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メッセージ主題:『宣教の苦しみにも勝る救いの喜びと平安』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2018年10月28日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌185「来たれ誰も」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

交読: 交読文43:詩篇第136篇:新聖歌p.913-4

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌261「流し給いし」

聖書拝読:使徒の働き9章10節~22節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。かれがわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。』」(15-16)

メッセージ主題:『宣教の苦しみにも勝る救いの喜びと平安』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先々週は、『個人伝道:聖霊に従い、聖書のどこからでもイエス様を証しする』と題しまして、エルサレム教会の執事である使徒ピリポが、聖霊の招きに従って、ガザに下り、エチオピアの宦官に福音を伝えるよう導かれたところから、私たちは常に主に従順であり、どこであろうが主の招きに従い、聖書のすべての箇所からイエス・キリストを証しできるように、日ごろから、聖書を読みイエス・キリストに思いをはせなければならないことを学ばせていただきました。今朝は、『宣教の苦しみにも勝る救いの喜びと平安』と題しまして、神によるパウロの召しを通して、パウロは宣教の召命を帯び、その宣教の苦しみはイエス様が負われた十字架そのものでありますが、それを覆ってあまりある救いの喜びと平安があることを学ばせていただこうと思います。

まず、お祈りいたします。(祈り)

今朝の聖書箇所は、短くサラリと描写されていますが、とてもドラマチックなところです。熱心なユダヤ教徒であるサウロ(後のパウロですが)がダマスコ途上で、主イエス様と出会い、三日間目も見えず、飲み食いもできない状態が続いているところに、こんどはイエス様がダマスコ在住の弟子のアナニヤに臨んで、サウロを回心に導くように言われ、アナニヤはそのように従い、サウロとあって、バプテスマ(洗礼)を促します。サウロは主の導きに従い、目が見えるようになり、バプテスマを受け、すぐさま、「イエスが神の子である」と宣べ伝え始めるのです。

サウロは、自ら志願し、祭司長たちからの権限を得て、キリスト教徒と迫害していた人物です。それが、数日の間で180度変えられ、イエス・キリストを証し、積極的に宣べ伝える者へとされます。

それは、サウロにとって、主がおっしゃるように、「苦しみ」の始まりでもありました。もちろん、彼が今まで求めていた「救い」がイエス様と出会って「イエスが神の子であり、イエス・キリストを信じることしか、救いの道がない」ことが分かり、聖霊による心の安らぎが与えられたに違いありません。しかし、今までは祭司長たちの権限のもとで、いわば守られている者でありましたが、回心しキリストを広める宣教師となれば、祭司長たちを筆頭とするユダヤ教徒からは「裏切り者」扱いされ、攻撃の的となるわけです。またキリスト教徒からも、しばらくのあいだ「敵のスパイ」扱いを受けることは必至でありました。サウロもそのことは十分分かっていましたが、それよりも救いの喜び、自分がかつて迫害していたイエスの教えが、実は真の福音であることを知り、それを体験した強烈なインパクトの方が大きく、抵抗勢力によるさまざまな困難をも、かえって宣教の原動力にしてしまうほどです。そのことを、ローマ書5章3節~5節に、パウロは次のように告白しまた自らを奮い立たせています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 パウロは、この事を自らの力や知識で会得したのではありません。5節にありましたように、「私たちに与えられた聖霊によって」とありますように、また1節に「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っている」と唱えるように、内住による聖霊・キリスト様によって、パウロは力と知識を得ているのです。パウロはつねに宣教の業は、「聖霊、内なるキリストによる」ことを忘れませんでした。もちろん、パウロにも失敗はありました。それは、アテネでの宣教のときです。アテネの人たちは新しい物好きで、イエス様の福音を新しい知識として受け止めただけで、宣教は「のれんに腕押し」状態となり、パウロは失意とともにアテネを去ります。そのことの反省として、パウロは、コリント人への第一の手紙1章17節B~18節で、次のように述べています。「キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」 イエス・キリストの福音を単なる物語や伝説のように扱うのであれば、そこには神の力も働かないのです。イエス・キリストの十字架での贖いと復活を信じられなければ、イエス・キリストの福音はまったくの茶番劇であり、無に帰するのです。パウロは第1コリント書15章で、そのことを繰り返して強調しています。14節「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものとなり、あなたがたの信仰もないものになるのです。」17節「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」19節「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

私たちは、このことを心して、主を証ししなくてはなりません。神の力である聖書を、ただ単なる人生訓や歴史や物語として紹介するならば、聞く人の救いには至らないのです。私たちが、イエス・キリストによって救われた確信と喜びがなければ、私たちの信仰もむなしくなり、イエス様の愛を伝える者とはされないのです。そして、私たちを救われた確信と喜びに導くのは、聖霊です。聖霊の働きがあってこそ、私たちが受ける苦難や惨めさに勝ち得てあまりある喜びと平安が与えられるのです、胸の内から湧き出る泉のように私たちを潤すのであります。聖霊によって、キリスト・イエスにあって、いつも喜び、つねに祈り、すべてのことに感謝することがどれだけ大切かが問われているのです。(1テサロニケ5:16-19)最後に、パウロを通して主のことばによって、今朝のメッセージを締めくくりたいと思います。ローマ8章37節です。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと(すなわち、患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣)それらの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」「聖霊をけしてはなりません」

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、今朝のメッセージから示されたことを祈り求めてみてください。宣教や証人となることのすべては、内なるキリスト様が鍵であり、救いの喜びが原動力となります。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、御名をほめ、賛美いたします。私たちの内に住みたもうキリスト様の働きによって、私たちは常に喜びと平安で満たされ、また守られていますことに感謝いたします。どうか主の証人として、私たちを整え、お使いください。そのために私たちのやるべき分をお教えください。

主イエス・キリストの御名により、今朝の学びを感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

賛美: 新聖歌232「弱き者よ われにすべて」

賛美: 今月の歌・新聖歌172「望みも消え行くまでに」(献金の時)

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

Reach out: 手を伸ばして届く