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メッセージ主題:『十字架に帰ろう』

吹田朝祷会2018.8.18

奨励をさせていただきました。

聖句:ホセア書6章1-3節 (新共同訳)

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたがいやし、我々を打たれたが傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

(ホセア書6章1-3節)

 

メッセージ主題:『十字架に帰ろう』

おはようございます。

突然ですが、皆さんは、高石ともやというフォークシンガーをご存知でしょうか。「思い出の赤いヤッケ」とか、「受験生ブルース」とか、「ワンカップ大関」のコマーシャルソングとか。最近では、ラジオ長寿番組ABC朝日放送の「おはようパーソナリティ道場洋三です」の40周年記念曲「きょうは記念日」の作詞作曲もされています。

私が大学生の時、友だちに誘われて、「アメリカ民謡クラブ」つまり、ブルーグラスというジャンルの曲を中心に演奏していたサークルを立ち上げました。ブルーグラスは、おもにアメリカの貧しいアパラチア山脈で育った歌です。バンジョーとかギターとかフラットマンドリンとかフィドルとかという楽器で演奏します。私は、フラットマンドリン担当でしたが、恐ろしくへたっぴーでした。そんな中で、高石ともやとザ・ナターシャ・セブンというグループに出会いました。これがそのソングブックです。このソングブックの中には、今でも大好きな曲がたくさんあるのですが、その一つに「十字架に帰ろうBack to the Cross」という曲があります。当時、私はキリスト教には無関心でしたが、「十字架に帰る」とはどういうことなのだろうがと思いを巡らしていました。歌詞をお読みします。

『悲しみ積んだ舟は、どこまで行くのか。

波にもまれ、この世に浮かぶ、おいらは舟だよ。

帰ろう十字架に、造り主のもと、

舟が港に休むように、十字架に帰ろう。』

ちょっと、歌ってみます。歌わんでいいという声もあるかもしれませんが、せっかくですから歌ってさしあげます。御辛抱ください。(♬)

これは、高石ともやさんが、訳詞されたものです。リフレーンのところを英語のオリジナルどおり、なるべく忠実に訳してみますと次のようになります。

『十字架とイエスに帰ろう、私が名を呼ばれる十字架に帰ろう、

私はずいぶん遠くまで流され、さまよってきた、

かつて、わが家とした救い主から離れてしまって。』

 

今、思いますと、イエス様のたとえ話、放蕩息子の心情を描いた曲でもあり、またイエス様が私たちを選んで、「わたしのもとに来なさい」とおっしゃっておられる曲でもあるのだとわかります。

ですが、大学生当時は、この高石ともやさんが訳された歌詞には「イエス」という具体的な名が出て来ませんし、聖書を読んだこともありませんでしたから、そんなことは分かりませんでした。しかし、当時から「十字架=造り主=神」であって「安らぐ場所」なのだというイメージ、そして、「私たちは神から出て、神に帰るものなのだ」というイメージが、私の心の奥底に沈み、じーっと覚醒するのをまっていたような気がします。それから、4年後、私は留学先のアメリカで、十字架を知り、この歌が、本当の意味をもって私に迫ってきたのであります、ある聖句とともに。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)実に主は、高石ともやさんの訳詞をもって、私の最善の時に、種が落ち芽が出て根づくように、私の心をゆっくりと耕していてくださったのです。そして、ヨハネ書3章16節が私に落ちた種でありました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

「私たちは、神に愛されている」ということをもっともっと、真剣に応答していく必要があるのではないでしょうか。神は、神ご自身が選んだイスラエルを、どうしようもないぐらいに愛しておられます。旧約聖書を読んでいますと、私は、ある意味、嫉妬さえ覚えるのです。旧約聖書での出来事は、すべて、イスラエルの民を神のもとへと導くための愛の記録なのであります。たとえば、イザヤ書44章21節と22節を見てください。

「思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。

わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。

イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。

わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き去った。

わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」

僕とは奴隷のことでもありますが、神は奴隷を求めているのではありません、イスラエルを奴隷として扱おうとしているのではありません。イスラエルを神ご自身が造ったもの、いとしい民として扱われているのです。ですから、イスラエルが神に背いても、「その罪を霧のように吹き去った。もうその罪の影も形もなく、わたしは忘れてしまった」と神はおっしゃるのです。「だからわたしに立ち帰りなさい。わたしはすでにあなたがたの罪を贖った、赦しました。

あなた方のわたしに対する背きの罪は、朝日に消え去る霧のように、もう見えなくなっています。」と、神は両手を広げて待っておられるのです。神は、イスラエルを、そして異邦人である私たちをこのように愛してくださっています。

 

この朝祷会での奨励のお話しがあった時に、私はホセア書を読んでいました。最近、私は、奨励の打診があった時に、その時に読んでいた、旧約聖書や新約聖書の箇所から「導かれますように」と祈って、聖句とタイトルを選ばせていただいております。ですから、今朝は、その時に読んでいましたホセヤ書からであります。ホセヤは、北王国イスラエルが陥落する時まで活躍していた預言者で、特に今朝の聖書箇所は、イスラエルが悔い改めて、神に立ち帰るようにと励まされるところであります。

 

ホセヤは民に告げます、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。」

しかし、民は、悲しみの中にありました。ソロモン王の治世以降、主がイスラエルとユダに国を裂いて二分したことを覚え悲しんでいました。『どうして、我々ユダヤ民族は神から選ばれた民なのに、分裂し、互いに憎み戦い合っているのですか。』

しかし、ホセヤは、そんな民を励ますのであります。「私たちを愛する主は、その悲しみをいやし、憎しみを消し去って下さる」と。

そして、民はアッシリアからの脅威にいつも怯えていましたが、ホセヤは次のように言って元気づけるのです。「主が心の傷を包み、回復させてくださるから、安心せよ、主が守り戦ってくださる」。ホセヤは続けます、「何が起ろうとも、主が守られ、二日目には回復、三日目には私たちは勇気を得て、前に進むことができる。なぜなら、主が常に伴っていてくださるからだ」と。また次のようにも力説します。「わたしたちはその回復の時、喜びに満ち、主の御名を讃美するであろう。主を認め、主に従うように前向きになるだろう」と。民はホセヤの言葉に希望を抱き、主を信じよう、主に従っていこうと一歩を踏み出すのであります。ホセヤは、そのような民の背中を後押します。「毎日、陽が昇るように、主はつねにわれわれを見捨てず伴われ、春の雨のように、作物を実らせ、われわれは再び繁栄するだろう、あのソロモンの時代のように」と。そして、「主のもとに帰ろう、まずここから始めないといけない、主に期待しよう」と、ホセヤは、神の言葉を語り、導くのであります。

 

しかし、ホセヤの忠告に対する民の応答は、残念ながら、見せかけのものでありました。主はホセヤを通して、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」(6:6)と告げます。主は、どんなにか悲しまれたことでしょう。

イザヤを通して、「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き去った。」(私はあなたの罪をすべて帳消しにする)とおっしゃる同じ主が、「お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ」(ホセヤ6:4)と嘆かれるのです。

愛の神は、真の愛を、真にへりくだった心を、私たちに求めるのであります。ホセヤを通して、神は、「わたしに帰れ、わたしを知りなさい」とおっしゃるのに、民の心はかたくなで、「神はいけにえを好まれる、いけにえさえお出しすれば大丈夫」と思ってしまいました。なにが大丈夫なものですか。主はダビデを通して、おっしゃるではありませんか。

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩篇51:19)

悔い改め、主に信頼し、主に完全に屈服し明け渡した心を神は喜ばれるのです。北王国イスラエル、その民のかたくなな心ゆえに、神は滅ぼすという選択をしました。しかし、主は最後の最後まで、待っていたはずです、イスラエルが主に立ち帰ること。ホセヤの口を通して、主はおっしゃいます。「ああエフライム(イスラエルの指導者よ)、なおも、わたしを偶像と比べるのか。彼の求めにこたえ、彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ。知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み、神に背く者はその道につまずく。」(14:9-10)

 

我らが救い主イエス様も同じようにおっしゃるではありませんか、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊に実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)主につながっていない人は、ただ実を結ばないだけではありません。つながっていないということは、神に背く者、神を知らない、知ろうともしない人であり、主の道につまずくのであります。そして、そのように主につながっていない人は、「枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(15:6)のであります。「つまずく」とは「焼かれてしまう」ことであり、「滅びる」ことなのです。

 

さて、私たちは、本当に、主に、十字架に、帰っているでしょうか。舟が港に休むように、十字架に帰っているでしょうか。主に帰るには、主によって砕かれた悔いた心が必要です。しかし、それはもう一方で、主にすべてを明け渡し、降伏して、より頼むということでもあります。舟が港に休むというのは、重い積み荷をおろし、英気を養うことでもあります。荒海ではなく、港に静かにたたずんで、主を知ることでもあります。それらは平安のうちに行なわれるのです。イエス様はおっしゃいます、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27) イエス様の平安は、勇気を生むのです、恐れに勝るのです、世に勝つのであります。(16:33)イエス様の平安とは聖霊のことです。イエス様は聖霊のことを次のようにおっしゃいます、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)これが、聖霊でありイエス様の平安、十字架の平安なのです。皆さんには、主に寄り頼むだけで、主の知恵が与えられるのです。静まって、求めてください、主の知恵を、主の平安のうちにたたずみながら。

 

もう一度お尋ねします。私たちは、毎日、舟が港に休むように、十字架に帰っているでしょうか。十字架を自分の気の休まる、くつろげる家(ホーム)、そして古い自分を差し出すところとしているでしょうか。今朝、私が申し上げている十字架とは、主の平安のことです。しかし、主の平安のうちにたたずむ、身をおくというのは、パウロが言うところの、キリストと共に十字架につけられる、つけられ続けることが、理解できているかということにかかっています。パウロは説きます、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

しかし、私たちは、みんな経験していますように、古い自分は一回の悔い改めでは、なくならないのです。私たちの古い自分は、しぶといのです。ですから、私たちは、一日の終わりに、古い自分を再びキリストと共に十字架につけるために、古い自分を主に差し出さなければいけないのです。そのために、私たちは、主から聖霊をいただいているのです。そして毎朝、私たちは、新たにされて、キリストと共に歩み始め、生きるのであります。ある意味、キリストはまだ、私たちひとりひとりのために、十字架にかかり続けてくださっているとも、血を流し続けてくださっているとも言えるのではないでしょうか。私たちが罪を犯すたびに、キリストの血が流れるのです。そのことを覚えて、主の深遠なる平安に身を置くことが、主の御腕に包まれることが大切なのです。これが、ホセヤの言うところの「主を知る」ことなのです。主を知ることを追い求めましょう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださるからです。

 

いま、舟が港に休むように、十字架に帰りましょう。主を知ることを追い求めましょう。

 

さあ、目を閉じてください。そして、主を感じてみてください、私たちのために、十字架につけられている主を、血を流されている主を。

そして、主の平安に身をゆだねてみましょう、あなたが今日も新しく生まれ変わるために。短い時間ではありますが、あなたの内に住み給う聖霊に包まれてください。まずはあなた自身を空っぽにし、聖霊に満たされてください。

♬『悲しみ積んだ舟は、どこまで行くのか。波にもまれ、この世に浮かぶ、おいらは舟だよ。帰ろう十字架に、造り主のもと、舟が港に休むように、十字架に帰ろう。』

 

お祈りをいたします。

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたがいやし、我々を打たれたが傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

(ホセア書6章1-3節)

 

愛する天のお父さま、今朝は「十字架に帰ろう」と題されまして、主を知ることの大切さを学ばせていただきました。どうか、私たちが、一日の終わりに、古い自分を主に差し出し、十字架の血潮によって、また新たにされ、新しい朝を迎えることができますように。また、つねに静まりの時をもち、重荷を下ろし、喜びの時も、悲しみの時も、主と語らい、主に寄り頼む人生でありますように、どうか私たちをお導きください。愛する主イエス・キリスト様の御名により、皆さまの心の祈りに合わせまして、この祈りをおささげ致します。アーメン。