大阪南朝祷会2018.9.5
聖句:エゼキエル29章16節 (新共同訳)
「イスラエルの家は、もはや、彼らに頼らず、かつて彼らを頼みにして犯した罪を思い起こす。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」
メッセージ主題:『期待外れではない』
私は、2000年から大阪北区の南森町で、ヴァイン英語センターという英語教室を細々と営んでいます。ヴァインとは「ぶどうの木」のことであります。そして、生駒聖書学院通信科を去年の3月に卒業し、その年の7月に「単立ぶどうの木キリスト教会」を開所させていただきました。まだ、開拓伝道中で、信徒の方はどなたもいらっしゃいませんが、じっくりと取り組まさせていただいています。神様のみ心であれば、できるだけ長く、この二足の草鞋をはき、テントメーカーとして、福音を伝えていく者とさせていただければと願っております。
この朝祷会のお話しをいただいた時に、私はエゼキエル書を読んでおりました。今朝はそのところから示されています箇所を通して、皆さまといっしょに「主の声」を聞かせていただこうと願っております。
さて、今日のタイトルであります「期待外れではない」とは、実は英語からの訳であります。本来の英語は、You are not disappointment. でありまして、disappointment とは「失望、期待外れ」という意味でございます。この表現が、あるアメリカのテレビドラマをインターネットで観ています時に、ふと耳に飛び込んできたのです。そのシーンでは、父親が、落ち込んでいる息子に声をかけているところでした。高校生の息子は、一生懸命勉強する訳ですが、あまり良い成績がとれませんでした。それだけではなく、生活面でも、良かれと思い、いろいろとチャレンジするのですが失敗をしてしまいます。息子は、父親の期待に応えられたとしたら、落ち込んでいきます。しかし、父親は、そんな息子の肩に手を置き、You are not disappointment. 「お前は、期待外れではないよ」と言って、彼を慰めるのであります。人は誰かの期待に応えようとして頑張ることがあります。期待に応えられたとしたら、褒められもしますし、自信にもつながるでしょう。しかし、その期待に応えられなかったとしたら、落ち込んだり、すねたり、自暴自棄になったりして、逆に反発するかもしれません。しかし、そんなときに、「お前は、期待外れではないよ You are not disappointment.」と声をかけられれば、どんなに慰められ、ふたたび顔を上げ、前を向く勇気がでてくるでしょうか。
アメリカで、子どもを褒める表現として、一番よく使われますのは、I’m proud of you. 「お前を誇りに思う」であります。しかし、私たちの主、創造の神は私たちに対して、I’m proud of you. とは褒めないような気がするのです。実は、聖書の中では、pride は「自尊心」ではなく「高慢」であり、proudは「高慢になっている」として表現され、「高慢」は自分自身を偶像礼拝するという、神の最も嫌うものであります。その上、私たち人間は、失敗ばかりしていますし、神に褒められるようなことをしているとは思えないからです。あのパウロでさえ、「私はその罪人のかしらです」と告白しています。それは、謙遜で言っているのではありません。彼は、罪に対して深い理解をしているからです。ですから、パウロも思っていたはずです、「ああ、また失敗してしまった。失敗ばかりしている」と。悔やんだことも多々あったでしょう。しかし、パウロは、「こんなに失敗し、罪深い者だから、もう救われないんじゃないか」とは、決して思わないのです。テモテへの手紙1章15節では、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに価します」と説いています。私の知っている方で、いつもいつも同じ間違いをし、その間違いのたびに悔い改めますが、もう赦されないんじゃないか、と嘆く人がいます。その人はイエス様の次の言葉をどう思うのでしょうか。ルカ書19章10節です、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」イエス様は罪人を救うためにこの世に来られたのです。これはパウロも確信していることです。ですから、パウロは、「赦されないのではないか」とか「救われないのではないか」という疑問を持たないのです。『悔い改めれば赦されます、イエス様の救いを信じれば、救われます。』これ以上に神様との和解、救いに対する条件はありません。ルカ書17章4節では、イエス様はなんとおっしゃっていますか。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」この七回は実際の七回ではなく、「何回でも」という意味です。イエス様が弟子たちにそのように諭すわけですから、ご自身のもとに何回悔い改めに来たとしても、そのつど赦されるわけです。自分がしないことを、弟子たちにすすめるようなお方ではありません。『心からの悔い改めをすれば、神は私たちを赦され、罪の海から引き上げられ、救いに導かれるのであります。』
旧約聖書を見てください。イスラエルの民は、何回失敗し、神に対して罪を犯しているでしょうか。確かに、北王国イスラエルは陥落し、滅ぼされました。しかし、南王国ユダは、バビロン捕囚を経ても、民は存続していくわけであります。そして、神は、400年間の沈黙の後、救い主イエス様を誕生させ、イスラエルの民だけではなく、全世界の民を救うご計画をお始めになるのであります。旧約時代にしろ、新約時代にしろ、私たち人類は、罪の性質があるがゆえに、神に背き、罪を犯し続けてしまいます。しかし、神は忍耐強く、私たちが神のもとに帰って来るのをお待ちです、いえ、ただただ待っているだけではなく、私たちをそのように導いてくださっているのです。預言者を通し、聖書を通し、主にある兄弟姉妹を通して、神は導かれるのです。私たちの内に住みたもう聖霊であるキリストが、私たちを日々造り替え、新しくしてくださるのです。
今朝の聖書の箇所、エゼキエル書の執筆者であります、エゼキエルは、バビロン捕囚の民と共にいた預言者であります。エゼキエルもまた神に選ばれた、民の導き手です。私は、このエゼキエル書を読んでいましたとき、なんとまあ、ある表現が頻繁にでてくるのだろうという印象を持ちました。それもそのはず、48章中、49回出て来ます。その表現とは、「わたしが主であることを知るようになる」というものです。この表現の背景は二種類あり、一つは、『神に背き、痛い目にあって、わたしが主であることを知るようになる』というものと、もう一つは、『敵から神に守られ、わたしが主であることを知るようになる』というものです。試練ゆえに主を知るか、守りや祝福ゆえに主を知るか、どちらにしても、神の導きによって、主を知るようになるのであります。「主を知る」とは、神が絶対主権をもち、私たちは神の導きに従い、神の裁きにも従わなければならないということが分かるということです。また、「主を知る」とは、アダムがエバを知ったように、主と和合し、一つとなるということでもあります。主と霊的に心をひとつにできる、それ以上の幸せはないのではないのでしょうか。
ではなぜ、神はエゼキエルを通して、このようにくどくどと同じことを言うのでしょうか。エゼキエルと共にいる民は、エルサレムから遠く離れたバビロン捕囚の民であり、信仰のリーダーたちです。50年60年とも言われる捕囚の期間に、世代は移り変わって行きます。異教の地で、ある程度自由を許され暮らして行けば、文化の交流とともに信仰の衰退が行われます。人間は弱いのです。それを神は十分ご存知ですから、事あるごとに、だれが真の神であるかと示す必要がありました。エゼキエルは、神からその注意喚起を賜わって、「わたしが主であることを知るようになる」と口酸っぱく告げるのであります。
さて、今朝の聖書の箇所を見てみましょう。29章1節から16節までは、エジプトの王、ファラオへの預言であります。エゼキエルは、8節から12節で、エジプトがバビロン軍の侵略をうけ、40年間荒れ果てた地となり、その間に、エジプトの民は周りの国々に散らされると預言します。そして、13節からは、その40年間の後、散らされていたエジプトの民は、エジプトに帰され、神はエジプトの繁栄を回復するが、エジプトはかつての大国ではなく、小国にとどまり、他の国々への侵略をゆるさないとエゼキエルは預言します。神がなぜそのようにされるのか、それは、同時にバビロン捕囚が終わり、エルサレムに帰されたイスラエルの民が、もう二度とエジプトに頼ることがないようにするためであります。神を信頼するのではなく、エジプトに頼ってしまったという過去の苦々しい失敗を思い出し、その失敗を繰り返さないように、神はエジプトを再興させますが、小国にとどめ、イスラエルが頼ろうという気を起こさせないようにするのです、イスラエルを神のもとへと導くために。
私は、神の導きは、神の愛そのものだと思っています。親が子をしかるように、神もまた私たちに試練を与えられます。また親が子を褒めるように、神は私たちを祝福してくださいます。そして、親が落ち込んでいる子を慰めるように、神もまた私たちを神の平安によって包み癒してくださいます。私たちが、神を信頼し神に寄り頼むことによって、神に守られ、慰められ、元気づけられるのです。一日のうちで失敗をおかさない日があるとすれば、それは幸いなことです。私なんかはダメダメ人間です。毎日毎日失敗を犯しています。大なり小なり、失敗を犯さない日はありません。「あ~あ、なんてなさけないんだ」と思うわけであります。しかし、そんなときにこそ、私はある聖句を思い出すのです。それは、詩篇23篇4節で、「あなたの鞭、あなたの杖、それが私の慰めです」という御言葉です。神は私を必ず危険から守って下さり、義しい道へと導いて下さる。こんなダメダメ人間であっても愛してくださる、「期待外れではないよ You are not disappointment.」とおっしゃってくださるのです。そして、「わたしを信頼しなさい。わたしに頼りなさい。わたしにすべてを明け渡しなさい。そうすれば、あなたはわたしが主なる神であることを知るようになる」と優しく手を差し伸べてくださるのです。神は、私をあきらめません、そして皆さんをもあきらめません。なぜなら、独り子であられるイエス様をこの世に送られたほどに、私たちを愛してくださっているからであります。そして、今、あなたの肩に手を置き、おっしゃっておられるのです。「あなたはわたしが造ったもの。ゆえにあなたは尊い。決して期待外れではありません。あなたはわたしの子どもなのですから。」どうか、慰め主、癒し主であられる主の愛を感じ、主の御声に耳を傾けてください。そして、「主よ、もっともっとあなたを知るようにさせてください」と祈り求め続けていきましょう。お祈りをいたします。