ぶどうの木キリスト教会
礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』
2018年11月18日
礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り
礼拝:10:00
賛美: 新聖歌166「威光、尊厳、栄誉」
使徒信条: 新聖歌p.826
賛美: 今月のワーシップソング 「主を仰ぎ見て」
交読: 交読文45:詩篇第146篇:新聖歌p.915
十戒:末ページに記載
祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り
賛美: 新聖歌416「聖霊来れり」
聖書拝読:使徒の働き11章19節~26節(新改訳聖書)(輪読)
中心聖句:
「彼(バルナバ)はそこ(アンテオケ)に到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。」(23)
メッセージ主題:『主にとどまる幸い』
おはようございます、そしてお帰りなさい。
先々週は、『耳を傾ける人の助け人として』と題しまして、カイザリヤに駐在しているコルネリオ、イタリヤ隊という部隊の百人隊長に、使徒ペテロが会い、彼らが救いを渇望していることを知り、「異邦人であってもイエス様の福音に耳を傾ける人たちは、救いを受けることができる」ことをはっきりと悟るところから、主の救いの恵みは、すべて神の御計画であり、神に選ばれ、耳を傾けるように導かれた人たちに、差別なく全員に、降り注がれること、そして使徒ペテロがコルネリオたちの助け人であったように、私たちも助け人となりうるということを学ばせていただきました。今朝は、『主にとどまる幸い』と題しまして、ユダヤ人以外の人々によって、アンテオケのギリシア人たちに、主イエスの福音が宣べ伝えられ、エルサレムから派遣されたバルナバは、タルソにいたサウロ(後のパウロ)を連れ出して、共にアンテオケにて多くの人々に福音を語たり、そして、その地で、キリスト信者ははじめて、「クリスチャン」と呼ばれるようになった、そのところから、バルナバが説いた「常に主にとどまる」ということを学ばせていただきたく思います。
まず、お祈りいたします。(祈り)
この使徒の働き11章の中心は、アンテオケにおける聖霊の働きであります。聖霊はバルナバを通して、後のパウロである、サウロを宣教の表舞台へと導きだすきっかけが、このアンテオケという町なのであります。アンテオケは地中海沿いにエルサレムから北に上った北端にあり、ローマ帝国の支配下にありました。また、サウロの故郷でもあり迫害を逃れていた土地タルソは、アンテオケから西に行った近隣の町であります。エルサレムので、ステパノの死以降、キリスト教徒への迫害は増し、それを逃れるように、ユダヤ人たちは移動して行きました。そして避難先々で福音を語り、主イエスの福音が広がり始めたのです。まず、キプロス島の人たちがイエス・キリストを信じ、その人たちの幾人かがアンテオケに行って伝え始めました。アンテオケでは、ユダヤ人ではなく、ギリシャ人に福音が伝えられ、彼らが中心となって教会が立ち上がりました。そのことがエルサレム教会の耳に入り、バルナバを派遣するのです。バルナバは、「りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人」と24節で評されるような人でありました。また、サウロの回心が真実なものであることを、使徒たちに説明し、納得させた人でもありました。そのことについては使徒の働き9章26節から28節をご参照ください。バルナバは、サウロを擁護したこともあって、アンテオケで確かなる福音が伝えられていることを確認した後に、タルソからサウロを連れてきて、二人で1年間、アンテオケの教会で教えるのです。そして、そのアンテオケから「クリスチャン」という言葉が生まれました。また、バルナバが、サウロを擁護し、アンテオケに連れてきて一緒に教えを説くことによって、パウロの宣教の旅が始めって行くのです。いわば、アンテオケはパウロの宣教の出発点なのです。
今朝の中心聖句を見てください。「彼(バルナバ)はそこ(アンテオケ)に到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。」とあります。バルナバの喜びは一入(ひとしお)であったに違いありません。なにせ、ユダヤ人の弟子たちが福音を伝えたのではなく、異邦人であるキプロス人やクレネ人の信仰者が、それまた異邦人であるギリシャ人に伝えたのでありますから。その上、21節で「主の御手が彼らとともにあったので」とありますように、その福音も正しく伝わっていたのです。ですから、バルナバは、驚きと喜びに満ち、「常に主にとどまっているようにと(彼らを)励ました」のであります。
では、この「常に主にとどまる」ということはどういうことでしょうか。ヨハネは第一の手紙で次のように説いています。「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めからきいたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」(2:24)「初めから聞いたこと」とは、イエス・キリストの福音そのものであります。しかし、年月が経ち、おもにイエスを実際に知らない人たちによって、イエス・キリストの福音が曲解され、誤解され、御父や御子を否定するようになってしまうことを危惧するために、使徒ヨハネは「初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい」と警告を発するのです。恐らくバルナバも同じような危機感をもち、とくにアンテオケは、異邦人中心の信仰者の集まりですから、そのことには、祈り、くどいぐらいに教え励ましたに違いありません。
私たちも本当に気をつけないといけないことであります。私たちは弱い、ですから目に見えるものに頼りがちになります。この聖書全体がイエス・キリストを証ししていますが、それだけ、私たちは「主に常にとどまる」「初めの教えにとどまる」ことに弱さをもっているものであると言えるでしょう。聖書が「主に常にとどまる」ことを繰り返し繰り返ししつこく教えなければいけない程に、私たちは、神によって創造され養われているものにもかかわらず、神から遠ざかり、神をないがしろにしやすいものなのです。主は、どれだけの人を用いて、「主に立ち返りなさい、主にとどまりなさい」とお教えくださっておられるか、推して知るべきであります。私は、「主にとどまる」とは、ある種、私たちの主に対する信仰の決意表明でもあると思っています。もちろん、聖霊の働きによらなければ私たちは何もできません、それほど弱いものです。私たちの力で、主にとどまることが、どうのこうのとできるはずもありません。ですが、私たちの意識を常に主に向けるというのは、私たちの果たす責任(私たちの分)であると言えるでしょう。たとえば、「私たちの主への意識」の現れとして、聖書通読や賛美や祈りや感謝、黙想や静まりの時などが与えらえるでしょう。私にとっての「常に主にとどまる」とは、「常にイエス・キリストを想う」ということであり、私の大好きな聖句、1テサロニケ5章16節からの「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません」。このお言葉が、私の中で成就することを願うことであります。
皆さまには、それぞれお気に入りの聖句や、主から与えられた教えがありますでしょう。それらことを皆さまのお一人お一人の中で成就するように願う、そのことが、結局「常に主にとどまる」ことではないでしょうか。私はそう思うのであります。どうか、今日のメッセージを聞いて、お一人お一人が「常に主にとどまる」ということがどういうことなのか、考えてみていただきたいのであります。また、はっきりと言えることは、その「常に主にどどまる」ことで、神様と私たちの関係が、イエス・キリストを通して、「アバ、父よ」と呼べる親子の親密な関係に至るのであります。なぜなら、イエス・キリストが私たちの共同の神の相続人となってくださっているからであります。その幸いをいつも感謝し、それを素直に天のお父さまに現していきましょう。
ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝のメッセージである「常に主にとどまる」ということがどういうことなのか、祈り求めてみてください。皆さまの大好きな聖句を一つだけ皆さまの心の内にとどめてみてください。
(3分間黙想)
お祈りをいたします。愛する天のお父さま、御名をあがめ、御国に思いをはせつつ、賛美いたします。今朝は「常に主にとどまる幸い」と題しましてしてメッセージをいただきました。バルナバのアンテオケ教会に対する喜びを共有し、また私たちひとりひとりに、主は「わたしにとどまりなさい」とおっしゃってくださいますから、心から感謝いたします。どうか、私たちが、救われた喜び、守られているという平安を常に忘れず、主と共に歩ませていただけますよう、私たちの内からお導きください。
主イエス・キリストの御名により、今朝の学びを感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。
賛美: 新聖歌411「御恵みの高嶺に」
賛美: 今月の歌・新聖歌406「主にありて生くるとき」(献金の時)
今月のワーシップソング「主を仰ぎ見て」
献金の祈り
「主の祈り」(新聖歌p826)
頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」
祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
アーメン四唱:新聖歌59.7
賛美「主を仰ぎ見て」♬
主を仰ぎ見て 力を得よ
主は我が力 我が盾
主を仰ぎ見て 光を得よ
主が全てを 成し遂げられる
私にせまるどんな山も
越える力 与えてください
私が恐れず ただ主を信じ
進むことができるように