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メッセージ主題:『神と人に責められない良心』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『使徒の働き』

2019時年2月24日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌315「主の御手に頼る日は」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「花も」

交読: 交読文57:コリント人への手紙第13章:新聖歌p.925-926

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌312「日ごと主イエスに」

聖書拝読:使徒の働き24章14節~16節(新改訳聖書)

中心聖句:

「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」(16)

メッセージ主題:『神と人に責められない良心』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

聖書を閉じて、メモも取らずに、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『恐れず、イエス・キリストを証しせよ』と題しまして、お話をさせていただきました。22章の民衆へのパウロの証しから、一夜明けて、23章では、ユダヤ人社会でのサンヘドリンという最高法廷にて、パウロは自己弁護をしようといたします。最高法廷では、パウロの言葉によって、法廷は紛糾いたします。混乱により、パウロの身の危険を感じたローマ軍の千人隊長はパウロを保護いたします。その夜、イエス様がパウロに現われ、パウロを励まします。イエス様は、ローマでも、エルサレムでしたようなキリストの証をするにようと告げられます。先週は、パウロの召命でもあり、私たちの召命でもあります、「イエス・キリストを証しする」ということを学ばせていただきました。

今朝は、『神と人に責められない良心』と題しまして、お話をさせていただきます。24章では、ローマ軍のペリクス総督の前で、大祭司アナニヤたちが、パウロを訴え、パウロはそれに応じて自己弁護をいたします。ペリクスは裁判を延期し、2年もの間、パウロを軟禁状態とし、パウロからパウロの信仰について聞くのでございます。今朝は、パウロの自己弁護のところから、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保ったということがどういうことなのかを学ばせていただきます。

お祈りをいたします。

まず、パウロの人の前にも責められることのない良心ということを考えてみたいと思います。12節では、「宮でも会堂でも、また市内でも、私がだれかと論争したり、群衆を騒がせたりするのを見た者はありません」とパウロは訴えています。つまり誰とも論争をしない、群衆を騒がせたり扇動したりしないということが、パウロの言う「人の前にもせめられることのない」態度なのかもしれません。パウロはテトスへの手紙でもこのように述べております、「愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。」(3:9)もちろん、これはクリスチャンに宛てられた言葉ですが、ユダヤ人や他宗教の人々に対しても当てはまるではないでしょうか。論争は無益だと主張する、その心が、パウロの良心なのかもしれません。

では、パウロの言うところの有益なこととは何でしょうか。同じくテトスへの手紙には、「だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい」(3:2)とあります。これはまさしくイエス様の生き方ではないでしょうか。事実、コリント人への第一の手紙では、パウロは大胆にもこのように語っています。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(11:1)この言葉はとても重い言葉だと思われます。誰が、この言葉を言えるでしょうか。少なくとも、私は、皆さんに、「私はイエス様に見ならっていますから、私をお手本にしてください」などとは口が裂けてもいえません。こんなもので申し訳なく思っております。

この大胆な「私をお手本にしなさい」という言葉を誤解してはいけません。パウロは、イエス・キリストにとって代わろうとは、これっぽっちも思っていないのですから。それよりも、彼は罪人のかしらだと告白しているぐらいです。テモテへの第一の手紙での記述が、それです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1:15)しかし、罪人のかしらのパウロは、主のあわれみのゆえに救われたのでございます。それは、主が彼を信仰者の見本とされるからでありました。パウロは続けて告白します。「しかし、そのような(罪人のかしらの)私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私にたいしてこの上ない寛容を示してくださったからです。」(1:16)

ですから、パウロは、イエス・キリストの寛容によって、「だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者」つまりキリストに似る者とされたのでございます。

次に神の前に責められることのない良心について考えてみましょう。パウロは、ペリクス総督に話しをしている中で、次のように訴えています。「私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕え、、、私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることを全部信じています。また義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」(24:14-15)パウロは創造の神を信じ、先祖の神を裏切っていないことを主張しています。つまり、「創造の神を信じる」と告白すること、「預言を信じ、その預言を成就されたイエス・キリストを信じる」と告白することによって、神の前に責められることのない者とされるのであります。つまり聖霊が降って「キリストを着た」のでございます。パウロは次のようにガラテヤ人の手紙の中で説いております。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(3:27-27) キリストとの深い霊的な交わりによってキリストのようにされるのでございます。

ここまでで、もうお分かりのこととは存じますが、この「神の前にも人の前にも責められることのない良心」とは、「神の前」「人の前」と区別をするのではなく、「キリストをその身に着た」人の心なのでございます。聖霊様によって、聖霊様に耳を傾け、聖霊様に従って、聖くされた心が、その良心なのでございます。

さて、ペリクス総督の前で訴えていましたパウロの話に耳を傾けていた人のなかに、天国長屋の八と熊もいました。二人はなにやら罪と良心のことについて話しております。

八:熊さん、パウロのだんなはさすがだね。「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つ」っていうのは、並大抵のことじゃねぇよ。もう善人だね、パウロのだんなは。

熊:かも知れねぇな、八っあん。でもよ、パウロのだんなは詩篇を引用して、こうも言ってたじゃねぇか。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)

八:ということは、パウロのだんなも善人じゃねぇってこったな。

熊:まあ、自分の事を「罪人のかしら」って言ってなさるぐらいだから。

八:でもよ、本当の罪人だったら、自分から「罪人のかしら」とはいわねぇだろ。まあ、自分から「善人」ともなかなか言えねぇけどな。

熊:パウロのだんなは、それだけ「罪」というものを良―く知ってらっしゃるんだろうよ。俺はまだまだ、自分を「罪人のかしら」だとは言えねぇよ。それを口にしたとたんに、嘘になっちまうような気がしてよ。

八:俺たちゃ、みんな、罪人じゃぁねぇか。大なり小なり悪いこともしてきてる。

熊:そりゃ、分かってるさ。でもよ、おおぴらげに「私は罪人でござい」って言っちまうと、なんだか、それを売り物にしているようで、いやなんだ。罪人は罪人らしく、何にも言わねぇ方がいいような気がするんだ。

八:だけど、そんな罪人のためにイエス様がいらっしゃったんじゃねぇか。

熊:そうだよ。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)ってイエス様はおっしゃっておられたからな。

八:だから、俺たちゃ、イエス様に招かれたんだ。「罪人」だからじゃねぇか。

熊:俺も罪深い人間だ。分かってるよ。でも「罪人」を売りものにしちゃぁいけねぇ。どうせ、売りものにするんなら、イエス様さ。俺たちじゃねぇんだ、イエス様をお伝えしねぇとな。そうだろ、八っあん。

八:確かに。熊さんの言うとおりだ。でもよ、ちょっとだけ、聞いてもいいかい。

熊:なんだよ。

八:罪人だとか、罪深い人間だとかいうのは、罪が分かっているからそう言うんだろ。

熊:そうだな。

八:じゃあ、どうして罪が分かるんだろう。しても良い事悪い事を教えてもらったからかい。

熊:それは、俺たちが生まれ持っている良心のせいだろうな。確かに周りから教わったこともたくさんあるけどな。

八:その良心って、よく分からねぇしろものだよなぁ。

熊:良心っていうのは、早い話、善悪を測る心じゃねぇのか。俺たちが育っていくように、俺たちの中にある良心も育っていくんじゃねぇかな。

八:じゃあ、みんな良心を育ててるってことだな。

熊:そうなるね。でもよ、パウロのだんなの言っている良心は、ちょいと違うような気がするよ。

八:「神の前にも人の前にも責められることのない良心」っていうやつだな。

熊:あの良心は人間業じゃねぇと思うんだ。俺たちの良心ていうのはよ、やっぱ、自分が可愛いんだ。だから、自分本位な良心に育っちまうんだな。

八:じゃあ、パウロのだんなのいう良心は、神業ってことかい。

熊:人間生きてりゃ、褒められもすれば、責められもするさ。それなのに、神様の前に責められることのないっていうのは、神様が良心を育てていただくしかねぇんじゃねぇか。ちがうかい。

八:なるほどね。俺たち人間がいくら努力しても限りがある。それに、神様の前に立った時の俺たちの良心なんて吹けば飛ぶような、薄っぺらいもんなんだろうな。

熊:だから、俺たちも、パウロのだんなのように、神様に良心を育てていただかなくちゃあいけねぇんだ。

八:それって、この世で働いてくださる聖霊様っていうことかい。

熊:聖霊様は、俺たちの心に住んでくださって、俺たちを罪を犯しにくい性質へと変えてくださるんだ。つまりは、聖霊様が俺たちの良心を育てて下さっているということにもなるだろうよ。もちろん、俺たちも、聖書を読み、祈り、賛美して、神様に応えねぇといけねぇ。先週、八っあんが歌ってたじゃねぇか。「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」って。あれだよ。

八:「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに、植わった木のようだ。」

熊:ストップ! 分かった。俺が悪かった。俺がその歌を思い出さしちまったからな。

八:最後まで歌わせろよ。ここからがいいところなんだから。「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても(ウンウン)栄える。」(詩篇1:2-3)ご清聴ありがとうございます。

熊:出たよ、出たよ、ウンウン。そのウンウンがある最後のところ、「何をしても栄える」ってあるじゃねぇか。

八:ああ、あれは、金持ちになるってことだろ。

熊:何言ってんだよ、八っあん。お前、そんな料簡で歌ってたのかい。ちがうよ。あれこそが、パウロのだんなの言っていた「神の前にも人の前にも責められることのない良心」が育ったということじゃねぇか。何をしても、誰にも責められない、だから栄えるんだ。神様に責められないってことは、神様の祝福があるっていうこった。だから栄えるんだよ。天に富を蓄えるってことだな。この世で金持ちになるっていうことじゃ、ねぇんだ。分ったかい、八っあん。

八:分かったよ、熊さん。それ以上くどくど言わねぇでくれ。天に富を蓄える、ってことにするよ。それで、俺はこの歌うたって、良心に従って、天で大金持ちになることにする。

八は、まだなんか勘違いをしているような気もしますが、この二人、彼らなりにパウロの言葉、「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」を理解しているようでございます。

さて、皆さまはいかがでしょうか。八の大好きな詩篇1篇の「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」という言葉は、つまり、「いつも神様を思い、賛美と祈りをささげなさい」ということであります。それはパウロの申します、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」(1テサロニケ5:16-19)に通じるものではないでしょうか。特に、これらのすべての事は、内に住みたもう聖霊様が導いて下さるのでございます。ですから、パウロは、「御霊を消してはなりません。」と強調するのでございます。なぜなら、聖霊様こそが、私たちの内にある良心を育て、私たちを神にも人にも責められるところのない者へと変えてくださるのでございますから。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「神と人に責められない良心」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「神と人に責められない良心」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちを「いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝する者」とさせてくださいますからありがとうございます。また私たちは、内なる聖霊様によって日々造り変えられていますから感謝いたします。なおなお、私たちを主の栄光を現わす者へとお導きください。

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の学びに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美: ワーシップソング「主の教えを喜びとし」

賛美: 今月のワーシップソング「花も」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

「主の栄光 宮に」

主の栄光 宮に / 主の平和 内に、

主の喜びが 満ちあふれる

イエスの御名により / 罪潔められ

今 聖霊が心に住まわれる

●ワーシップソング「主の教えを喜びとし」

主の教えを喜びとし

昼も夜もそのおしえを口ずさむ

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。

時が来ると実がなり、その葉は枯れない。

その人は、何をしても  栄える

♬今月のワーシップソング「花も」

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ここに泉は湧く 涙を過ぎるとき 仰げ 天は開き 僕らは見るだろう

やがて実を結び 笑い声に満ちる やがて花は咲き 栄光の主が来られる

花も雲も 風も大海(おおうみ)も 花も雲も 風も大海も

奏でよ 奏でよ イエスを 奏でよ 奏でよ イエスを

空に響け 歌え魂(たましい)よ 空に響け 歌え魂よ

恵みを 恵みを 恵みを 恵みを 恵みを 恵みを

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。