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メッセージ主題:『主のもの』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2019時年2月3日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌267「渇けるわれは上より賜う」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「花も」

交読: 交読文54:ヨハネの福音書第14章:新聖歌p.922-923

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌206「飼い主わが主よ」

聖書拝読:使徒の働き21章10節~14節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「するとパウロは、『あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。』と答えた。」(13)

メッセージ主題:『主のもの』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

聖書を閉じて、メモも取らずに、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『与える幸い』と題しまして、お話をさせていただきました。20章では、パウロがギリシャのコリントまで行き、そしてエーゲ海の沿岸に沿って、トロアス、アソス、ミテレネを経由し、ミレトまで来たときに、エペソ教会の長老たちと会って、話をしたときのことが記録されています。パウロのエペソ教会に対する励ましが記されております。その中で、先週は、当時、イエス様が語られた周知の言葉、「受けるよりも与えるほうが幸いである」という御言葉を中心に学ばせていただきました。

今朝は、『主のもの』と題しまして、お話をさせていただきます。21章では、パウロは、ミレトの港から海路を通って、シリヤ地方のツロに上陸いたします。ツロから陸路で、トレマイ、カイザリヤと行き、エルサレムへと向かう途中でございます。カイザリヤでは伝道者ピリポの家に滞在していました。そこへアガボという預言者がユダヤからやって来て、パウロがエルサレムで迫害を受けることを知らせます。ピリポやルカたちは、パウロにエルサレムには上らないようにとしきりにお願いをいたしますが、パウロは聞き入れようとはしません。その時に述べたパウロの言葉が、「死ぬことさえも覚悟している」という今朝の中心聖句でございます。今朝はその覚悟からパウロの信仰を学ばせていただきます。

まず、お祈りいたします。(祈り)

パウロの信仰に対する考え方はシンプルで一貫しております。ピリピ人への手紙で、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(1:21)と述べているのがそれであります。「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現われることを求める」(1:20)ということが、パウロの切なる願いなのでございます。「生きる」ということは、パウロはいつも大胆にイエス・キリストを証ししておりますので、彼の働きが豊かな実を結び、多くの人が主イエス・キリストを信じるに至るということ、また、「死ぬ」ということは、この世を去って、キリストとともにいるというパウロの願いが成就するということでございます。

パウロは、キリスト教に対する迫害によって、迫害されればされるほど、かえって福音が広がっていくことをつぶさに見てきております。西暦30年のイエス様の復活後、すぐに弟子のステパノが殉教してしまいます。その後、キリスト教に対する迫害がきびしくなり、エルサレムの信徒たちは散らされ、彼らは逃げる先々で福音を宣べ伝えていきます。こうして、キリスト教は地中海沿岸の地域に広がって行ったのでございます。パウロが三回の伝道旅行ができたのも、要所要所に、すでに信徒である協力者たちがいたからでございます。

新約聖書の執筆場所を見てもよく分かります。イエス様の兄弟ヤコブは、エルサレムに留まっていましたから、「ヤコブの手紙」の執筆場所はエルサレムですが、それ以外の書簡は、すべて、パウロが伝道旅行をした地域、北側の地中海沿岸地域、それとローマで執筆されているようです。エルサレムの滅亡が西暦70年頃でありますから、信徒たちはそれ以前に散らされ、そしてそれぞれの地域で執筆していきます。ただし、イエス様の兄弟のユダが執筆した「ユダの手紙」はエルサレム滅亡以降だと推測されていますし、使徒のヨハネが執筆した書簡は、西暦85年から100年の間と考えられております。

当初のキリスト教の広がりは、迫害と共にありましたから、福音宣教は死と隣り合わせでありました。ですから、パウロの言うところの「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」とは、聞く人々に切実なる共感をもって受け入れられたのでございます。

さて、カイザリヤでパウロのエルサレム行きをなんとかとどめさせようとしていた、ピリポやルカのやりとりを聞いていた中に、天国長屋の八と熊がいました。かれらも当初パウロにはエルサレムには行ってほしくないと思っておりました。

熊:八ぁん、パウロのだんなはなんであんなに頑固なんだろうねぇ。

八:そうよな。今エルサレムにいっても、迫害がひどいし、ヤコブのだんなが教会を守っていなさるけど、他の弟子たちはみんな散らされたからなぁ。

熊:それによ、数年前に、エルサレムで大きな会議があったじゃねぇか。

八:ああ、覚えてるよ。異邦人クリスチャンも割礼をうけるのかどうか、っていうやつだろ。結局、あの時は、ヤコブのだんなが、その場を治めて、律法による食べ物の規制だけに収まったんじゃあなかったかい。

熊:そうなんだけどよ。あの割礼の問題は、えれぇくすぶっていてよ。ユダヤ人のクリスチャンたちは、まだまだ律法に熱心なんだと。とくに割礼の問題はあぶねぇ。「割礼は必要ない」と唱えていなさるパウロのだんなを目の仇にしている連中も多くいるそうだ。

八:なんだ、身内からも迫害を受けるかもしれねぇのか。どうりで、ピリポのだんなも、ルカのだんなも、パウロのだんなのエルサレム行きを引きとめるのにやっきなんだ。

熊:それによ、ユダヤ地方から来たアガボという預言者が、「パウロのだんなが、エルサレムでユダヤ人に捕まえられ、ローマ軍の手に渡される」と告げたもんだから、ピリポのだんなもルカのだんなも必死だぁな。

八:しかし、パウロのだんなの気が知れねぇ。

熊:そうさなぁ。でも、以前に、パウロのだんなのこんな言葉を聞いたことがある。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、わたしは主のものです。」(ローマ14:8)パウロのだんなの覚悟はすげぇや。

八:でもよ。「主のもの」って、俺はどこかで聞いたことがあるぞ、たしか、こうだ。「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(詩篇100:3)

熊:それって、詩篇だよな。ということは、神様が俺たちをお造りになられたんだから、俺たちみんな、主のもの、と言うわけか。ということは、俺たちもパウロのだんなのように「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ」という覚悟をしなくちゃぁいけねぇってことか。

八:理窟はそうだよな。神様がこの世界をお造りになったんだから、全てが神様のものだ。

熊:でも神様はこの世界をお造りになった時、「それは非常によかった」(創世記1:31)と満足なされたって聞いてるぜ。それによ、神様は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」(1:26)とおっしゃって、人間を「ご自身のかたちに創造された」(1:27)って、言われているよな。だから、神様は人間を愛してくださっておられるんじゃないのかい。

八:そう、俺たちゃ、神様に愛されているさ、でも俺たちの方がわがままだし、自分勝手だし。

熊:だから、パウロのだんなは、「自分勝手じゃいけねぇよ、造り主である神様の言うことをすなおに聞かなくっちゃ」とおっしゃるかわりに、「わたしは主のもの」と言っているのかもしれねぇな。

八:「わたしは主のもの」と宣言すること自体が、俺たちを愛してくださっている神様に報いる方法なのかもしれねぇ。

熊:神様の愛に報いるっていうのは、ちょっと俺にはおこがましいような気もするけどよ、イエス様はこうおっしゃってらしたよな。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

八:そうそう、イエス様を信じることが、神様の愛に報いることになるのだろうね。イエス様はこうも言ってらっしゃったよ、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)つまり、イエス様を信頼し続けなさいってこったろう。

熊:ということは、なにかい。「わたしは主のもの」と宣言するということは、「わたしはイエス様を信頼し続けます」と宣言するのと同じかい。パウロのだんなはこれが言いたかったのかい。「生きるも死ぬも、わたしは主のもの、わたしはイエス・キリストを信じ信頼し続けます」って。

八:かも知れねぇな。パウロのだんなにとっちゃ、このご時世にエルサレムに行くということは、その宣言をまげられねぇってことかも知れねぇな、死は覚悟の上だ。

熊:それによ、今、思い出したんだけど、パウロのだんなは、アジアの福音宣教において、いつでも死を覚悟しいるということを言ってなさったそうだ。確かこうだ、「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(2コリント1:9)つまりよ、神様、そしてイエス様により頼む以外に、逆に生きる道がないっていうこった。それが、パウロのだんなの言うところの「わたしは主のもの」という宣言なんだろうなぁ。

八と熊は、そう話しながら、パウロがエルサレムに向かうのを、ご無事でと祈り、見送ったのでございます。

さて、私たちはどうでしょうか。死を覚悟するような迫害のない今の日本で、パウロのような緊迫感のある「わたしは主のもの」という宣言はできないかも知れません。しかし、私たちは遅かれ早かれ、この世での肉体の死を迎えます。その死を迎える時になって、「わたしは主のものであった」と胸をはって言えるでしょうか。わがままで自分勝手な生き方であれば、そうは言えないでしょう。しかし、私たちがどうあがいても、どう思おうとも、私たちは、私たちを創造してくださった神様のものでございます。そうであるならば、今から「わたしは主のもの」と宣言し、素直な気持ちで主に従う、主の御旨を追い求めるものでありたいと、私はそう思うのでございます。そして、それは、八と熊が申していましたように、「わたしはイエス・キリストを信じ信頼し続けます」と宣言するのと同じことなのかもしれません。いえ、私は、そうであると確信しておるのでございます。

皆さまも、今日、今から、この宣言をしていただけませんでしょうか。「生きるも死ぬも、わたしは主のもの、わたしはイエス・キリストを信じ信頼し続けます」と。

よろしいですか。では、私の後に、ご唱和ください。

「生きるも死ぬも、わたしは主のもの、」

「わたしはイエス・キリストを信じ信頼し続けます」

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「主のもの」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今日の導きを感謝いたします。今朝は「主のもの」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。パウロの宣言のように、私たちも「主のものである」宣言をさせていただきました。どうか、私たちが常に主を想い、主に感謝をささげ、主に栄光を帰することができますように、私たちを日々、内から造り変えてください。「主のものである」という喜びに満たしてください。

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の学びに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美: 新聖歌145「栄えに満ちたる」

賛美: 今月のワーシップソング「花も」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

「主の栄光 宮に」

主の栄光 宮に / 主の平和 内に、

主の喜びが 満ちあふれる

イエスの御名により / 罪潔められ

今 聖霊が心に住まわれる

♬今月のワーシップソング「花も」

ここに泉は湧く 涙を過ぎるとき

やがて実を結び 笑い声に満ちる

花も雲も 風も大海(おおうみ)も

奏でよ 奏でよ イエスを

空に響け 歌え魂(たましい)よ

恵みを 恵みを 恵みを

仰げ 天は開き 僕らは見るだろう

やがて花は咲き 栄光の主が来られる

花も雲も 風も大海も

奏でよ 奏でよ イエスを

空に響け 歌え魂よ

恵みを 恵みを 恵みを

 

 

十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。