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メッセージ主題:『イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年8月19日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌339「恵みの高き嶺」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「He is Lord」

交読: 交読文36:詩篇第116時篇:新聖歌p.908-9

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌396「慕いまつる主の」

 

聖書拝読:使徒の働き2章32節~39節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」(38)

 

メッセージ主題:『イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『イエスの証人』と題しまして、イエス様のお送りくださる聖霊が私たちに臨まれ、力を得ないかぎり、私たちはイエス様の証人としてはなれないことを学ばせていただきました。今朝は、『イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける』と題しまして、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けることの大切さを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

今朝の聖書の箇所は、弟子たちが五旬節でありますペンテコステの時に、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまり、聖霊に満たされ、めいめいが他国の言葉(異言)を語り出した後、ペテロが聖霊に突き動かされて、力強いメッセージを語る場面で、信仰の最も大事な核の部分を説くところであります。この聖書の箇所を箇条書きにしてみますと次にようになります。

●イエスはよみがえられた。●イエスは神の右にあげられた。●イエスは父なる神から聖霊をうけ、弟子たちに聖霊を注がれた。●みんなが、主でありキリストであるイエスを十字架につけた。●悔い改めて、罪を赦していただくには、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けるべき。●イエス・キリストの名による洗礼によって、約束どおり、聖霊が与えられる。●この約束は、全員を対象とする。●聖霊が与えられるのは、選ばれた民の証拠。

 

私は、この中で、もっとも重要なのは、●悔い改めて、罪を赦していただくには、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けるべき、と●イエスは父なる神から聖霊をうけ、弟子たちに聖霊を注がれた、であると思います。私たちが受くべき聖霊は、神から直接いただけるのではなく、神がイエス・キリストに与えた聖霊を、イエス・キリストを通して、与えられるということです。聖霊を受けることによって、私たちは救われるのであります。そして、救われるためには、罪の赦しが必要です。では、誰が私たちの罪を赦していただけるのでしょうか。それは神でありますが、神は神の右に座すイエス・キリストに全権を一任されたのです。

 

私は1983年6月4日に洗礼を受けました。しかし、この時は、まだ「罪」というものの正体が本当には分かっていなかったと思います。実は今でも、あいまいなところがあるかもしれませんが、当時、そのことを分からずじまいに、牧師先生に背中をおされて、洗礼を受けた気がするのです。もちろん、洗礼式のことは今でも覚えています。小学校のプールにて浸水式で、両手を胸において、ザブーンと後ろ向きに倒れ、いったん水の中に全身をしずめ、古い自分を死に渡し、イエス様の代わりに牧師が私を引き上げ、私は新生するのです。そのときは、自分でも予想しえないぐらいの喜びに包まれました。その喜びは私を驚かせました。頭で分かっていた洗礼式のプロセスに感情と感動が加わったからです。私は、予期しない涙につつまれました。この時、私は、「ああ、これで私もキリストのものになった」と思いました。しかし、それは、今から思うと錯覚だったような気がします。「罪の意識」や「罪深さ」をある程度、理解しないかぎり、洗礼はあまり意味を持たない、ただ単に教会員になるという儀式の一部分でしかないことになってしまうかもしれません。洗礼と教会員となることは別なはずですが、実際には、まず、洗礼を受けた教会で教会員となります。本来、洗礼と教会員とは別物であり、儀式的にも違うのですが、洗礼から教会員への儀式はひとつのパッケージにように扱われてしまうのです。しかし、そのことは些細なことです。問題は、罪の意識をちゃんと持っていて、罪深さを理解し、本当に自分が罪人であることを認めているかということです。私がこのことに気づかされたのは、洗礼を終え、半年以上たってからのことだと記憶しています。自分には、本当にどうしようもないぐらいの心の闇があって、それを見てみぬふりをしてきたのですが、祈りの中でその闇と真剣に向き合わざるを得なくなりました。妬みや嫉みや嫉妬や嫌悪。私は、その闇のために、わが主イエス・キリストをこの手で十字架につけたのだ、私をこの闇から救うために、イエス・キリストは十字架にかかり、血を流されたのだと示されました。私は、この時、真の心のバプテスマを受けたのだと思いました。少なくても6年前までは。

 

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」

6年前、静まって祈りをささげている時に、十字架に磔にされているイエス様が現われ、急に私の手を取って、私を十字架にかかっているご自身と合体させたのです。私は動揺しました。私は約30年前に受けた洗礼の準備会のときに、学んだ聖句、ローマ書6章4節「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちにも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」この聖句を理解して洗礼を受けたと思っていました。しかし、イエス様は、私が主とともに十字架につけられたことをリアルなまぼろしとして見せ、イエス・キリストが罪の奴隷から私を解放したのだと示されたのです。あたかも、ローマ書6章6節7節で説かれていますように。 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」 私は、30年たったその時でも、まだイエス・キリストの十字架が本質的には分かっていなかったことに愕然としました。またそれと同時に、主により一層近づけたことに感謝したのです。そして、主は仰せられました、「わたしにより頼みなさい」と。私は、主により頼むということが、頭で分かっていても、では実際にどうしたらよいかが分からず、もんもんとした半年間を過ごしました。祈りの時に「自分をあきらめなさい」と示されますが、さっぱり分かりません。そして、ついにイエス様は、「わたしに信頼して全てを任せなさい」とおっしゃいました。私はこの時、はじめて、主へのより頼み方が分かったような気がしたのです。私は小躍りして、「わかった、わかった、分かりました、イエス様」と喜びをあらわにしていたことを覚えています。それと同時に、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」という本当の意味が、そして、「わたしが、キリストのものとなる」という意味が、理解できたような気がするのです。

 

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

この時、私はいままでに経験したことがないような平安と喜びに包まれました。わたしは、賜物である聖霊をうけたのだと確信しました。そして、イエス様のお言葉を思い出したのです。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるものとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:26-27)私がイエス・キリストの名によってバプテスマを受けた時に、つまり今から35年前に、私は賜物としての聖霊を受けていたと思っていましたし、今でもそう思っていますが、私の内に住み給う聖霊は、私には当時感じられませんでした。しかし、その時からたとえ聖霊は感じられなくても、働いていてくださって、主が、私を本当の意味で、キリストのものになるよう、私を造り替えてくださっているのだと、主に感謝するしだいであります。

 

さて、皆さんはいかがでしょう。聖霊を、主の平安を感じることができるでしょうか。聖霊が主からのプレゼントのように、平安も主からのプレゼントです。そして、主イエス・キリストこそが平安ですから、イエス・キリストはご自身を私たちにプレゼントされているのです。どうか心の内にイエス・キリストを感じてみてください。主を求めてください。それが、あなたの「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ということなのかもしれないからです。

 

今から3分間、黙想をいたします。「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ということは、「主イエスを私たちの内に迎え入れ、主を感じられる」ということであると学びました。どうか、私たちが常に、主イエスを、主の平安を感じられるようにお導きください。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」と題し、真のバプテスマを通して、主の平安をそして、イエス・キリストの内住を感じることを学びました。私たちが常に主を求めることができますよう、私たちをお導きください。

今朝の学びを、主イエス・キリストの御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌397「神の御子にますイエス」

賛美: 今月の歌・新聖歌481「祈ってごらんよわかるから」(献金の時)

今月のワーシップソング「He is Lord」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



He is Lord

He is Lord, He is Lord
He has risen from the dead
And He is Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

You are Lord, You are Lord
You have risen from the dead
And You are Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

 

has risen: あがる(よみがえる) the dead: 死者

Lord: 主、君主 knee: ひざ

bow: 曲げる tongue: 舌

confess: 告白する