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メッセージ主題:『個人伝道:聖霊に従い、聖書のどこからでもイエス様を証しする』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年10月14日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌165「栄光イエスにあれ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

交読: 交読文42:詩篇第130篇:新聖歌p.912-3

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌123「救いの主は」

聖書拝読:使徒の働き8章26節~39節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。』と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、『あなたは、読んでいることが、わかりますか。』と言った。すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう。』と言った。そして、馬車にのっていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」(29-31)

「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」(35)

メッセージ主題:『個人伝道:聖霊に従い、聖書のどこからでもイエス様を証しする』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『心と耳とに割礼を』と題しまして、ステパノの大祭司たちに対する訴えのなかで、私たちは、「心と耳とに割礼を受け、聖霊に逆らう者となってはいけない」という神様からのメッセージを学ばせていただきました。今朝は、『個人伝道:聖霊に従い、聖書のどこからでもイエス様を証しする』と題しまして、エルサレム教会の執事である使徒ピリポが、聖霊の招きに従って、ガザに下り、エチオピアの宦官に福音を伝えるよう導かれたところから、私たちは常に主に従順であり、どこであろうが主の招きに従い、聖書のすべての箇所からイエス・キリストを証しできるように、日ごろから、聖書を読みイエス・キリストに思いをはせなければならないことを学ばせていただきたいと思います。

まず、お祈りいたします。(祈り)

8章には使徒ピリポが主に従い、福音を宣べ伝えたことが記録されています。まず、サマリヤに下って行き、福音を宣べ伝え、エルサレムに戻る途中で、港町ガザへと導かれました。そこへ、エチオピアの宦官の一行と出会います。エチオピアの宦官は、イザヤ書53章を読んでいました。特にピリポに聞こえてきたのは、53章7節~9節であり、それはまさしくイエス・キリストを証ししている場所でもありました。そして、ピリポは聖霊に押し出だされるように勇気を出して、宦官に尋ねました。「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」とうぜん、宦官の答えは「ノー」でした。そして、ピリポにこのイザヤの預言の解き明かしをお願いするのです。そして、宦官はパプテスマへと導かれます。

この箇所は、私たちに、個人伝道の大切さを教えてくれます。次のことが学べるのではないでしょうか。

伝道は、すべて主の招きであり導きでありますから、それに従順であること。

ピリポがエルサレムへの帰路の途中で、ガザに足を向けたのは、主の招きでありました。彼はそれに従順に従います。それは、ピリポが常に、自分の思いではなく、主の御心を一番としていたからです。主の御心は、主の御名があがめられることです。つまり、福音が宣べ伝えられ、福音の恵みに共にあずかることです。それは、個人の人間的幸せがどうのこうのという問題ではありません。主と共に十字架につけられ、古い自分は死んだのであれば、個人的な幸せを求めるのではなく、パウロが主張するように、共に福音の恵みにあずかるためなのであります。「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(1コリント9:23)

受ける側の疑問(飢え渇き)の箇所を解くこと(そのように努力すること)。

個人伝道は受ける側の気持ちを無視し、一方的であってはいけません。彼らの質問や疑問をいっしょに解くという姿勢が求められます。彼らに疑問や質問があるということは、すでに聖霊が働いてくださっていることを意味します。ですから、必ずしも答えを教える側が明確に持っていなくてもいいのです。共に学び、教えられる側が答えを自ら見つけられるよう、聖霊が導かれることもあるでしょう。もちろん、教える側の信仰が不安定であってはいけませんが、分からないことを「分からない」と言える謙虚さと勇気が必要です。私は牧師ですが、新米ですから、分からないことは多々あります。ですから、「牧師のくせに分からないのか」と思われても仕方ありません。一緒になって解こうとする、分かろうとする努力は惜しまないつもりですし、また聖霊に導いていただくよう祈らざるをえません。

教える側も教えられる側も、同じ目線にたって、交わること。

ピリポは馬車に乗り、宦官といっしょに座って、イザヤ書53章を解き明かしていきました。これは、教えられる側も教える側も、同じ目線に立って、上下関係のないことを意味します。お互いを尊重し合うことが大切です。隣人への愛は、お互いを尊重し合い、敬意を払う、リスペクトすることから始まるのではないでしょうか。

聖書のどこからでも、イエス・キリストを証しすること。

ピリポが、イザヤ書53章から始めて、イエス・キリストのことを宦官に宣べ伝えたように聖書のどこからでも、イエス・キリストを証しできるように、聖霊による導きを祈り求める必要があります。ただ単に聖句の説明だけに終わったとすれば、それは教訓や道徳として学んだにほかなりません。教訓や道徳には、救いの力はありません。ですから、救い主イエス・キリストを紹介しなければいけないのです。イエス・キリストを食する、つまり御言葉を味わって、天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となっていただくことが目的なのですから。

学びの延長線上に、信仰告白を見据えておくこと。

ピリポはただ単にイエス・キリストを救い主として宦官に紹介したのではありません。彼は、「信仰告白」を見据えて、主を証ししていました。ですから、宦官は、バプテスマを受けたいと自ら願い出たのです。信仰告白やそれに続く洗礼は強要ではありません。ある方は、牧師がしつこく言うから、仕方なしに洗礼を受けたと告白されたことがありました。またある方は、決意の定まらぬまま、牧師に洗礼の日程が決められ、洗礼当日、洗礼式をすっぽかしたという双方にとって悲しい出来事も聞いたことがあります。信仰告白は「イエス様を自らの救い主として信じます」という決意表明でもありますから、それ自体、信仰の始まりであり、終わりではありません。洗礼を受けてから、どれだけの人が、礼拝に来なくなるでしょう。それは、個人の覚悟の問題でもありますが、牧師や教会の信仰告白や洗礼の導き方の問題とも言えるかもしれません。信仰告白は強制ではなく、エチオピアの宦官のように、その方に聖霊が働いての自発的なものでなければなりません。しかし、そのように御業がなされるためにも、学びの延長線上に、信仰の始まりである信仰告白を見据えることは大切です。

さて、今朝は、ピリポのエチオピア宦官への伝道を通して、個人伝道のあり方を学ばせていただきましたが、私たちが、個人伝道において、今なすべきことは、私たちが常に主の招きと導きに敏感で従順であることです。そのためにも、常に聖書を読み、静まりの時を経て、主と四六時中交わることが望まれます。そして、求めてみましょう、個人伝道のチャンスを。伝道において、個人的な備えを内なるキリスト様に導いていただきましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、今朝のメッセージから示されたことを祈り求めてみてください。「個人伝道」のことについて、主に何をどうすべきか導いていただきましょう。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、御名をほめ、賛美いたします。私たちの内に住みたもうキリストによって、私たちは日々新しくされ、生きることができますから感謝いたします。今朝の学びを通して、私たちが個人伝道をできますよう、私たち自身を整えてください。私たちにその思いを現わしてください。

主イエス・キリストの御名により、今朝の学びを感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

賛美: 新聖歌146「昔主イエスの」

賛美: 今月の歌・新聖歌172「望みも消え行くまでに」(献金の時)

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

Reach out: 手を伸ばして届く