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メッセージ主題:『主の恵みの本質と救いの本質』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年8月26日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌257「キリストは生きておられる」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「He is Lord」

交読: 交読文37:詩篇第119時篇:新聖歌p.909-910

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌242「われに聞かしめよ」

 

聖書拝読:使徒の働き3章1節~8節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って、彼の右手を取って立たせた。」(6-7a)

 

メッセージ主題:『主の恵みの本質と救いの本質』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける』と題しまして、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けることの大切さを学ばせていただきました。今朝は、『主の恵みの本質と救いの本質』と題しまして、イエス・キリストの名によって、弟子たちを通して癒しがあたえられるのは、聖霊の働き以外のなにものでもなく、また無条件に主の恵みが私たちに降りそそがれているという恵みの本質と、イエス・キリストの名によっての救いの本質、その両者の違いを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

今朝の聖書の箇所は、弟子たちが五旬節でありますペンテコステの時に、聖霊に満たされ、ペテロとヨハネが祈りの時間に神殿に行き、その入り口にある「美しの門」のところでの出来事であります。この美しの門は、エルサレム神殿の東にあり、金とコリント銅で装飾された名前の通り、きらびやかな門であったそうです。その美しい門のところに、一人の足の悪い物乞いが、毎日、かつがれつれて来ていました。彼の人生は、この美しの門とは対照的に、非常に暗く絶望に満ちていました。生きていく手段として、物乞いしか選択の余地はありませんでした。そして、ほとんどの物乞いの人がそうであるように、頭をたれ、地面に目を落とし、口を開けば、「おめぐみください」と言っていました。しかし、彼は決して通行人を見上げようとはしません。それほどに、彼は人生に失望していたのです。そして、足音を頼りに、通行人に、目を伏せたままで声をかけ施しをいただくのです。

 

ペテロとヨハネが、その美しの門のところにやってきました。彼らは、その男が伏せって施しを求めていることは、前から知っていました。その男は毎日、その場所にいるからです。いつもであれば、そこを素通りしているペテロとヨハネでありましたが、この度は違っていました。彼らは聖霊に満たされ、今まさに祈りの場へとむかう途中だったのです。「だんなさまがた、おめぐみを」という声が、ペテロとヨハネの足を止めました。いえ、聖霊がそうさせたのです。ヨハネが先にその男に近づき、そして後からペテロが中腰になって、彼に言います。「私たちを見なさい。」

その男は意表をつかれ、ふと顔をあげます。その男に話しかける者は、それまでいなかったからです。また、男もそんなことは期待していません。期待しているのは、小銭が、その男の前にある器に落ちる音だけでした。そして、その音と共に「ありがとうございます」と声が喉の奥からでてくるのです。あたかも、その声を出すために、小銭を器に入れるような、そんなからくり人形的な動きに慣れきっていたのです。男は顔をあげ、日中の光がまぶしそうに、目を細め、声の主を見つめます、少しはにかみつつ、慣れない笑顔を作って。男は少し期待しました、「ひょっとすれば、いつもより多くもらえるかもしれない。」そして、少し背中を上げ、地面についている両手の塵を服でぬぐおうとしていた矢先のことです。さきほど声をかけた男が、にっこりと柔らかい絵顔で、「金銭は私にはない」とわざわざ言うではありませんか。足の不自由な男は、拭きかけた両手をとめ、顔にはとまどいの色を隠せませんでした。「では、どうして声をかけなすったんで」と言おうとしているところに、続けて声を聞こえました。「しかし、わたしにあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」ペテロは、男に考える余地を与えず、男の右の手をとって、立たせました。するとたちまち、男の足には力が入り、まっすぐと立ち、しっかりとした足取りで歩きはじめました。男は一歩一歩、踏みしめながら、信じられないようすでしたが、それが喜びへと変わっていくのが、喜びが内からあふれ出て来るのがわかりました。男は、神を賛美し、ペテロとヨハネといっしょに、感謝の祈りと神の御名をほめたたえるために宮に入って行きました。

 

ここで、私たちは何を見るべきでしょうか。この足の不自由な男には、この後のペテロの言葉にでてきます「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」(19)という勧めは、適応しません。彼は悔い改めをするチャンスも、その意味を理解するチャンスも与えられず、癒されました。しかし、これが主の恵みの本質であることを理解しなければいけません。主の恵みは一方的に与えられるものなのです。それは、イエス・キリストを信じる人にも、信じない人にも、正しい人にも、正しくない人にも、「一方的な恵み」として降り注がれているのです。イエス様はこうおっしゃいます。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と。(マタイ5:45)

 

では、私たちは、イエス・キリストを信じても信じなくても、主の恵みが降り注がれるのであれば、良いのではないか、と思われるかもしれません。しかし、これは「永遠のいのちへ導く救い」ではないのです。この足の不自由な男は、イエス・キリストを信じる信仰告白をして、癒されたのではありません。足を癒やされたのは、神の恵み、無償の愛でしかないのです。彼は同時に永遠のいのちの確証を得たわけではありません。彼が永遠のいのちの救いにあずかるのは、イエス・キリストを信じ、神を賛美し、ペテロとヨハネについて宮に入り祈りをささげたからにほかなりません。それを導いたのは、「イエス・キリストの名によって」という言葉と共に下った聖霊によるものです。例えば、これが「シモン・ペテロの名によって、歩きなさい」と言われ、足が癒やされ、歩けるようになったとしましょう。しかし、その男は、ペテロを神様あつかいし、ペテロをあがめ、結局偶像崇拝として、創造主である神からもっとも嫌われる存在となり、滅びと永遠の死がまっているのです。ペテロは、聖霊の働きの仲立ちをしたにすぎません。ですから、「シモン・ペテロの名によって」とは言わなかったですし、またそのような高ぶりを聖霊は許さないのです。

 

「イエス・キリストの名によって」と宣言することによって、癒された相手は、癒し主がイエス・キリストであることを知ることになるのです。つまり、信じて癒されたのではなく、癒されて、癒し主を分かって、信仰へと導かれる、その聖霊の働きが、「イエス・キリストの名によって」という宣言によって始まるのです。「イエス・キリストの名によって」という宣言は、未信者に対しては、未来の信仰告白の導きを実現し、信者に対しては、救いの確信を再確認するチャンスともなるのです。

 

また、「イエス・キリストの名によって」とは、全知全能の神、創造主である最高権威者の権威と力を表します。ある未信者の方が、「イエス・キリストの名によって」とは、時代劇「水戸黄門」の印籠のようなものですか、と尋ねられました。たしかにあの作り物の印籠自体には何の意味もありませんが、あの印籠のバックには徳川幕府という権威と力が象徴され、みな、あの印籠の前に平伏すのです。それのたぐいは、キリスト教では、エクソシストの作り物の十字架のような存在かもしれません。作り物の十字架には何の力も宿っていませんが、それに象徴される強い信仰があれば、悪の力にも打ち勝つのです。信仰がないのに、聖霊に満たされていないのに「イエス・キリストの名によって」と唱えるだけでは、何の力も発揮しません。「イエス・キリストの名によって」とは、「イエス・キリストに全幅の信頼をよせて」ということであり、「イエス・キリストを神と信じ、その力を信じる」と宣言してこそ、唱えられるべきものであり、創造の神の力が、私たちに降りそそがれるのです。

 

今朝、皆さんは、私を含め、全員、「美しの門」に座っています。「ああ、自分は人生の敗北者だ、負け犬だ、自分はなんて情けない人間なんだろう、醜い罪深いものなのだろう、いくら悔い改めてみても全く変わらない、自分も愛せないし、隣り人も愛せない」などと思って、主に向かって顔を上げられない者ではないでしょうか。また、そういう者であったのではないでしょうか。主の道をまともに歩けない者なのです。しかし、そんな私たちではありますが、主は、ペテロを用いて、「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」とおっしゃってくださるのです。そして、私たちの返事を待たずに、私たちの手をとり立ち上がらせ、歩ませてくださるのです。今こそ、私たちは、小躍りして喜び、主の御名をあがめ、主を讃美しつつ、確かな足どりで、主の宮へ入り、大胆に、主の御座に近づこうではありませんか。主の恵みと主の救いをおおいに喜び、ハレルヤと叫ぼうではありませんか。救いは主のものです。イエス・キリスト「以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間には与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

今から3分間、黙想をいたします。主の恵みはみんなにあります。しかし、主の救いは、「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と呼ばれた人だけなのです。どうか、私たちが常に、「主イエス・キリストの御名によって」と主に信頼し、主の導きに従うことができますようにと、黙想をさせていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、『主の恵みの本質と救いの本質』と題し、主の一方的な恵みと救いのことについて学ばせていただきました。どうか、常に私たちを「美しの門」から、主の宮の中へと導いて下さいますから感謝いたします。

今朝の学びを、主イエス・キリストの御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌203「ああイエス君 こよなき友よ」

賛美: 今月の歌・新聖歌481「祈ってごらんよわかるから」(献金の時)

今月のワーシップソング「He is Lord」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



 

He is Lord

He is Lord, He is Lord
He has risen from the dead
And He is Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

You are Lord, You are Lord
You have risen from the dead
And You are Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

 

has risen: あがる(よみがえる) the dead: 死者

Lord: 主、君主 knee: ひざ

bow: 曲げる tongue: 舌

confess: 告白する