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メッセージ主題:『神に従う→証人となる』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年9月16日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌321「浮世の風と」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Father I Adore You」

交読: 交読文39:詩篇第122篇:新聖歌p.911

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌222「罪の深みに」

 

聖書拝読:使徒の働き5章29節~32節、40節~42節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。』」(29)

 

メッセージ主題:『神に従う→証人となる』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先々週は、『創造の神と聖霊とイエス』と題しまして、私たち、キリスト者は、創造の神の御名を讃え、聖霊に満たされ、イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行い、神のことばを大胆に語る使命があることを学ばせていただきました。今朝は、『神に従う→証人となる』と題しまして、私たち、キリスト者が従うべきお方はただひとり、イエス・キリストのみであり、そのことにおいて迫害を受けたとしても、必ず主の守りがあり、証人とさせていただけることを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

ペテロを筆頭とする使徒たちの宣教活動は、大祭司およびサドカイ派のねたみをかい、使徒たちは捕らえられ、留置場に入れられてしまいます。しかし、その夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出して、励まして言われました。「行って宮の中に立ち、人々にこのいちののことばをことごとく語りなさい」と。(17-20)使徒たちがそのように主に従って、宮の中で人々に語っていると、再び大祭司たちが彼らを捕らえ、議会の中で問い詰めます。「あの(イエス)の名によって、教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているのではないか。」祭司長たちは、自分たちが言った言葉を忘れてはいませんでした。ピラトが群衆の望みの囚人を釈放するという慣習に従って、「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか」とイエスを釈放することを提案したにもかかわらず、祭司長たちは、イエス様を十字架につけるために、群衆を扇動して「バラバを釈放しろ」「イエスを十字架につけろ」と言わしめました。そして、ピラトは、「この人(イエス)の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言って、群衆の目の前で手を洗いました。すると、祭司長たちを含む民衆は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」つまり、呪われてもいいと言ってしまったのです。(マタイ27:12-25)

祭司長たちはこのことを覚えていて、イエス様の弟子たちが、イエス様の名によって奇跡を起こし、教えを宣べ、民衆が彼らに耳を傾け、イエス様を信じることになれば、今度は祭司長たちに非難の刃が向けられることを恐れていたのです。彼らは、イエス様が神の子であったかどうかは別にして、自分たちのねたみによって、イエス様を十字架にかけたことを自覚していたのです。

 

使徒たちは、どうどうと祭司長たちに告げます、「人に従うより、神に従うべきです」。これは、ペテロとヨハネが以前に言ったことと同じです。「神に聞き従うより、あなたがた(議会)に聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見た事、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(マタイ4:19-20)

ここで、ペテロとヨハネや他の使徒たちが、「神に従う」と言ったことの具体的なことが読み取れます。それは、「使徒たちが見た事、聞いたことを話す」ということです。イエス様の起こされた奇跡とイエス様の話された教えについでです。そして、それはもっと具体的に、5章30節から32節に記されています。

 

30節:『神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスをよみがえらせたのです』

確かに、イエス・キリストを十字架に実際にかけたのは、時のローマ軍であり、祭司長たちでありました。しかし、もう少し、つっこんで考えてみましょう。イエス様は、十字架にかかるために生まれてこられたのです。イエス様の使命は、私たちの罪を、自らの血によって贖う、帳消しにするために、十字架にかかられたのです。つまり、私たちがイエス様を十字架にかけたとも言えるのではないでしょうか。もちろん、実際に私たちが手にかけたわけではありませんが、結果的にはそうなるのではないでしょうか。私たちは、「イエスを十字架にかけろ」と叫んでいた民衆の中にいたのです。そして、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と言ってしまったのです。つまり呪いを自らにかけてしまったのです。イエス様の血の責任は私たちにあるのです。

しかし、神はそのイエス様をよみがえらせたのです。死を克服し、永遠のいのちをもつイエス様を信じることによって、そのイエス様をよみがえらせた神を信じるように、神は私たちを導かれるのです。パウロが次のように説くとおりであります。「アブラハムは、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、『彼の義とみなされた。』と書いてあるのは、ただ彼のためだけではなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:20-25)

私たちは、イエス様の血の責任があります。それは、イエス様の命を償うというマイナスの責任ではなく、またそのようなことはできるはずもありませんが、「イエス様を信じる」というプラスの責任を負っているのであります。

 

31節:『神は、悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました』

「死を克服しよみがえられたイエス様は、神の右に上げられました」とは、イエス様が神の子としてのすべての権威を相続継承したことになります。そして、その権威をイエス様ご自身が説かれておられます。「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18) 創造の神と神の子であるイエス様しか、命に関する権威は持っていないのです。

そして、神は、私たちに、神に向き直るという悔い改めと罪の赦しをお与えくださいます。それは、神からの一方的な愛の賜物であります。

父なる神の権威を継承されたイエス様を、私たちは君として、主として、救い主として、あがめることを、神はお許しになられました。なぜなら、私たちはイエス・キリストを通してでしか、神を知ることが出来ないからです。そのことを、イエス様自ら証しされておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたはもしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:6-7)「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分からはなしているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:10-11)

 

32節:『私たちは、そのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です』

使徒たちだけでなく、主のしもべである私たちも、証人なのです。つまり、すべてのキリスト者は証人として立てられています。私たちはそのことを自覚すべきです。しかし、証人としての役割は、私たちの自分の力によるものではありません。神がキリスト者にお与えになる聖霊も証人であり、その聖霊の働きによって、私たちは証人たるものとされるのです。つまり、内に住みたもうキリストである聖霊が働かなければ、私たちは証人ではなくなるのです。いくら御言を唱えたとしても、聖霊による働きに助けられない限り、私たちには、福音を伝える力はありません。

 

以上のことが、私たちに課せられた「神に従う」ことの具体的な事柄です。そして、イエス・キリストの証人となるとうことは、ある一定期間のプロジェクトではありません。使徒5章41節では、主の御名のために迫害があろうとも、辱めを受けたとしても、常に喜ぶ者であるべきであり、また42節のように、毎日(つまりいつでも)、教会や家庭などで(つまりどこででも)、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けることが肝心なのであります。もう一度申し上げます。神に従うとは、主の証人となることであり、それはプロジェクトではなく、その人の生き方、そのものでなければなりません。それを怠れば、私たちには、永遠のいのちではなく、死が突然おとずれることになるやもしれません。それは、あたかも、神を欺いたアナニヤとサッピラのように。彼ら夫妻が犯したのは、献金額をごまかしたという罪ではなく、嘘をつくという、神に対する欺きの罪による永遠の死なのであります。イエス様はおっしゃいます。「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタイ12:21-22)「聖霊に逆らう」とは、二心のことでもあるでしょう。神は二心を赦されないのです。ヤコブの手紙では、主はヤコブの手をかりて、次のように説きます。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」(ヘブル4:8)二心の人たちは、神に近づいていないか、二つのものに仕えている人です。私たちは、常に神に近づき、二心なく、主の証人として生かされ続けましょう。

 

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名を褒め、あがめることから始めてください。主に近づき、聖霊の満たしである、キリストの抱擁を感じてみてください。キリストの平安の内に自らを置くような感覚で、主の平安を味わってみてください。その上で、主の証人として立てられますように、二心ないものとなり続けますようにと、願い求めてみましょう。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、御名をあがめます。あなたは私の避け所、また力。そして、私の助けでありいのちであります。今朝は、『神に従う→証人となる』と題し、私たちが神に従うとは、キリストの証人として生きることであると学びました。どうか、内住のキリストの働きにより、常に神をあがめ、神に従うものとさせてください。

今朝の学びを、主イエス・キリストの御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌167「天も地も」

賛美: 今月の歌・新聖歌20「主の真実はくしきかな」(献金の時)

今月のワーシップソング「Father I Adore You」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

Father I Adore You

(Words & Music by Terry Coelho)

 

Father, I adore You

Lay my life before You

How I love You

 

Jesus, I adore You

Lay my life before You

How I love You

 

Spirit, I adore You

Lay my life before You

How I love You

 

Adore: あがめる、崇拝する

Lay my life before You: 主にこのいのちを供えます・ささげます