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メッセージ主題:『祈りとみことば』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年9月30日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌89「神は独り子を」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Father I Adore You」

交読: 交読文40:詩篇第126篇:新聖歌p.911-912

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌378「罪の世人らに」

聖書拝読:使徒の働き6章2節~7節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(4)

メッセージ主題:『祈りとみことば』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先々週は、『神に従う→証人となる』と題しまして、私たち、キリスト者が従うべきお方はただひとり、イエス・キリストのみであり、そのことにおいて迫害を受けたとしても、必ず主の守りがあり、証人とさせていただけることを学ばせていただきました。今朝は、『祈りとみことば』と題しまして、教会の中での、役割・奉仕分担が成立するなかで、最重要である「祈りとみことば」について学ばせていただきたいと思います。

まず、お祈りいたします。(祈り)

6章では、原始教会が成長する中で、教会内で財産を共有し、食事や日用品なども必要に応じて配給されていました。しかし、すでに早くも、ギリシヤ語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人との間で配給に関して問題がでてきました。12弟子たちは相談し、信徒の中から、御霊と知恵に満ちた評判の良い7人を選んで、その問題の処理に当たってもらうことにしました。今で言う、執事や役員や長老とよばれる人たちであります。そして、12弟子たちは、祈りとみことばの奉仕に専念し、そのことによって、神のことばはますます広まっていくことになります。

12弟子は今でいうところの牧師でありましょう。この時代は、弟子たちそれぞれが、一つの教会を担当するのではなく、巡回していたようです。そして、現代は一人の牧師が一つの教会を担当するようになってきていますが、牧師を経済的に支えられない教会や何らかの関係で牧師が見つからない教会は、巡回牧師というかたちで日曜礼拝を守っているところが多いようです。

現代の教会の姿に慣れています私たちは、一つの教会に一人の牧師という形が当たり前のように感じています。このことに何も疑問も持ちません。当然、約2000年の間に、教会は時代と共に変化し、今の姿になってきているのですし、私たちはそのような教会で生まれ育ってきているのですから、こういうものだと思ってしまっています。では、なぜ今、教会は伸び悩んでいるのでしょうか。一つの理由に、牧師が教会維持もし、忙しすぎることもあるのではないでしょうか。原始教会では、使徒である牧師は、巡回牧師制度の中で、祈りとみことばに専念して、「神のことばは、ますます広まって行」ったとあります。今の牧師は、教会運営に忙しく、祈りとみことばに専念しようと思ってもできていない、うがった見方をすれば、(私の反省するところでもありますが)種々雑多な用事を隠れ蓑にし、祈りとみことばに専念することを怠っているとも、反省を込めて言えるかもしれません。また、牧師が、教会運営の権限を、執事や役員や長老に明け渡していないとも言えるでしょう。私は、引退牧師で、無牧の教会などを、巡回しみことばを取り次いでくださっている方々を何人も存じ上げていますが、その方々こそ、祈りとみことばに専念しているのかも知れないと思わされています。全ての教会運営から退いて、「祈りとみことば」に専念し、みことばを聞く人々に生きる知恵と力を、主を讃美する喜びを、主からいただく一助となるすばらしい働きを彼らは担っておられます。もちろん引退するということは、身体の弱さも覚えることではありますが、現役牧師の日曜礼拝の助けともなります。尊いご用に感謝いたします。

私は、今の一般的な教会のあり方を非難するつもりはまったくありません。今日、申し上げたいことは、神のことばが広まっていくには、「祈りとみことば」が最重要であるということです。パウロが主の力を得て申しますように、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)イエス様が、「わたしがいのちのパンです」「わたしは、天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠にいきます。」(ヨハネ6:48、51)とおっしゃる通りです。私たちがイエス様を救い主として信じるなら、イエス様の言葉である聖書の御言葉をいただいて、活き活きと生き続けることができるのです。ですから、使徒たちは、祈りをもって御言葉を伝え、神のみ旨を説きあかすことに専念したのです。使徒の時代、いえ、印刷技術が発達し、だれでも聖書を持つことができるようになった、ルターの宗教改革の時代までは、司祭や司教がみことばを取り次ぎ、会衆はみことばを聞き、双方が祈るという図式でよかったのだと思います。しかし、今、聖書はみんなが持てる時代であります。もちろん、中国のように、一人に一冊の聖書が渡らない、迫害をうけて、聖書も焼かれてしまう現状はありますが、ここ日本では、信徒はみな自分の聖書をもっています。ですから、牧師だけではなく、信徒も「祈りとみことば」に毎日ふれることができるのです。もちろん、礼拝において、牧師を通して、神のことばの解き明かしを聞くこともとても大切ですが、それと同じように、日々の聖書通読も大切なのです。十字架のことばは神の力なのですか。

使徒の時代、「神のことばが広まる」には、使徒の役割は重大でしたが、使徒たちの前に人をつれて来るのは一般信徒です。一般信徒が、友人や知人を礼拝や教会の集いや交わりに誘うのです。この事は今でも変わりません。いくら高名な説教者であっても、信徒が友人や知人を連れて来なければ、福音は伝わりません。また、有名な人によって集会が持たれ、それに興味をもって一人で参加することがあったとしても、その集会で信仰者のだれかと知り合わなければ、教会へと導き、信仰をもつには至らないかもしれません。ある意味、集会は信仰者のためにあるというよりは、未信者の方々と知り合うためにあるとも言えるでしょう。ですから、信仰者は、「恵まれた」と自己満足して帰るだけではダメなのです。未信者の方とその場で知り合って、その恵みを共有しようという目的をもって参加しなければいけないのではないでしょうか。

私の申し上げたいことは、牧師と信徒で役割分担を明確にするのではなく、かえって、「祈りとみことば」をある程度共有しながら、そのことを中心に置き、福音宣教を広げていくことが大切ではないかと思うのです。それは、「万人祭司」の感覚に近いかもしれませんが、何も信徒全員が牧師になる必要もなく、執事や役員や長老になる必要もありません。しかし、イエス様は牧師も信徒も全員に対して、「地の塩、世の光」であり続けないといけないと励まされます。(マタイ5:13-14)この「地の塩、世の光」であり続けるには、どうしても、私たちの生活の中心に「祈りとみことば」を据えることが重要なのです。日々の聖書通読や朝の祈りだけではなく、いつも主を想い、主と会話や相談をし、イエス様ならどうされるだろうと考えることが大切です。そのことをパウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」(1テサロニケ5:16-19)と説くのです。絶えず祈るためには、長く祈る必要はありません。もちろん、時間をとってしばし祈ることも大切ですが、四六時中イエス様を想うのであれば、祈りは簡潔でもいいのです。私は、「主のいのり」をお勧めします。また執り成しの祈りなら、思わされた時に、すぐに具体的に短く祈ることが肝要です。よく、「では、~さんのことをお祈りいたしています」と書いたり言ったりすることがあると思いますが、その場で短く、声に出さなくても祈ればいいのです。その後、忘れるかもしれませんので、「思った時、思い出した時に短く祈る」という癖をつければいいのではないでしょうか。

また、みことばですが、聖書通読以外に、覚えておきたいと思わされた「聖句」を覚えるということも大切です。なかなか覚えられなければ、携帯やスマホにメモとして入れておくこともお勧めします。今では、携帯やスマホはほとんどの方が持ち歩いておられるでしょうから、メモのアプリを利用することは有効です。そのようにして、常に聖句に親しんでいることも「地の塩、世の光」とされる一つの訓練とも言えるでしょう。

注意していただきたいのは、「祈りとみことば」を土台とした「地の塩、世の光」とされることは、牧師となることではありません、また一生懸命伝道を前面に出す信徒になることでもありません。それはそれで恵み多き働きではありますが。皆さんが主にあって喜んでいる、主の愛を伝えたいと思い続けることが大切なのです。私は最近、「朗読落語の会」を始めました。創作福音落語で、普通の落語と異なることは、「台本を見て演じることができる」「所作の決まりにあまりしばられない」「聞き手を楽しませるというよりも、演者が楽しむ」ことをモットーにしているところです。5分~10分程度の短いものがほとんどです。ですから、だれでも演じることができます。ここで、あるクリスチャンの方がこの「朗読落語」を気に入ってくださり、ご自身で創作しながら演じることに喜びを覚え、光輝いておられます。その方は、以前「私には、福音を宣べ伝えるということは苦手です」とおっしゃっておられました。心では、「イエス様の愛を伝えたい」と思いながら、どのようにそれを人に伝えればいいのか分からなかったそうです。この方だけではなく、ほとんどの信仰者がそのようなもどかしさを感じているのではないでしょうか。実は私もそうでした。私は、結局牧師という道が示されましたが、その方は「朗読落語」に出会って、神様をイエス様をお伝えする喜びを知ったのであります。「これだったら、私にできるかもしれない」と思わされたそうです。それをお聞きした時に、私は、主の御名をあがめました。ある人は音楽を通して、ある人は(例えば)三浦綾子さんの著書朗読を通して、ある人は踊りを通して、またある人は料理を通して、そしてその方は朗読落語を通して、主の御名を讃美し、それぞれにおいて「祈りとみことば」を土台にすえた「地の塩、世の光」とされているのです。その方々は、イエス様の広告塔なのです。私が想う「万人祭司」とは、このように、ひとりひとりがイエス様の広告塔、イエス様のトラクトになることです。そして、彼らは、決して「職業牧師」ではありませんが、テントメーカー(自活しながら福音を伝える人、主に栄光を帰する人)としての働きを担う人たちなのです。みなさんも、「地の塩、世の光」として、これならできると思うことに出会って欲しいと思いますし、また、主の愛を現しながら、喜びに満ち満ちていただきたいと思います。いえ、そのようにさせていただきましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、今朝のメッセージから示されたことを祈り求めてみてください。皆さんの思いを主にゆだねてみましょう。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、御名をほめ、賛美いたします。主は私たちの力、主に私たちは誉め歌を歌います。主は私たちのとりで、私たちの恵みの神であられます。今朝は、『祈りとみことば』と題し、神様のことばを広めるには、祈りとみことばによって、私たちが、喜びに満ちて、主の栄光を現わすことができる「地の塩、世の光」となりますように、私たちをお導きください。

今朝の学びを、主イエス・キリストの御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

賛美: 新聖歌230「十字架のもとぞ」

賛美: 今月の歌・新聖歌20「主の真実はくしきかな」(献金の時)

今月のワーシップソング「Father I Adore You」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

Father I Adore You

(Words & Music by Terry Coelho)

Father, I adore You

Lay my life before You

How I love You

Jesus, I adore You

Lay my life before You

How I love You

Spirit, I adore You

Lay my life before You

How I love You

Adore: あがめる、崇拝する

Lay my life before You: 主にこのいのちを供えます・ささげます