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メッセージ主題:『よつばのごとく』

よつばキリスト教会

創立一周年記念礼拝

2018年10月21日

聖書拝読:ヨハネの福音書15章5節

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

メッセージ主題:『よつばのごとく』

創立一周年、おめでとうございます。主の御名を讃美致します、ハレルヤ!

今日は、皆さまよくご存じのヨハネの福音書15章5節、「ぶどうの木であるキリストに接ぎ木される」ところから、『よつばのごとく』と題しまして、お話しさせていただこうと示されました。

この教会の名前ともシンボルともなっています「よつばのクローバー」でございますが、もともとクローバーは三つ葉でございます。それが、なにかの要因で、よつばになることがございまして、それが、珍しいというので、そのよつばのクローバーを見つければ、幸せになるとか幸運が訪れると言われております。一般的には、このよつばは「希望、誠実、愛情、幸運」を表しているのだそうでございます。また、キリスト教世界でもよつばを十字架に見立てて、幸福のシンボルとしています。このよつばキリスト教会も、東たつお先生にお聞きすれば、よつばは「信仰、希望、愛、幸せ」であるとして、それらを願って、教会の名前をおつけになったそうです。私は、ちょうど1年前に、大阪クリスチャンセンターで毎週月曜日に行われています、大阪朝祷会(朝食祈祷会)で、東先生がご奨励をしていただいた時に、「よつばキリスト教会」という名をお聞きして、「よつばか、いいなぁ」と思わされました。「よつば」と耳にするだけで幸せな気持ちにさせていただける、誠に良き名だと思いました。

東先生は、一般的な「幸運」を「幸せ」という言葉に変えられておられます。クリスチャンには幸運や不運はございません。「運」という、不確かなものはクリスチャン的ではありません。すべては「運」ではなく、神様のご計画なのでありますから。私たちもついつい口にしてしまいます、「ラッキー」とか「グッドラック」という言葉は、ラックが運を示しますから、本当はクリスチャンらしくない言葉なのであります。ですから、東先生は、一般の方々にも分かりやすいように「幸運」を「幸せ」とされておられます。私は、この東先生が、よつばの意味を「信仰、希望、愛、幸せ」にされたことに、なるほどと思わされました。「信仰、希望、愛」この三つを聞きますと、思いだされますのは、有名な愛の章、コリント人への第一の手紙13章でありまして、その13節にこのようにございます。①「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」しかし、これだけですとみつばになってしまいます。それで、東先生は、「幸せ」を付け加えられたのですが、先生の本当の意図はもう少し踏み込んだところにあるのではないかと、私は勝手に思っております。東先生、これから申し上げることが、間違っておりましたら、来週の礼拝で訂正してください。今訂正されますと、この後のメッセージが続きませんのでよろしくお願いいたします。三つの葉っぱ、信仰、希望、愛、そして、もう一つの葉っぱは、本当は「神様からの一番の恵み・プレゼント」「聖霊である救い主」「私たちの内に聖霊として住んでくださるキリスト様」としたかったのではないかなぁと思わされたのであります。しかし、一般の方には、「神様からの恵みって何だ」「聖霊って何だ」「救い主って何だ」とクエスチョンマークがいっぱいつくような気がします。ですから、東先生は、それらの思いを最後の一枚の葉っぱにたくして、すべての方に分かりやすく「幸せ」とされたのではないでしょうか。

実は私も洗礼をうける前は、「神様からの恵み」のことや「聖霊」のことや「救い主」のことが全く分かりませんでした。いえ、正直に申しますと、これらのことが本当の意味で分かり始めたのは洗礼を受けてから30年近くもたった、つい最近のような気がします。少し私がイエス様を知るきっかけとなったいきさつをお話し致します。

私が洗礼を受けましたのは、1983年6月4日のことであります。アメリカのインディアナ州の大学町、インディアナ州とは、カナダとアメリカの国境にあります五大湖、ナイアガラの滝が有名ですね。その近くにはシカゴもございます。その五大湖の真南にインディアナ州がございます。インディアナ州の南にはケンタッキーフライドチキンの発祥地がありますケンタッキー州がございます。そんなインディアナ州の大学町にあります単立教会、エバンジェリカル・コミュニティ・チャーチ(訳しますと福音宣教地域教会とでも申しましょうか)その教会が、その近くにあります小学校のプールを借りまして、サブーンとつかる、いわゆる浸礼式という洗礼のしかたで、私は「私はイエス様を私の救い主と信じます。私はイエス様に従います。」と告白させていただきました。

イエス様とのお見合いは、つまりイエス様を知るきっかけとなりましたのは、そのまた1年ぐらい前になります。私は大学の寮で寮生活をしていたわけですが、寮の食堂のある一角では、いつも同じメンバ―のそれもいろんな国の学生たちが集まっていまして、賑やかに食事をとっておりました。彼らがクリスチャンであることは、前々から気がついていましたが、まあ、魔が差したとでもいいましょうか、彼らの笑顔が、とにかく素敵なのでございます。あの笑顔の秘密を知りたいと思わされました。せっかくアメリカにいるのだから、キリスト教のひとつやふたつ、いや、キリスト教はひとつしかございませんが、そのキリスト教を学んで帰って行っても、無駄にはなるまい。私は民俗学という人や文化を研究しておりましたので、文化的にもすごく影響のあるキリスト教や聖書を学ぶことは、とてもプラスになると思ったのでございます。そして、彼らのテーブルに近づいたわけであります。興味本位といいますか、怖いものみたさといいますか、それに、英語も聖書の影響をとても受けておりますので、聖書ぐらい知っておかないでどうする、ということで、次の週から、バイブル・スタディという、聖書のお勉強を、またそれもマンツーマンでさせていただきました。教えてくださる方が、きれいな青い目の女性であればとても嬉しかったのですが、動機が不純でございますね、残念ながら、ちょうど今の私ぐらいの年代のインド人の宣教師について、聖書を学ばしていただきました。

しょっぱなから、笑顔で「あなたには、罪がありまーす、罪人でーす」と日本語ではなくインド英語でそのように言われ、ちょっとショックをうけました。「罪や罪人」ってなんだろう。犯罪を犯しているわけでもないしと、頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになりました。まあ、とにかく辛抱して、聖書とにらめっこしていたら、なんとなく分かって来るんじゃないかと毎週毎週、通ったわけであります。そうしますと、「罪」のことが少しずつ分かってきます。「罪」の原点とは、「神様から離れること、背を向けること」であって、色々な罪はそこから発生しています。その罪のゆえに、人は自分を守るために嘘をつき、その自己中心の嘘が、どんどんエスカレートして犯罪へとつながっていきます。私もその罪を持っていると示されました。自己中心的で嘘つきで見栄っ張りでございましたから。あ、いえ、今もそのようなものでございます。そうこうしているうちに、約一年が過ぎようとしたとき、教会の牧師先生が、この方は白人の方でありましたが、「そろそろ洗礼を受けてみてはどうかね、ミスターワカタケ」と肩に手を置かれました。『あー、来た来た来た!』と思いました。「まだ、聖書もぜんぶ読めてませんし、罪のこともはっきりと分かったわけではありませんし、早すぎるのでは」と言おうとしたのですが、口からは「イエス」と返事してしまいました。なんと優柔不断な私でしょうか。気が弱いと申しましょうか、流されやすいと申しましょうか。「ここはアメリカだし、まあ、いいか」と不謹慎な私でございました。

その牧師先生は、そのとき、「よかった、よかった、イエス・キリストを信じようと決心することから、始まるんだよ、信仰生活は、ミスターワカタケ」とギューッとハグしてくださったのであります。その牧師先生の嬉しさとはうらはらに、「あー、これから、どんな風に変わっていくのだろう」と一抹の不安を抱えている私がそこにいました。今だから、分かるのでありますが、信仰生活はイエス・キリストを「信じよう、信じてみよう」と決心することから、始まるのであります。私は、イエス・キリストとお見合いし、一年の交際期間を経て、結婚しようと決意し、(あ、気持ち悪がらないでくださいね、神さまと結婚するわけでございますから)、その決意をし、洗礼という結婚式を経て、結婚生活にはいった訳であります。もちろん、皆さまもご経験があるかも知れませんが、結婚生活はほれたはれただけではやっていけません。イエス様との結婚生活である信仰生活も同じであります。紆余曲折あり、山あり、谷あり、谷あり、どん底の谷あり、そして、ちょっとの丘あり、そのような信仰生活を送りながら、今の私があるのでございます。しかし、相手が人間の結婚生活と違うところは、イエス様はぶれない、言うことがころころ変わらない、そしてイエス様は私をあきらめません。常に愛してくださっています。ぶれているのは、ころころ変わるのは、愛がなくなるのは、私のほうだけなのです。ああ、なんて情けないんだろうと思うことで多々ありますが、幸いなことに、常に、私にはもどる場所があります。すねてみて、家出をしたとしても、イエス様は両手を広げて、あちらから駆け寄ってくださるのです。失意のどん底にいて、泥沼状態で、イエス様を見失って溺れそうになった時でも、手を差し伸べて、引っ張り上げてくださるのです。怯えている私を包んでくださるのです、ぎゅーっと。淋しい時、不安な時に、私が顔を上げれば、いつも、イエス様がそこにいらっしゃるのです。35年間よく守っていただいたとイエス様に感謝する今日であります。

しかし、この35年間、私は、イエス様を信じていると言いつつも、イエス様にすべてをゆだねるということがなかなかできませんでしたし、そのことが分っていませんでした。自分の力でなんとかしていこうという気持ちの方が強かったように思います。そこで、辛抱強く待っていてくださった神様ですが、6年前ぐらいに、祈りの中で「わたしに寄り頼みなさい」とおっしゃられました。私はどのように寄り頼んでいいのか分かりませんでした。聖書のペテロの第一の手紙5章7節が示されました。②「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」神様はわたしのことを心配してくださる、ありがたいなと思いつつも、依り頼み方は分かりませんでした。私はいたって頑固です。こんどは、マタイの福音書11章28節のイエス様のお言葉が示されました。③「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 残念ながら、このイエス様のお言葉でも依り頼み方は分かりませんでした。いえそうではなく、分かろうとしていなかった、分かりたくなかった、自分を全部、イエス様に託すことが怖かったのかもしれません。自分が自分でなくなるという恐怖があったのかも知れません。イエス様が大好きなのに、すべてを明け渡せない自分がそこにいました。そうするうちに、イエス様は、言葉を変えて、私に仰せられました。「わたしにあなたのすべてを任せなさい、わたしを完全に信頼しなさい。」私はこの時、ああ私の心の中心はまだ私自身であって、イエス様を中心に据えていないことが示されました。主の言葉に耳を傾けることの少ない者だと示されました。この時、やっと「イエス様に依り頼む、ゆだねる」ということが、分かったのです。

「すべてをイエス様にゆだねる」ということは、「イエス様を完全に信頼する」ということですし、自分のベストを尽くしつつも、そのベストを尽くしている間も、その後もすべて主にまかせて、「み心のままに」と言える信仰をもつということです。そして、すべてにおいて、イエス様が心の中心にいらっしゃらなければいけないのです。それは、謙遜でもあります。母マリヤが聖霊が降って身ごもったことを知った時に、④「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」(ルカ1章38節)と示した謙遜と従順の信仰であります。また、イエス様ご自身が、十字架にかかる前に祈りの中で、⑤「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26章39節)と父なる神に自らをゆだねた信仰でもあります。情けない話ですが、私はそのことを信仰生活約30年間分かっていなかったのです。そして、そのことは、私の洗礼のときにすでに、体験していたことだったと気づかされたのです。浸礼式の洗礼では、胸に両腕をあてて、後ろ向きに倒れます。水の中にザブーンと身体が浸かる時に、牧師先生が救いあげてくださることを確信し、牧師先生を信頼していますから、後ろ向きに倒れることができるのです。その行為こそが、イエス様にすべてをゆだねるということの象徴だったのです。30年かけて、洗礼式での、その行為の意味がはっきりと分かったのであります。

神様は私をあきらめませんでした。35年前、私を信仰に導いてくださったのが、イエス・キリストであり、聖霊でありました。神様が私に与えてくださった、最も大切なもの、聖霊であり内なるキリスト様は、頑固な私を、30年間待って、そして、「すべてをイエス様にゆだねる」ということを分からせてくださったのです。私は、イエス・キリストを信じた時点で、聖霊によって、イエス・キリストに接ぎ木され、御言葉を理解する力を育まれ、長い道のりでしたがイエス様にすべてを寄り頼むことを学ばしていただきました。いえ、今も続けて学ばしていただいております。そして、皆さまも同じように、聖霊によって、イエス・キリストに接ぎ木されていらっしゃいます。

今朝の聖句をみてください。ヨハネの福音書15章5節です。イエス様はおっしゃいます、

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

イエス様に接ぎ木され、豊かに実をむすぶためには、私たちは古い自分である昔の木から切り落とされなければいけません。私たちは、いったん、死をむかえるのと同じことなのです。そして、接ぎ木され、新しいいのちをいただくのです。そのことをパウロは次のように述べています。ローマ人への手紙6章4節~6節です。⑥「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれから罪の奴隷ではなくなるためであることを、私たちは知っています。」ですから、イエス様は「わたしにとどまりなさい、わたしもあなたの中にとどまります」とおっしゃってくださるのです。そしてこのことを可能にしてくださるために、イエス様は聖霊を私たちにお送りくださっています。イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とおっしゃいました。しかし、イエス様の方から離れることはありません。イエス様はわたしたちをあきらめるお方ではありません。私たちが、イエス様なしでは、何もできないことを知っていらっしゃるからです。ですから、キリストである聖霊が私たちの内に住んでくださり、私たちを罪から、罪の誘惑から遠ざけようとしてくださるのです。そして多くの実を結ぶのであります。この実とは、人々に福音が伝わることを意味しています。個人が金銭的に裕福になったりすることではありません。肉体的に患っていたパウロは次のように、この「実を結ぶ」ことを述べています。ピリピ人への手紙1章21節~23節です。⑦「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」パウロは肉体の死を恐れていません。「この世を去ってキリストとともにいること」こそが彼の願いであり、また最も幸せなことなのです。それは私たちにとっても同じことです。私たちに与えられています「希望」とは、御国においてキリストとともに生きることなのです。しかし、彼にはこの世での召命がありました。それは、福音宣教であります。聖霊の働きにより、御言葉を通して、隣り人に神様の無償の愛を味わっていただくという豊かな実を結ぶことなのです。事実、パウロは、この世にあっては、福音宣教にしか興味がありませんでした。コリント人への第一の手紙9章23節でそのことを告白しています。⑧「私はすべてのことを福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」私は口語訳の方が好きなのですが、口語訳では次のようになっています。(口語訳)「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」 パウロはユダヤ人にはユダヤ人のように、律法の下にある人々には律法の下にある者のように、律法を持たない人々には、律法を持たない者のように、弱い人には、弱い者のようになり、何とかして、幾人かでも救うため、ひとりひとりの目線にあわせて、イエス様の愛を伝えたのであります。

しかし、このような力強いパウロも、自分の力でイエス様の愛を伝えたのではありません。イエス様が「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とおっしゃるように、イエス様がお送りくださった、聖霊の助けによって、パウロの働きがあるのです。私たちもそうです。私たちひとりひとりも「福音を伝える、神様の愛を伝える」という召命があります。もちろん、ひとりひとり違うやり方を、イエス様は示され、その働きにあう賜物をお与え下さっています。例えば、東先生は、説教者でありますから、説教の賜物をいただいているでしょう。また、ギターも素晴らしいですから、音楽の賜物もいただいているでしょう。庭師としての賜物もあります。ですが、皆さまもそうです。お食事の用意をする料理の賜物や配膳の賜物、後片付けの賜物も、掃除の賜物も、そしてお友達をお連れするという賜物も、またその方々を快く迎えるという賜物も皆さんお持ちなのではないでしょうか。しかし、忘れてはいけないのは、パウロが言うように、「すべてのことを福音のためにしている」という意識です。そして、「それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるため」という、共に喜び、共に天のお父さまに賛美をささげ、共に御名をあがめ、主の栄光が現われるためなのです。

ある方が、このようなことをおっしゃいました。「昔はよく奉仕もできた、でも今は年取って、身体が思うように動かなくなった。礼拝に来るのがやっとこさ。最近では、その礼拝にも来れない時もある。病気をすると気力も失せてくる。もうなんにもできない。」この気持ちはよく分かるような気がします。病気をしたり、体力がなくなってくると、今までのようにはいきません。目がかすんで、聖書を読む気すら起こらない時もあります。「それでいて、どうして、神様の愛が伝えられるでしょうか」と、その方は悲しくおっしゃるのであります。私たちは、遅かれ早かれ、このような肉体的精神的に落ち込み、弱さを覚える時が誰にも必ずきます。イエス様はその時のために、救い主キリストを信じる人々全員に、聖霊ともう一つの賜物を下さっています。それは、「祈る」という賜物であります。「祈り」は神様との霊的交流であり、会話です。なにも、祈りの姿勢を整えて、「祈る」だけが祈りではありません。もちろん、祈りの姿勢で祈るのは大切なことです。しかし、私たちは四六時中、神様と祈り、会話することが許されているのです。道を歩いているときでも、電車やバスに乗っているときでも、人と会話しているときでも、お風呂に入っているときでも、また寝ているときでも、神様と会話することができるのです。何も「~してください」と願うことだけが祈りではありません。それよりも、私は、「祈り」という神様との霊的交流の中で、主の御名をあがめ、主を讃美し、主に感謝し、主に栄光を帰することを、私たちはもっともっとすべきではないか、いつでもどこでもそのようにすべきだと思っています。「お願いする祈り」より「主の御名をたたえる祈り」を主はもっと喜ばれるのではないでしょうか。四六時中、神様を感じ、神様との祈りの交流によって、私たちは、弱いときでも、気力のないときでも、主によって生かされているという恵みにあずかれるのです。ですから、「私はもうなんにもできない」とおっしゃるのではなく、「私は祈ります」と主に向かっておっしゃれば、どれだけ、イエス様はお喜びになることでしょう。もっともっと祝福してあげようと思われるのではないでしょうか。「私は祈ります」という人こそが、「主の証人」なのであります。その時点で、すでに福音を伝え、イエス様の愛を伝えておられるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」というイエス様のお言葉の裏返しには、「わたしにとどまっているなら、あなたがどんな情況にあろうとも、あなたが弱いときですら、多くの実を結ぶことになる、証人としてわたしがあなたをたてる、あなたを全面的にサポートする」とおっしゃっておられるのです。私たちは、弱さを覚える時こそ、強いのです。

パウロは自分の弱さについて、次のように告白しています。コリント人への第二の手紙12章7節~10節です。⑨「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました(これは何らかの持病のことです)。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました(三度というのは何回もちいう意味です)。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」 「弱いときにこそ、強い」とは、「弱いからこそ、全知全能の主を信じ、主にすべてにおいて寄り頼む。肩の力をぬいて、主を信頼し、主にすべてをお任せすることで、全知全能の主が私たちの代わりに、事を成してくださる。主の力が全面に現われる」ということです。まさに、「私はもうなんにもできない」と自分の力を放棄せざるを得ないときにこそ、また「私は祈ります」と主に寄り頼むときにこそ、私たちの内なるキリストである聖霊が働いて、私たちを「イエス様の証人」とさせてくださるのです。ですから、私たちは、この世に生ある限り、イエス様と接ぎ木され、イエス様が私たちの内にとどまり、また私たちもイエス様の内にとどまれば、どんなことをしても、どんな情況下にあったとしても、豊かな実を結ぶことができるのです。そして、豊かな実を結ぶとは、ともに福音にあずかることであり、お互いの間で、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝することができるのであります。ひとりぼっちで、喜び、祈り、感謝するのではないのです。皆さんもそうですが、肉体的に離れている場所にいたとしても、そんなことは些細なことなのです。大切なのは、霊的に、お互いに喜び合い、お互いに祈り合い、お互いに感謝し合うことなのです。しかし、そのことを可能にするのは、皆さまおひとりおひとりの内に住みたもう聖霊であるキリスト様が働かれると信じることです。ですから、パウロはテサロニケ人への第一の手紙5章15節~19節で次のように説くのです。⑩「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうように務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」 私たちの内に聖霊がいなくなってしまえば、接ぎ木されているイエス様から離れてしまえば、本当の喜びも祈りも感謝も生まれないのであります。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。だから、わたしにとどまっていなさい」とイエス様はおっしゃってくださるのです。

この教会のシンボルであります、よつばのクローバー。よつばのクローバーの、四つ葉足らしめている四つ目の葉っぱ、これは聖霊であります、私たちの内に住みたもうキリスト様であります。イエス様が「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」とおっしゃる、この四つ目の葉っぱ。この四つ目の葉っぱによって、私たちの内に、信仰と希望と愛が完成するのです。この四つの葉っぱに、イエス様の十字架が現わされているのであれば、私たちもイエス様に依り頼んで、イエス様の御言葉に従いつつ、イエス様の愛を、共に伝えるものとさせていただきましょう。よつばのごとく、共に幸せになるために、共に信仰と希望と愛を持ち続けるために、イエス様とつながり続けさせていただきましょう。最後に今朝の聖句ヨハネの福音書15章5節を共にお読みさせていただきましょう。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

お祈りいたします。