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メッセージ主題:『心と耳とに割礼を』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年10月7日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌103「わがためイエス君」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

交読: 交読文41:詩篇第127篇:新聖歌p.912

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌101「イエスよ十字架に」

聖書拝読:使徒の働き7章46節~53節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(51)

メッセージ主題:『心と耳とに割礼を』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『祈りとみことば』と題しまして、教会の中での、役割・奉仕分担が成立するなかで、最重要である「祈りとみことば」について学ばせていただきました。今朝は、『心と耳とに割礼を』と題しまして、ステパノの大祭司たちに対する訴えのなかで、私たちは、「心と耳とに割礼を受け、聖霊に逆らう者となってはいけない」という神様からのメッセージを学ばせていただきます。

まず、お祈りいたします。(祈り)

7章は、ステパノが、大祭司たちから、イエスさまへの証しを求めに応じて、述べているところであります。アブラハムからモーセそして、ダビデやソロモンに至るまでの、彼らに対する主の導きをのべ、結局、聖霊に逆らって、正しい方イエス様を裏切る者、殺す者となったことを訴えたのであります。それによって、ステパノは石打ちの処刑となります。今朝は、ステパノの訴えであります、「心と耳とに割礼を受ける」ということと「聖霊に逆らう・従う」ということを考えてみたいと思います。

まず、「心と耳とに割礼を受ける」とはどういうことでしょうか。ユダヤ人であれば、まず赤ちゃんの時に割礼を受けます。ですから、ステパノの言う割礼は、肉体的なのもではありません。申命記には、「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい(心に割礼をおこないなさい)。もううなじのこわい者(強情な者)であってはならない。」(10:16)とありますように、主が求めておられるのは、「ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(申命記10:12-13)のです。主が「きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守る」とあるように、私たちはいつも、主の御声に耳を傾け、主のご命令やおきてを聞き知ることも大切なのです。また、同じ申命記でも「あなたの神、主は、あなたの心とあなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(30:6)と、私たちは、心の割礼を行って主を愛することで、私たちは活き活きと生きることができるのだと説かれています。心の割礼とは、すなおに主のお言葉に耳を傾け、すなおに従い、仕えることでもあります。そして、そのことによって私たちは生かされるのです。バビロン捕囚を預言したエレミヤも心の割礼のことを強調しています。「見よ。その日(終末)が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。(口語訳では『割礼をうけても、心に割礼をうけていないすべての人を私は罰する』)」(9:25)とありますように、心が主のものとなっていない人はすべて罰せられるのです。

そして、「心や耳に割礼をうけていない」人は、「聖霊にさからう」人でもあるとステパノは訴えます。イエス様は「聖霊に逆らう」というお言葉を、次のように述べておられます。「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません」(マタイ12:31)イエス様のこのお言葉の背景には、悪霊を神の御名によって聖霊の働きを通し追い出したのを、悪霊の働きだとののしり、神を悪霊呼ばわりしたのであり、それこそが、聖霊を冒瀆していることになると、イエス様はおっしゃるのです。つまり、神の御業を汚すことは、聖霊を冒瀆したことになります。私たちは、気をつけないといけません。

先ほどから、私は「心や耳に割礼をうける」と申しておりますが、それは主のお言葉に耳を傾けることであります。そして、それは積極的の求めるものでもあります。主の御言葉が勝手に一方的に聞こえてくることもありますでしょうが、ほとんどの場合は、私たちの求めに応じて、主がお語り下さることが多いのではないでしょうか。それは、実にサムエルの少年期の経験と同じてあります。主が「サムエル。サムエル」と呼ばれ、サムエルもまた、その応答として、「お話しください。しもべは聞いております」と主にお伝えします。これは、サムエルが主のお言葉を積極的に聞こうとしている態度の現われです。どんなことでもそうですが、主に「切に求める」時、主は最適な時に、最適なことを備えていてくださるように、御言葉も同様、聖書を求めながら読む時に、静まっている祈りの時に、主の御旨を知ることになるのです。そのことを端的に表していますのが、詩篇46篇10節です。「やめよ(むだな企てをやめ、静まれ)。わたしこそ神であることを知れ」とおっしゃる主は、私たちを日常生活の煩雑や人間的労苦から、一時的にでも解放され、主を知れ、つまり主との交わりの時間(黙想の時間)を持ちなさいと励まされるのです。それは、イエス様のお言葉で表すなら、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)となり、すべてにおいて、主を信頼し、頼りにしなさいと、主へのより頼みを徹底しなさい、明け渡しなさいとおっしゃっておられるのです。私たちがこのようにしますのは、神の無償の愛によって救われたことへの、私たちの応答でもあります。初めに恵みとしての救いがあり、神の創造物である私たちが、その神の愛にどのように応えていくのか、それが信仰成長の鍵ともなるでしょう。

また、「心の割礼」をへて、まことに神のものとなった私たちは、詩篇の次の聖句が心にとどまるはずです。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまされません。」(51:17)心の割礼をうけた者は、悔い改めた謙遜な者でもあるのです。「悔い改める」とは、神から離れてしまっている人間が、神の方に向き直ることを意味します。つまり、①心を入れかえる、②今までの罪の行為を認め断ち切る、③神へ立ち帰る、ことでもあります。これらの一連の行為や決意は、「主にあって生きる、生き続ける」ことをも意味し、パウロは、その「悔い改め」続ける心を「新生」という言葉で表現しています。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:21-24)パウロの言うところの「新しい人を身に着る」とは、救われて、キリストにある新しい生き方をすることであります。パウロはこのことを自分の身に置き換えて証ししています。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私がいきているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:19-20)パウロは、ステパノの殉教の死の場にいました。彼はがちがちの律法尊重主義者であり、キリスト者を率先して迫害していた人でした。しかし、彼は後にダマスコ途上で主キリストに出会い、変えられるのです。そして、彼は、「神に生きるとは、律法ではなく、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって生きることである」ことを悟るのです、いえ、そのようにキリストに導かれたのです。そして、神はパウロに「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)と言わしめる境地にまで至らせるのです。

ステパノのイエス様への信仰「心と耳とに割礼をうけ、聖霊に従う」ということは、ステパノの死を通し、聖霊の働きによって、キリスト迫害者であったパウロに「生きることはキリスト、キリストが私のうちに生きておられる」と告白させるまでになるのであります。私たちも、そのようにさせていただこうではありませんか。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、今朝のメッセージから示されたことを祈り求めてみてください。「キリストに耳を傾け、聖霊に従う」ことによって、日々新しくさせていただく恵みに感謝し、主と交わってください。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、御名をほめ、賛美いたします。私たちの内に住みたもうキリストによって、私たちは日々新しくされ、生きることができますから感謝いたします。今朝の学びを私たちは心にとどめ、常に主とともに歩ませてください。あなた様に耳を傾け続ける者とさせてください。

今朝の学びを、主イエス・キリストの御名により、感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

賛美: 新聖歌230「十字架のもとぞ」

賛美: 今月の歌・新聖歌172「望みも消え行くまでに」(献金の時)

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

Reach out: 手を伸ばして届く