· 

メッセージ主題:『手の中の石』

大阪聖書学院2019.1.23

聖書箇所:ヨハネの福音書8章1節~11節 

中心聖句:7節

「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」

メッセージ主題:『手の中の石』

ハレルヤ!主の御名を賛美致します。

私は昨年12月に心臓バイパス手術のために入院をし、そこで示された事がございます。それは今後落語をベースとしたメッセ―ジを主に献げ、主に栄光をお返しさせていただくということでございます。クリスチャンでない方にもできるだけ分かりやすく、また興味をひいてくださるようにと落語風のメッセージを考えさせていただいております。皆さまの馴染みのある福音落語は、基本、落語ですので、落語の落ちから考えて、肉付けをしていくことが多いのですが、私の落語メッセージでは、み言葉が先にございます。その聖書の箇所や御言葉から黙想したものを落語風にアレンジしてございます。ですから、私の落語メッセージには落ちがございません。落ちを期待されませんよう、ご承知おきくださいませ。また、私自身、駆け出しの身でありまして、まだまだ語りができておりません。お聞き苦しいところもございますが、おつきあいの程、宜しくお願い申し上げます。

このヨハネの福音書の8章1節~11節までは、「姦淫の女」とか「わたしもあなたを罪に定めない」とか題されて、紹介されている箇所でございます。律法学者やパリサイ派の人たちがイエス様を落としいれるために、わざわざ姦淫の場で捕らえたひとりの女を、宮の広場の真中に連れてきて、うやうやしく、「先生。この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と問い詰めたのでございます。

イエス様の教えに聞き入っていた民衆も、イエス様がどうお答えになるか、かたずをのんで見守っております。その中に、天国長屋の八と熊もいました。

八「おい、熊さん、えらいことになってきたなぁ。」

熊「ああ、でもよ、八ぁん、なんかおかしかねぇか。姦淫の現場だと言って捕らえられたのは、女の方だけだ。男がいないと姦淫にはならねぇじゃねぇか。不義密通は、男も女も石打の刑で死罪だ。」

八「そうだな。それによ、不義密通をしたという確かな証人もいねぇ。なんか臭うねぇ。」

熊「ああ、プンプンするぜ。」

八「ところで、さっきまでどうどうと教えてくださっていたイエスというお方は、どこに行きなさった?」

熊「ほれ、あそこにしゃがんで、地面に指でなにかを書いていなさるよ。」

八「あのお方は、何を書いてなさるんだろうね。さっきはイザヤ書のことを言ってらしたから、イザヤ書のどこかをなぞっていなさるんじゃないのか。」

熊「いや、ありゃ、詩篇だね。」

八「どうして、詩篇だとわかるんだい。」

熊「いや、あの方の指使い、あのリズムは詩篇を書いているにちがいねぇ。」

八「また、いいかげんなことをいいやがって。だけどよ、あのイエスというお方はどうなさるんだろうね。」

熊「もし、あの女の罪を赦す、と言えばモーセの律法に逆らうことになる。そうすれば、あの方は死罪だ。」

八「じゃあ、あの女を石打ちにするしかねぇんじゃねぇか。」

熊「けどよ、八ぁん、覚えてねぇか、あの方の言葉をよ。中風の人をいやした時のことを。」

八「あぁ、あったね。確かあの時は、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言ってしまったので、律法学者たちがえらい剣幕で、あの方につめよってた。」

熊「そうそう、そして、あの方は、『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。』と言って、中風の人を直しちまった。」(マルコ2:2-11)

八「律法学者の連中は、歯ぎしりしたり、地団駄ふんだり。もう怒り心頭という感じだったな。」

熊「だからよ、もしあの方が、あの女の罪を赦さない、と言えば、あの方には赦す権威を持っていないことになって、嘘つきだということになっちまう。」

八「なるほど、律法学者やパリサイ派の連中は、うまく仕組んだものだ。八方ふさがりで、逃げ道がねぇんだ。」

熊「でもよ、あのイエスというお方、しゃがみこんじゃぁいるけど、困った様子じゃねぇな。」

八「あれだけ、律法学者やパリサイ派の連中が、『さあ、さあ、さあ、さあ、どうなさる、イエスの先生』ってしつこく言っているにも関わらず、涼しい顔で、あの方は何をかんがえていなさるんだろうねぇ。」

熊「おっと、あの方、立ち上がったよ。」

イエス「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

熊「おい、おい、おい、おい、口を開いたかと思ったら、『罪のない者が、あの女に石を投げなさい』って言って、律法学者やパリサイ派の連中の答えになっていねぇじゃねぇか。」

八「ありゃ、また身をかがめて、地面に何か書き始めなさったよ。いったい、どうなってんだい。」

八と熊を含めた民衆は、初めは、イエス様と律法学者やパリサイ派の人たちに、目が釘付けとなっておりました。姦淫の罪を犯した女のことはそっちのけでございました。もともと、律法学者やパリサイ派の人たちがイエス様をはめるつもりで、仕組んだことでございましたので、その女のことはどうでもよかったのでございます。

しかし、イエス様が立ち上がって、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言い放ち、ご自身はまた身をかがめてしまわれたので、民衆は、あの罪の女に目を向けざるを得なくなったのでございます。自分の犯した罪におののき、震え、死を覚悟しようとしつつも、その覚悟ができないでいる女に。

イエス様の「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という言葉は、彼らの良心を呼び起こしたのでございます。「罪のない者」この言葉は、彼らの慣れ親しんでいる詩篇の言葉を思い起こさせるのに十分でございました。「善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(14:3、53:3)

民衆はみな、イエス様と同じユダヤ人でございました。ユダヤ人は幼いころから主を恐れることを学びます。彼らは、箴言1章7節を暗唱するほどに、主を恐れることを学ぶのであります。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」 神を恐れない行為とは、自分の知識を誇り、自分が中心となって、傲慢になり、また自らを神としてしまうことでございます。自分の罪を棚に上げ、他人を容赦なく責め、裁くことのできる人の行為でございます。

また箴言2章5節でも、「あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう」とございます。「神を恐れる」とは神を怖がることではございません、神を全知全能の神、創造主として敬う行為であり、畏敬の念をいだく心でございます。神を愛する心とでも言えるでしょう。「神を恐れる」ことから、ユダヤ人たちの信仰生活は始まるのでございます。

神を恐れぬ人であれば、イエス様の先ほどの言葉を無視し、自分の罪を棚にあげ、躊躇なく、あの罪の女に石を投げつけることができたでしょう。しかし、民衆は、イエス様の「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」というお言葉に良心をさぐられたのでございます。

イエス様はその言葉の後、民衆に罪を直視させるために、再び、身をかがめて、彼らの視野の中心を罪の女だけにしたのでございます。罪の重さに打ちひしがれ、自暴自棄となり、または処刑をあまんじてうけようとうなだれている女に、彼らは目を向けざるを得なくなったのでございます。彼らはその女に、神を恐れるがゆえに、自分の罪を重ね見たのでございます。その瞬間、彼らの手にあった石は、ズシーンと重くなっていました。その石の重みは彼らの罪の重みでもありました。彼らは、その罪の重さに耐えかね、石を手から落として、そして、一人去り、二人去りと、全員が自らの罪の重さを知り、その場を離れて行ったのでございます。

天国長屋の八と熊も、他のみんなと同じようにその場を離れて行こうとしていました。

熊「『罪のない者』か。そんな奴はだれもいねぇ。みんな罪人だ。なあ、八ぁん。」

八「そうさなぁ。だれもあの罪の女を裁くことができるもんか。大なり小なり、俺たちゃ、全員罪を犯している。みんなにやぁバレていないかも知れねぇ。でもよ、神様はぜーんぶお見通しだ。あの女の震えている姿を見たら、なんか俺が神様の前で、震えているように見えてきた。いたたまれねぇな。」

熊「だけどよ。あのイエスというお方はちがうぜ。なんぜ、人の罪を赦せるお方なんだから。結局、あの罪の女も裁かなかった。いや、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」って、あの女の罪をなかったことにしてやりなさった。大したお方だ。それに、あの女の悔い改めを、『まこと』だと見抜いておられた。だから、罪に定めなかった。それとよ、『わたしも』って言ってたよな。ほかに罪に定めない方って誰だ。罪を赦すのは神様の業だ。神様とあの方が、罪に定めないっていうことか。」

八「熊さん、俺はちょいと小耳にはさんだんだけどな。バプテスマのヨハネのだんなが、あのイエスっていうお方をこんな風に言ってたんだとよ。『私は、あなたがたを悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。』(マタイ3:11)」

熊「そうか、預言者のバプテスマのヨハネより、偉ぇお方なんだな。そうすると、ひょっとして、俺たちが待ち望んでいる救い主キリストか。」

八「かもな。それによ、あの方がヨハネのところで、バプテスマを受けた時、天からこう告げる声が聞こえたらしい。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』(マタイ3:17) 神様の御子ということらしいよ。」

熊「もしもあの方が救い主キリストであるなら、あのお方を信じて、本当の悔い改めをすれば、あの女のように、俺たちも罪に定めないのだろうか。そうであるなら、俺は信じてみてぇ、あのイエスというお方を。」

八「俺たち、ユダヤ人は、神を恐れなさいと言われて育ってきた。神様から与えられたモーセの律法を守ることに一生懸命で、本当の意味で、俺たちは神様を恐れているのだろうかなぁ。俺は、あのイエスっていうお方こそが、神様のことをご存知なんじゃぁないかって気がするのさ。」

熊「あの方を知るということが、神様を知るということになるのかもしれねぇな。」

帰り道の八と熊の頭の中では、箴言の「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」という言葉と、イエス様のあの罪の女に対しての「わたしもあなたを罪に定めない。」というお言葉がぐるぐると回っておりました。

さて、私たちはどうでしょうか。私たちは、本当の意味で、神を恐れているでしょうか。自分の事を棚に上げて、必要以上に、人を責めたりはしていませんでしょうか、人を裁いてはいませんでしょうか。私たちは、この時のユダヤ人たちよりも、はるかに、神を恐れていないのではないでしょうか、キリストを信じ、キリストに倣う者となるはずのクリスチャンでありながら。

私たちは、イエス様の愛にあぐらをかいていませんでしょうか。イエス様の優しさゆえに。悔い改めれば、七の七十倍でも赦されると、悔い改めを軽んじてはいませんでしょうか。「ごめんなさい」と口先だけになっていませんでしょうか。あの罪の女のように、まことの悔い改めをしているでしょうか。

私も、人をよく裁いてしまう人間だと思うときがございます。自分と価値観が違えば、すぐ責めてしまう。人の悪い所は、いやらしいほど見えてしまって、口に出さなくても、心の中で裁いてしまっている者でございます。そんな時、私の大好きなイエス様が、悲しい顔をしてこうおっしゃるのです。「あなたは、あの女に石を投げてしまったのですね」「わたしの話したたとえ話は分からなかったのですか。王様があなたの借金を免除してやったのだから、あなたは、他の人の借金を免除してあげるべきではなかったのですか。」(マタイ18章)「赦してあげるべきではなかったのですか。」「なぜあなたは、兄弟の目の中にあるちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)「実は、あなたがあの女に投げた石は、わたしに当たっているのですよ。」「でもわたしはあなたを赦します、そのために来たのですから。あなたを罪には定めはしません。」「わたしはもう一度、あなたのために、身をかがめます。チャンスと時間をあげますから、あなたは、あなた自身の罪に目を背けないでください。そして、父なる神を恐れ、わたしが立ち上がったら、わたしに従って来なさい。わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。わたしは決してあなたをあきらめません。わたしはあなたを愛しています。あなたの良心を信じています。なぜなら、あなたの中に、もうすでに、わたしがいるからです。ですから、わたしが立ち上がったら、あなたも罪から離れて、わたしに従って来なさい。」

私たちの内に住みたもうキリスト様は、私たちの良心に訴えかけ、内から変えてくださいます。イエス様はおっしゃいます、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)イエス様は私たちの内から、私たちを変えようと聖霊を送って下さいました。どうか、あなたの手ににぎっている石を落として下さい。プライドという石を、自己中心という石を、人を裁くという石を。内なるキリストである聖霊様の声に耳を傾けてください。あなたの手の中にある石は、あなたの重荷です。重荷の全てを主にゆだねましょう。そうすればたましいに安らぎが来ます。あなたは、あなたの手の中にある石から自由になるのです。

お祈りをおささげいたします。