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証し

ハレルヤ! 主の御名を讃美致します。私は、最近ワクワクしています。

なぜかと申しますと、12月10日から北野病院に入院するからでございます。元気そうに見えると思うのですが、実際は、、、いたって元気です。ただし、運動しなければでございますが。

実は、心臓の血管が細くて、5、6か所ぐらいに心筋梗塞という爆弾を抱えております。

そのため、12日に胸を開けて、バイパス手術をいたします。7~8時間ぐらいかかるそうです。施術されるスタッフの方々は、7~8時間以上立ちっぱなしでございますから、大変です。その反面、私は全身麻酔ですから、ハレルヤ!と言ってる間に意識がなくなって、目が覚めればベッドの上ですから楽なもんです。ただし、7時間以上寝ると、私は腰が痛くなって、起きざるをえません。ですから、いつもは最高6時間ぐらいしか睡眠はとりませんが、今回は目が覚めても、体に管がいっぱいついていますので、しばらくはずっと寝たっきりでございます。腰が痛くなっても寝返りもできません。それだけが難儀です。

では、なぜワクワクしているのかと申しますと、この病院での3、4週間、私はどれだけの人にイエス様の証し人として、祈り、トラクトを配ることができるのか、それが楽しみで楽しみで仕方ございません。病院関係者の方々、患者さんとそのご家族の方々、お見舞いに来られる方々、それに12月はクリスマスです。イエス様のことをお伝えするには絶好のチャンスなのであります。

実は、この9月に3日間だけ検査入院をしました。この時も、冊子やトラクトをいっぱいもって、いろんな方々にもらっていただきました。ですから、今回は3,4週間。もっともっと祈って、イエス様のことをお伝えできるのでございます。そして、私が痛みや不自由の中にあっても、主にあって、笑顔で明るく、喜んで、また平安に、感謝をもって入院生活を送ることで、イエス様の「救い」という希望の光を反映できればと願っている次第であります。

私には次の聖句が与えられています。ピリピ人への手紙1章21節です。「私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」 パウロにとって、生きている間はキリストを証しし、福音を宣べ伝えるという召命を全うする喜びがあり、死はつまり天の御国での永遠の命を喜ぶことであり、生きるも死ぬも喜びであり平安であるというのでございます。

しかし、パウロは24節で、「この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です」と、まだしばらくは生かされるという、イエス・キリストにあって召命を全うするのだという確信が与えられておりました。 私もそうでございます。

今年の3月に急性心筋梗塞で緊急入院し、カテーテルでのステント手術を受ました。その時は、全身麻酔ではなく、部分麻酔で、お医者さんたちの会話が全部聞こえるのです。「そこはダメだ、破れるかもしれない」とか「それ以上ステント突っ込むとヤバい」とか。私は「あ、死ぬな」と思いました。「これで大変だった家のローンも全部清算できるし、保険金も入って来ますから、子供たちにもあまり迷惑はかからない。私は天国だし。」と思っておりました。そして、賛美と祈りをささげ、心の準備をしていました。その時です。アブラハムのイサクに対する神への信仰を思い出したのです。アブラハムには神との約束がありました。子孫を星のように増やすと。そしてイサクを授かりました。しかし、神はそのイサクを神に献げなさいと、アブラハムに仰せられたのです。アブラハムは神の初めの約束を信じていました。ですから、イサクは死んでも生きる、と確信したのです。神は、アブラハムの信仰を試されたのでございます。

私は、神様の「福音をつたえる者となりなさい」という御声に従って、昨年、牧師にさせていただきました。にもかかわらず、だれ一人として、まだイエス様のことを伝えきれていません。ですから、まだ召命は終えていないということが示され、それゆえ、まだ私は生かされるのだと確信したのです。事実このようにまだ生きております。そして、今回の手術でも、しぶとく生かされるのでございます。私にとっても、生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのであります。そして、つい先日、詩篇92篇14節が与えられました。「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう。」つまり、「まだこれからも長く生かされ、御霊の実を実らせ、信仰ももっと円熟し、福音も多くの人に伝えることができ、かつ主にあって活き活きと喜びと平安の中にこの身を置ける」ということであります。なんと幸いなことでしょう。このことでも、私はワクワクし、主に感謝しております。

「私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」 私は、これまでも、またこれからも、あと何年生かされるかどうか分かりませんが、どんな状況にあっても、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝し、つねに主を見上げる、そのような主の証し人でありたいと願わされております。