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メッセージ主題:『変われる秘訣』

岸和田福音キリスト教会 主日礼拝2018.9.23

聖書箇所:ヨハネの福音書2章1節~11節

中心聖句:「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』」(5)

テーマ:「神様からのすばらしい救い」

メッセージ主題:『変われる秘訣』

敬老の日

おはようございます。先週の月曜日は、「敬老の日」でございました。そして、日曜日には「敬老の日」の集いがあったのではございませんでしょうか。皆さま、楽しくお過ごしになられたことと思います。敬老の日で思い出しますのは、もうかれこれ8年前ぐらいのことでございますでしょうか。 私が70歳になった時に何をしているかと思い描いたことがございました。その時に、開いた聖書の箇所が旧約聖書のヨエル書でございます。これは、3章しかありません短い預言書です。2章28節です。お読みいたします。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」なにかウキウキワクワクするところではございませんか。夢も幻も同じことであります。

年寄りも若者も、夢を見、幻を見ると、神様はおっしゃるのです。そして、その上に、神様は、「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とおっしゃいます。つまり、神様は、神様の霊を注いで、私たちが夢を見ること励ましておられるのです。後押しをされるのです。この聖句は、私にある夢をみせてくれました。70歳になる前に「福音を伝える者にさせてください」そのような夢をいただきました。この教会に集っておられる皆さまはいかがでしょうか。歳に関係なく、夢を見ておられるでしょうか。夢を見てください。神様がその夢の後押しをしてくださるのです、こんな心強いことはございません。今の自分を変えられる夢なのです。この教会の横谷先生も夢をみたお一人であります。会社仕事を全うし、定年退職し、第二の人生を、イエス様に捧げられました。信徒から牧師へと変えられたのです。なにも献身して、牧師になることだけが、夢ではありません。どんな夢でも結構です。私の回りには、そんな方がたくさんいらっしゃいます。皆、それぞれに夢を見させていただき、また今も新しい夢に向かって歩まれておられるのであります。

自己紹介

さて、私(わたくし)は、こちらの教会ははじめてですので、少し自己紹介をさせてください。いつもでしたら、かたく、まじめに、お話しをさせていただくのでありますが、今日は、オープン・チャーチということでございますので、少しやわらかめにさせていただこうと思う次第であります。また、先ほどの夢のこともお話しできればと思います。

私は、当年とって、62歳となりました。62歳といえば、定年退職をして、悠々自適な生活もできるかも知れませんが、私の場合は自営業でございますので、定年がありません。大阪北区にあります日本一長いと言われる天神橋筋商店街で、ヴァイン英語センターというちっぽけな英語塾をほそぼそと営んでおります。ヴァインというのは、英語で「ぶどうの木」という意味でございます。はやとちりの方は、「ヴァイン」という屋号をみて、「ワインを飲みながら英語するのですか」とか「ワインを輸入販売されておられるのですか」とお尋ねになるのであります。ぶどうのお酒「ワイン」と間違っておられたのですね。私は下戸なものですから、お酒類はたしなみません。いたってまじめに英語塾をさせていただいております。

「ヴァイン英語センター」と命名させていただきましたのは、聖書のヨハネの福音書15章5節からであります。お読みいたします。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」そのようにして、2000年1月から今のところで塾を開かせていただき、「多くの実を結ぶ」のではないかと期待しつつ、もうぶどうの実がたわわになることを夢見ながら、そしてずっと夢を見、期待するだけで、今に至っています。神様は、「私が儲けて、収入が多くなると、こいつは何をしでかすか分からん」と思っていらっしゃるのでしょうね。英語塾は経営的には低空飛行のままでございます。しかし、低空飛行なりにずっと続けて来れたのは感謝です。振り返って見ますと、いろいろ苦しい時期もありました。しかし、その都度、神様は救いの手を差し伸べてくださいました。まことにまことに感謝でございます。

「ぶどうの木キリスト教会」は昨年7月から、その英語塾の教室で開かせていただいています。同時に牧師をさせていただいています。つまり、まだ1年とちょっとしかたたない、二足の草鞋をはいた、ひよっこ牧師であります。やっと、神様との約束の第一歩が始まったばかりです。先ほど、すこし話をさせていただきましたが、今から約8年ほど前に、神様からの声を聴いたような気がしました。「福音を伝える者となりなさい、イエス様の愛を伝えなさい」と。それまでは、そんなことは思いもよらないことではありましたが、牧師になるという夢が与えられました。そして、決断したのであります、牧師になる努力をしよう、神学校の通信科を受けてみようと、門をたたいたのでございます。そうすると、あーら不思議、こんな私にでも、門が開いたのであります。神様の御名をたたえました。

さて、自己紹介にもう少しお付き合いください。私が洗礼を受けた時の話をさせていただきます。

洗礼を受けましたのは、1983年6月4日のことであります。アメリカのインディアナ州の大学町、インディアナ州とは、カナダとアメリカの国境にあります五大湖、ナイアガラの滝が有名ですね。その五大湖の真南にインディアナ州がございます。

インディアナ州の州都であります、インディアナポリスで毎年行われていますインディ500という自動車耐久レースで、今年、佐藤琢磨という方が日本人で初めて優勝するという快挙を達成されました。皆さまもご存じかもしれません。そのインディアナ州であります。その下にはケンタッキー州、KFCのフライドチキンの発祥地がありますね。そんなインディアナ州の大学町にあります単立教会、エバンジェリカル・コミュニティ・チャーチ(訳しますと福音宣教地域教会とでも申しましょうか)その教会が、その近くにあります小学校のプールを借りまして、サブーンとつかる、いわゆる浸礼式という洗礼のしかたで、私は「私はイエス様を私の救い主と信じます。私はイエス様に従います。」と告白させていただきました。

イエス様とのお見合いは、つまりイエス様を知るきっかけとなりましたのは、そのまた1年ぐらい前になりますでしょうか。私は大学の寮で寮生活をしていたわけですが、寮の食堂のある一角では、いつも同じメンバ―のそれもいろんな国の学生たちが集まっていまして、賑やかに食事をとっております。彼らがクリスチャンであることは、前々から気がついていましたが、まあ、魔が差したとでもいいましょうか、彼らの笑顔が、とにかく素敵でございまして、せっかくアメリカにいるのだから、キリスト教のひとつやふたつ、いや、キリスト教はひとつしかございませんが、そのキリスト教を学んで帰って行っても、無駄にはなるまいと、そう思いまして、彼らのテーブルに近づいたわけであります。興味本位といいますか、怖いものみたさといいますか、それに、英語も聖書の影響をとても受けておりますので、聖書ぐらい知っておかないでどうする、ということで、次の週から、バイブル・スタディという、聖書のお勉強を、またそれもマンツーマンでさせていただきました。きれいな青い目の女性であれば嬉しかったのですけれど、ちょうど今の私ぐらいの年代のインド人の宣教師について学ばしていただきました。

しょっぱなから、「あなたには、罪がありまーす、罪人でーす」と日本語ではなくインド英語でそのように言われ、「罪や罪人」ってなんだろう。犯罪を犯しているわけでもないしと、頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになりました。まあ、とにかく辛抱して、聖書とにらめっこしていたら、なんとなく分かって来るんじゃないかと毎週毎週、通ったのであります。そうしますと、「罪」のことが少しずつ分かってきます。「罪」の原点とは、「神様から離れること、背を向けること」で、色々な罪はそこから発生しています。その罪のゆえに、人は自分を守るために嘘をつき、その自己中心の嘘が、どんどんエスカレートして犯罪へとつながっていきます。私もその罪を持っていると示されました。そうして、約一年が過ぎようとしたとき、教会の牧師先生が、この方は白人の方でありましたが、「そろそろ洗礼を受けてみてはどうかね、ミスターワカタケ」と肩に手を置かれました。『あー、来た来た来た!』と思いましたね。「まだ、聖書もぜんぶ読めてませんし、罪のこともはっきりと分かったわけではありませんし、早すぎるのでは」と言おうとしたのですが、口からは「イエス」と返事してしまいました。しゃれではございません。なんと優柔不断な私でしょうか。

その牧師先生は、そのとき、「よかった、よかった、イエス・キリストを信じようと決心することから、始まるんだよ、信仰生活は、ミスターワカタケ」とギューッとハグしてくださったのであります。その牧師先生の嬉しさとはうらはらに、「あー、これから、どんな風に変わっていくのだろう」と一抹の不安を抱えている私がそこにいました。今だから、分かるのでありますが、信仰生活はイエス・キリストを「信じよう、信じてみよう」と決心することから、始まるのであります。私は、イエス・キリストとお見合いし、一年の交際期間を経て、結婚しようと決意し、(あ、気持ち悪がらないでくださいね、神さまと結婚するわけでございますから)、その決意をし、洗礼という結婚式を経て、結婚生活にはいった訳であります。もちろん、皆さまもご経験があるかも知れませんが、結婚生活はほれたはれただけではやっていけません。イエス様との結婚生活である信仰生活も同じであります。紆余曲折あり、山あり、谷あり、谷あり、どん底の谷あり、そして、ちょっとの丘あり、そのような信仰生活を送りながら、今の私があるのでございます。しかし、相手が人間の結婚生活と違うところは、イエス様はぶれない、言うことがころころ変わらない、そしてイエス様は私をあきらめません。常に愛してくださっています。ぶれているのは、ころころ変わるのは、愛がなくなるのは、私のほうだけなのです。幸いなことに、常に、私にはもどる場所があります。すねてみて、家出をしたとしても、イエス様は両手を広げて、あちらから駆け寄ってくださるのです。失意のどん底にいて、泥沼状態で、イエス様を見失って溺れそうになった時でも、手を差し伸べて、引っ張り上げてくださるのです。怯えている私を包んでくださるのです、ぎゅーっと。淋しい時、不安な時に、私が顔を上げれば、いつも、イエス様がそこにいらっしゃるのです。35年間よく守っていただいたとイエス様に感謝する日々であります。

さて、このへんで自己紹介を終わらせていただきまして、今から、今朝の聖書の箇所をお話しさせていただきたいと思います。

主メッセージ

今朝の聖書の箇所は、33歳のイエス様が、ガリラヤ湖周辺で弟子を選び、ガリラヤ湖よりも西のほうにあります、カナという町に、弟子たちを全員つれて、婚礼に出席をするところであります。

その当時の婚礼は、1週間ほど続くこともあったようでして、招待客はもちろん、通りがかりの人でも、家の中に入って、「おめでとうございまーす!」っと、傘の上でマリを回す訳ではございませんが、そのように言えば、おなかいっぱいの食事とお酒にありつけたそうでございます。昔の人は太っ腹でございますね。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く」(ローマ12:15)そのような精神が育まれていたのかもしれません。

さて、この婚礼には、イエス様の母親でありますマリヤもいました。マリヤはどちらかといえば、お手伝いに来ていたようです。母マリヤが息子のイエスを見かけて、声をかけます。

(マリヤ)

「あら、イエス、来てたんだね。ちょうどよかった。ぶどう酒がなくなったんだよ。なんとかしておくれぇな。」

このように落語風に言ったか、どうかは分かりませんが、マリヤはわが子イエスの顔をみるなり、ぶどう酒がなくなって困っていることを伝えました。確かに、マリヤは非常に困っていました。

それもそのはず、イスラエルの方では、ふつう、婚礼でぶどう酒を切らすことは、その家の恥であります。

ですから、ぶどう酒は、余ってもいいぐらいに準備しておくのが普通でございます。それでも、ぶどう酒を切らすということは、その家は、あまり裕福な家庭ではなかったかも知れませんし、またイエス様一行の到着が、婚礼の期間の終わりごろだったのかもしれません。しかし、どちらにしても、その家の面子丸つぶれであります。母親マリヤが手伝いに来ていたのだとしたら、その家は、マリヤの親戚か知人の家だったのかもしれません。なおさら、マリヤは息子のイエスが来たときに、すがるように、「ぶどう酒がありません」と、息子になんとかしてほしいと訴えたのです。『こう言えば息子は分かってくれるだろう。ひょっとしたら、弟子たちを手伝わせて、ぶどう酒を買って来てくれるかもしれない。』と思ったのであります。昔から、母親思いの息子でしたから、なんとかしてくれるのじゃないかとマリヤは大いに期待したのでございます。

ところが、イエス様の答えは意外なものでした。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方(これはすごく尊敬を込めた呼び方だそうでございますが)、女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

『うわっ、他人行儀やなぁ』と思いませんか。しばらく会っていなかったとしても、ちょっとおかしな返事ですよね。私が親でしたら、「どの口がゆうとんねん、それが親に向かって言う言葉か!」こう、口元をひねて、言いたいところでございますが、まあ、相手は33歳のもういい大人ですから、そのようなことはしないでしょうが、皆さんはいかがでしょうか。

しかし、マリヤはその時、約20年前のある出来事を思い出していました。息子イエスが12歳の時のことです。12歳といいますと、イスラエルでは女の子の元服の時、そして、男の子は13歳だそうでございます。ですから、イエス様はちょうど元服を前にしての、大人扱いされるかされないかの微妙な年齢でございました。そのイエス様が12歳の時に、一家は、親族や近隣の人たちといっしょに、過越の祭の慣習にしたがって、エルサレムの都にのぼって行きました。祭りの期間をそのエルサレムで過ごしてから、帰路に着いたわけでありますが、その途中、息子イエスの姿が見当たらないことに気がつきます。

「おーい、マリヤ、イエスはお前と一緒じゃなかったのかい。」

「何を言ってんだよ、お前さん。イエスはあともう少しで元服の男の子。お前さんと一緒に歩いていたのじゃないのかい、男同士でさ。」

「困ったねぇ、どこいっちまったんだろうね。ひょっとすると、一番最後の人たちと一緒なのかもね、ちょっと見てきておくれぇよ、ヨセフさん。」

団体で、長い列を作って移動していましたので、さあ宿を取ろうというところで、気づいたのでございます。今の世でもそうでございますが、団体での旅では、どんどんと列が長くなっていくのが常でございます。しかし、列の最後になっても、息子イエスの姿が見当たりません。父ヨセフと母マリヤは慌てて、息子イエスを捜しながらエルサレムへと戻って行きました。結局、三日の後、少年イエスが、神殿で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしているのを見つけました。そして、母マリヤは次のように息子に言いました。

「また、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのですよ。」

すると、少年イエスは、あやまりもせず、このように返事をしました、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」 また、偉そうですね。私だったら、「またどの口が」と言いたいところでございます。マリヤもその時には、この息子の言葉の真意が分かりませんでした。(ルカ2章) しかし、今回、もう一つのことと考えあわせてみますと、12歳の時の少年イエスの言葉も、この度の33歳の時の言葉も、マリヤには納得できたのです。

そのもう一つのこととは、マリヤが結婚する前のことでした。御使いが現われマリヤに次のように告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。そえゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1章)クリスマス劇のときによく聞く言葉であります。

マリヤは、このことを思い出して、ユダヤの民が待ち望んでいました救い主、ユダヤの民をローマの圧政から解放する救い主・キリストが、目の前にいるイエスであることを、確信するのであります。キリストの父は神であり、イエスは神の子と呼ばれる、そしてイエスは必ず自分の父の家である神殿にいる、また今、自分の母に対して「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と言い放つイエスは、もう息子ではなく、一人前の男性であり、救いの召命をおびたキリストであると、マリヤは理解したのです。

イエス様のおっしゃった「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」とは、「わたしは、今や弟子を選び、救いを実現するための召命をおび、働き始めています。あなたとわたしは、もう母親と息子という関係以上のものになっているのです。」とイエス様は母マリヤに告げておられたのです。誤解していただきたくはないのですが、イエス様はいやな息子ではありません。「わたしは弟子をとり偉くなったから、いちいち、そんな些細なことでわたしを煩わさないでください」と、母親マリヤに苦情を言ったのではありません。

イエス様は、母マリヤに「わたしは、天の父なる神様の意志で、今動いています。神様の栄光を現わすために働いています。ですから、今までの関係とは違うのですよ」と母を諭したのであります。また、「女の方。わたしの時はまだ来ていません」と言いつつ、それは次のことをマリヤに悟らせるためのものでありました。「誠実なる女性よ。わたしにはまだキリストとしての召命があります。母親の願いのためにするのではなく、神の御名があがめられるために、わたしは全てのことをします。あなたが願った、ぶどう酒の事も、天の父である神の栄光を現わすためにいたします」と。マリヤは、確信しました、『この方は、きっと、今、ぶどう酒がなくなって困っている状態を変えてくださる』と。

ですから、マリヤは、婚礼の手伝いの人たちに言いました、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」。マリヤは、イエス様がどのようにこの状況を変えてくださるのかは、分かりませんでしたが、イエス様を信じたのであります、いえ、イエス様にキリストを見たのであります。そして、今後、イエスを息子ではなく、キリスト・救い主として信じ従っていくと決心したのであります。

はたして、イエス様は、六つのおおきな石の水がめに、水を満たしなさいと手伝いの人たちに指示をいたします。そして、彼らに言われました、「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と。その水を汲んだところで、奇跡が起きました。世話役がその水を味わった時には、極上のぶどう酒に変わっていたのです。水が上等のぶどう酒に変わっていたのですから、この水をくんだ手伝いの者たちは、びっくり仰天だったことでしょう。そして、母親のマリヤに、そのことを報告した違いありません。ヨハネだけではなくどの弟子たちもそのような記述はどこにも記しておりませんが、そのことを聞いたマリヤは、イエスの母という立場から、イエス様をキリストと信じる信徒として変えられたのであります。また、弟子たちも、同じようにイエス様をキリストとして信じました。11節にそのように記述されています。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」と。マリヤも弟子たちも、イエス様に夢を見、イエス様に夢を託したのであります。

ローマ支配からユダヤ人を解放してくれる救い主キリスト、罪の意識でがんじがらめになっていた民衆を自由にする救い主キリスト、そして神様との和解を成し遂げて、永遠のいのちを与えてくださる救い主キリスト、それらをイエス様に見たのであります。

では、ここで皆さまにも考えていただきたいのですが、イエス様の弟子たちは、イエス様を信じて弟子になったのではなかったのでしょうか。たとえば、一番最初の弟子たちであります、ペテロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟、この四人は、ガリラヤ湖で魚をとる漁師でした。彼ら四人は、イエス様に「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われて、すぐに、その場で、漁師という仕事をほっぽり出して、「従った」とあります。(マタイ4章) 皆さま、彼らの態度に、ちょっと違和感ございませんか。社会人としては、ちょっと問題ありませんか。私が上司でしたら、こんな優柔不断で、他人の迷惑かえりみないような責任感のない部下はまっぴら御免でございます。なにせ、仕事を途中でほっぽりだして、「あの人、オレを、人間をとる漁師にしてくれるんだってさ、面白そうだから、ちょっとついていきます。さいなら」

てなもんでございます。いくら家業であったとしても、こんな息子たちをもつ、親もたまったもんじゃございません。特にペテロには奥さんもいたようですので、奥さんもかわいそうでございます。そういう軽率な無鉄砲な男たちが弟子になるということでありますから、本当の意味で、イエス様をキリストとして信じるまでには、及ばなかったのかも知れません、ただ、水が上等のぶどう酒になるという奇跡を見るまでは。ほかの弟子たちも、同様で、イエス様の「わたしに従って来なさい」という招きに応じただけなのであります、この奇跡の時までは。弟子たちはこの奇跡をさかいに少しづつではありますが、変えられていきます。この「水がぶどう酒に変わる」という奇跡によって、弟子たちは、マリヤと同じように、イエス様を救い主キリストと信じ、また、何があっても信じる、信じ抜くという決心をして、イエス様に従うようになっていくのです。水がぶどう酒、それも極上のぶどう酒に変わるという奇跡は、実は、『あまり褒められたものでない人間が、イエス様の弟子となり、イエス様への本当の信仰が芽生えた』、その奇跡を表しているものだったのです。もちろん、人に本当の信仰が芽生えたからといって、すぐに100%聖い人間になれるはずはございません。

聖書中の弟子たちを見てください。もう失敗続きでございます。しかし、イエス様は、ご自分がお選びになった弟子たちを決してあきらめませんでした。そして、今も、そうです。ここに、こうして来てくださっておられる皆さまは、イエス様に選ばれているのです。もちろん、「わたしに従って来なさい」という声は実際には聞こえないかもしれません。しかし、皆さまは、このようにここに集められました。イエス様が、皆さまをお招きになっているのです。今、水が上等なぶどう酒に変わるという奇跡が、皆さまの心の中で始まろうとしています。いえ、もうすでに始まっています。皆さまは、イエス様の招きにどう応えますか。聖書やイエス様のことをよく分かったから信じるのではありません。そんな人はいらっしゃいません。全てを分かってから信仰にはいった人はいないのです。イエス様を信じてみよう、いや、「信じます」と決心することが大事なのです。信じる決心をすれば、聖書やイエス様のことがもっとよく分かってくるだけではありません。あなた自身が変えられていくのです、あなたの内側から。あなたが変われる秘訣は、「イエス・キリストを信じます」と決心し、告白することなのです。

では、「イエス・キリストを救い主として信じます」という根拠は何でしょうか。イエス様の何を信じるのでしょうか。ここに有名な聖句、聖書全体を代表するひとつの聖句があります。ヨハネの福音書3章16節です。お読みいたします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

神様は、神の創造物である私たちを愛しておられ、私たちが永遠のいのちをもつようにと、ひとり子であられるイエス様をこの世にお送りくださり、罪のない真白なイエス様を十字架につけ、その聖い血潮によって、私たちの罪を拭われました。私たちの過去・現在・未来の罪は、イエス様のいのちによって帳消しにされたのです。私たちは、そんなイエス様を信じ、イエス様を通して、父なる神を知ることが許されたのです。イエス様が私たちの罪の身代わりとなってくださったのです。このことを私たちが信じない限り、私たちは変わって行かないのです。私たちの努力で、私たちは変わるのではありません。イエス様を信じることで、私たちの内に、聖霊とよばれるキリストが宿るのです。

そのキリストである聖霊は、私たちを、罪を犯しにくい性質へと変えてくださるのです。まるで、水が極上のぶどう酒に変えられたように、イエス様を信じることによって、イエス様の言葉に従うことによって、私たちも変えられるのです、変えられ続けるのです、永遠のいのちを与えられるにふさわしい者として、極上のぶどう酒として。

もしも、「イエス・キリストを信じます」と告白したにもかかわらず、ご自身が変えられていないとすれば、まだ、本当の意味で、イエス様にご自分を預けていない、信頼して、明け渡していないということになります。

実は私が長年そうでした。一生懸命、教会の奉仕をし、役員にもなりました。しかし、私は、イエス様の「わたしにより頼みなさい」というお言葉が、よく分かりませんでした。自分の努力で信仰を勝ち得ることができると勘違いをしていました。「わたしにより頼みなさい」という声が聞こえても、どのようにより頼んでよいか分からず、ずっと悩み、祈っていました。ある日、私が洗礼を受けた時のことが、思い出されました。両手を胸に当て、後ろに向かって、水の中に沈んでいくのです。不安はありませんでした。なぜなら、牧師先生がちゃんと手を差し伸べてくださって、救い上げてくださることが分かっていました。ですから、安心して、後ろ向きになって、自分を放棄できたのです。これが、イエス様のおっしゃる「わたしにより頼みなさい」ということだと示されました。35年前に受けた、あのザブーンの洗礼は、実はこのことだったのだと、その時初めて理解しました。私が本当の意味で、変えられていったのは、実はその時からではないかと思います。

今、イエス様は、皆さまに近づいて、こうおっしゃっておられます。「わたしを信じますか。そうであれば、わたしに従って来なさい。わたしにより頼みなさい。あなたは、今から変わります。」イエス様は、あなたを水から上等なぶどう酒に変えようと、あなたの心の扉をたたいておられます。あなたは、変わるチャンスを、イエス様から、今いただいているのです。マリヤは言いました、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」マリヤはイエス様を信じ、信頼することができるように変えられていったので、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言えるぐらいに確信したのです。イエスがキリストであることを。イエス様のことを疑わずに、心を開いて、イエス様の声に耳を傾けてみましょう。イエス様の声に聞き従いましょう。

イエス様を信じて、イエス様を受け入れてみると決心してみてください。また、イエス様にすべてをあずけ、より頼みますと告白してみてください。そうすれば、あなたは変わります。そして、変わり続ける夢を、皆さんといっしょに見させていただきましょう。神様はイエス・キリストを通して、私たちに聖霊を注いでくださいます。ですから、老人も若者もみな夢を見ることができるのです。水が極上のぶどう酒に変わるように、私たちも、神様に喜ばれる者に変えていただきましょう。

お祈りをいたします。