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メッセージ主題:『創造の神と聖霊とイエス』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年9月2日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Father I Adore You」

交読: 交読文38:詩篇第121篇:新聖歌p.910-911

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌111「生くる甲斐もなしと」

 

聖書拝読:使徒の働き4章23節~31節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「彼らがこう祈ると、その集っていた場所が震い動き、一同が聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(6-7a)

 

メッセージ主題:『創造の神と聖霊とイエス』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『主の恵みの本質と救いの本質』と題しまして、イエス・キリストの名によって、弟子たちを通して癒しがあたえられるのは、聖霊の働き以外のなにものでもなく、また無条件に主の恵みが私たちに降りそそがれているという恵みの本質と、イエス・キリストの名によっての救いの本質、その両者の違いを学ばせていただきました。今朝は、『創造の神と聖霊とイエス』と題しまして、私たち、キリスト者は、創造の神の御名を讃え、聖霊に満たされ、イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行い、神のことばを大胆に語る使命があることを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

ペテロとヨハネは男性5千人にみことばを告げ、その騒動のため、彼らは一時的に捕らえられてしまいました。そして、彼らが美しの門で癒しを与え救いに導いた40代の物乞いの男性と共に、大祭司たちの前で、大胆に、その癒しの力と救いは、ナザレ人イエス・キリストの御名によるものであることを証したにもかかわらず、大祭司たちは民を恐れて罰せず、ペテロとヨハネは釈放されるのであります。今朝の聖書の箇所は、彼らが釈放され、仲間のところに戻り、皆が心一つとなって力づけられる場面であります。

 

まず弟子たちがしたことは、創造の神、主の御名を讃えることであります。私は、このことはとても大事だと思っています。私たちは、祈りの中で、また賛美の歌を歌う中で、本当の意味で、心から創造の神の御名をほめたたえているでしょうか。ペテロやヨハネに代表される弟子は、イエスの弟子であります。イエス・キリストの御名をほめたたえることを始めにしても良いはずです。しかし、そうはしません。なぜなら、イエス・キリスト御自身が、創造の神である父の御名を常にほめたたえる方であったからです。弟子たちはそのイエス様に倣っているのです。イエス様が私たちにくださった、一番簡潔で、そして完成された「主の祈り」、皆さんはもうそらで唱えることができるぐらい、親しんでおられる祈りであります。その「主の祈り」の冒頭句は、「天にまします我らの父よ、ねがわくは、御名をあがめさせたまえ」であります。天におられる私たちの父、創造の神、その方の御名をあがめる、ほめたたえることが、祈りの初めなのです。もちろん、私たちの祈りは、たとえば、「愛しまつる天の父よ、御名をあがめさせたまえ」とか「愛する天のお父さま、御名と御血潮をあがめます」から、始めることが多いでしょう。しかし、私たちは、本当に創造の神の御名をあがめているのでしょうか。祈りの「願い」の本題に入るための慣用句として、用いてしまってはいないでしょうか。私は、情けないのですが、ときどき、そんな時があり、後で反省させられるのです。私は、最近、主の御名をあがめることにもっと時間を割きたいと思わされています。私がまだ、信仰をもっていない時に、4人が集まり、祈りのグループが作られました。その祈りのグループでは、初めの三分の一を、ただただ創造の神、主の御名をあがめることに、中の三分の一を、以前の祈りの答えと導きに対する感謝、そして最後の三分の一を自分以外の人に対する執り成しの祈りという質的配分がずっと守られてきました。その中で、主の御名を讃美するときに、よく詩篇が用いられていたことを思い出します。全員で朗読する時もあれば、一人が朗読し、他のメンバーがそれに応答するという形もありました。詩篇は主の御名を讃美する、とてもよい見本だとも言えます。どの詩篇でもよいのですが、たとえば、詩篇146篇はいかがでしょう。ハレルヤから始まり、ハレルヤで終わる詩篇の一つです。せっかくですから、146篇をお読みいたします。目を閉じて、心の中で応答してみてください。

 

詩篇146篇

ハレルヤ。

私のたましいよ。主をほめたたえよ。

私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。

いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。

君主たちにたよってはならない。

救いのない人間の子に。

その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、

その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。

幸なことよ。ヤコブの神を助けとし、

その神、主に望みを置く者は。

主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。

とこしへまでも真実を守り、

しいたげられる者のためにさばきを行ない、

飢えた者にパンを与える方。

主は捕らわれ人を解放される。

主は盲人の目をあけ、

主はかがんでいる者を起こされる。

主は正しい者を愛し、

主は在留異国人を守り、

みなしごとやもめをささえられる。

しかし主は悪者の道を曲げられる。

主は、とこしえまでも統べ治められる。

シオンよ。あなたの神は世々にいます。

ハレルヤ。

 

私たちは、もっともっと、時間的にも質的にも、創造の神、主の御名をほめたたえるべきなのではないでしょうか。

 

さて、次に「聖霊の満たし、聖霊の働き」であります。今回シリーズとして学んでいます「使徒の働き」は「聖霊の働き」の証でもあります。このシリーズ中、じっくりと取り組ませていただきたいと思っていますが、今朝は、「聖霊の満たし」のことを少しだけ学ばせていただきたいと思うのであります。「聖霊が臨まれる」時(使徒1:8)、五旬節(ペンテコステ)の時のように、弟子たちは、「聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉(異言)で話し出した」(使徒2:4)というような表現を思い出します。ここでは「聖霊が臨まれる=聖霊に満たされる」ということであり、「聖霊の満たし」が異言を語るような、通常ではない現象が起こることが期待されるのかもしれません。今朝の聖書の箇所でも、「彼らがこう祈ると、その集っていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」とあります。「聖霊の満たし」が、地震のようにその場所を震い動かすというような通常ではないことを起こすのかもしれません。しかし、他方で、「聖霊の満たし」は、弟子たちに勇気を与え、「神のことばである御言葉を大胆に語り出す」ようにさせるのであります。これも、通常ではない現象であるといえば、言えなくもないのですが、この時の「聖霊の満たし」は、私たちが神の中に入る、神の御手に包まれ守られ、力を得ている、語っているのはすでに語り手ではなく神である、そのような状態なのかもしれないと思わされています。それは、私たちが経験するところの興奮状態というものではなく、それを尽きぬけていて、なおも平安の中にいる状態、聖霊である神に突き動かされている状態ではないでしょうか。イエス様はそのことを、弟子たちに次のようにおっしゃいました。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」(マルコ13:10-11)逆に言えば、「聖霊に満たされなければ、私たちは言うべき言葉を失い、私たちの口から出る言葉は空しいものとなる」のです。イエス様が天に上げられてからは、天の父なる神は、聖霊をイエス様の霊的存在として、私たちにお与えくださるのです。イエス様はおっしゃいます、「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるものは、世が与えるものとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:25-27) 聖霊は平安であり、イエス様の平安でありますから、聖霊=キリストであるとも言えるのです。つまり、「聖霊の満たし」の経験は、キリストの内住によるキリスト支配によるものでもあり、キリストの守りによるものでも、キリストの平安によるものでもあるのです。

 

「聖霊」は、創造の神、天の父からの一方的な恵みでもあるのですが、それはイエス・キリストを通してでしか受けられないのです。ですから、イエス様は、「わたしの平安を残す」と言われるのです。そして、イエス様の弟子たちは、「イエスの御名によって、しるしと不思議なわざが行える」ことを信じ、またそのように知っていて、そのしるしとわざを大胆に求めていくのです。しかし、弟子たちは、しるしと不思議なわざだけを求めているのではありません。むしろ、それらのことよりも、「大胆に福音を伝える」ことに、聖霊は働かれるのです。パウロはそのことを次のように説いています、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。」(2テモテ1:7-8)実に、聖霊は、福音を伝えるために、あらゆる手段を使って働かれるのです。そのために私たちは、私たちに内住するキリストによって、生かされています。キリストは生きて働かれておられます。どうか、創造の神からの知恵と力を得て、聖霊であるキリストの助けを得て、イエス・キリストの名によって大胆に福音を宣べ伝える者とさせていただきましょう。

 

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名を褒め、あがめることから始めてください。聖霊の満たしである、キリストの抱擁を感じてみてください。キリストの平安の内に自らを置くような感覚で、主の平安を味わってみてください。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、御名をあがめます。あなたは私の救い、私のいのちであります。今朝は、『創造の神と聖霊とイエス』と題し、私たちは、まず創造の神である主の御名をあがめ、内なるキリストによって、知恵と力と導きを与えられ、大胆に福音を語るものとさせていただくべきであることを学びました。どうか、内住のキリストの働きに敏感になるよう、私たちの心を常に主に向けさせてください。

今朝の学びを、主イエス・キリストの御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。



賛美: 新聖歌140「天つみ使いよ」

賛美: 今月の歌・新聖歌20「主の真実はくしきかな」(献金の時)

今月のワーシップソング「Father I Adore You」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、民数記6:24-26、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



Father I Adore You

(Words & Music by Terry Coelho)

 

Father, I adore You

Lay my life before You

How I love You

 

Jesus, I adore You

Lay my life before You

How I love You

 

Spirit, I adore You

Lay my life before You

How I love You

 

Adore: あがめる、崇拝する

Lay my life before You: 主にこのいのちを供えます・ささげます