70年間の修道生活をし、92歳で世を去ります。約60歳の時から数年にわたって著書「キリストにならいて」全四巻を完成させました。第一巻第一章は、この著書の一番主張するところが書かれています。第一巻は、「霊の生活に役立ついましめ」というタイトルが、そして、その中の第一章は「キリストにならって、すべてこの世の空しいものを軽んずべきこと」というタイトルが付けられています。まずイエス様のお言葉の引用から始まります。ヨハネ8章12節です、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」そして、ケンピスは、「キリストの生涯にふかく想いをいたすよう、私たちはこころをつくして努むべきである。」と続けます。そして、1コリント8章2節と伝道の書1章1節とを合わせて、「たとえ聖書のすべてを外面的に知り、あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みとがなければ、その全てに何の益があろう。神を愛し、それだけに仕えること、それ以外は、空の空、すべてが空である。この世を軽んずることによって天国に向かうこと、これが最高の知恵である。」と説いています。ケンピスは、若い修道士たちへの指導書として書かれたので、「この世を軽んずることによって天国に向かうこと、これが最高の知恵である。」と一見、世捨て人のようなニュアンスでありますが、これは、パウロの思いと同じであります。ピリピ書3章7-8節をお読みいたします。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」そして、パウロは、次の心境に至るのです、「わたしにとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)」

 

私は、これが、真のイエスの証人であると思うのであります。キリストに倣うものとされ、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを伝える者とされ、共に福音にあずかる恵みと喜びを分かち合う。私たちもそのような者とさせていただきましょう。

 

今から3分間、黙想をいたします。私たちは、キリストに倣う者、イエスの証人となるべく、聖書から、礼拝から、主にある兄弟姉妹との交わりから、もちろん、静まって主こそ神であることを知る、そのような静まりを通して、イエス様を個人的に知るために、今、私たちが何をすべきかを導いていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「イエスの証人」と題し、キリストに倣うこと、キリスト・イエスを知ることのすばらしさを味わい、それを伝えることを学びました。まだまだ猛暑が続いております。熱中症からも、すべての方々が守られますようにお祈りいたします。台風も接近してきております。台風被害が最小となりますようお守りください。また、被災地域の方々、ボランティアおよび関係者の方々も怪我や病気から守られ、復興が順調に進みますようお祈りいたします。

今朝の学びを、主イエス・キリストの御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌415「恵み深き御神よ」

賛美: 今月の歌・新聖歌481「祈ってごらんよわかるから」(献金の時)

今月のワーシップソング「He is Lord」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



He is Lord

He is Lord, He is Lord
He has risen from the dead
And He is Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

You are Lord, You are Lord
You have risen from the dead
And You are Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

 

has risen: あがる(よみがえる) the dead: 死者

Lord: 主、君主 knee: ひざ

bow: 曲げる tongue: 舌

confess: 告白する