メッセージ主題:『ダイエット』

大阪エイムキリスト教会 火曜日リバイバル集会 2019.3.26

中心聖句:エレミヤ書15章16節(新改訳聖書)

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」

メッセージ主題:『ダイエット』

今回のタイトルはダイエットというお題を付けさせていただきました。皆さま、ダイエットと聞きますと、おそらく痩せるためにするダイエットのことをお考えになるかもしれません。それはそれで正しい認識なのでございますが、英語のダイエットはもともと、日常の食事のことでございます。それが発展して食事療法、食事節制つまりダイエットのイメージがついていきました。健康のことを考えて何をどう食べるか、その総称がダイエットでございます。

今回の聖句はエレミヤ書からでございます。エレミヤは南王国ユダの預言者として神から召しをいただきました。紀元前627年から583年まで、約44年間、預言者として活躍しました。そしてバビロン捕囚の時代にもかかわっておりますから、動乱期でもあり、暗い悲劇的な時代の預言者でもございます。そして、エレミヤは青年時代から預言者となりました。ですが、若さゆえに、怖気づいてしまうこともありました。エレミヤは言い訳をします。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(1:6)しかし、主は、そんな弱腰のエレミヤを励ますのです。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(1:7-8)そして、主は御手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、みことばを授けられました。(1:9)

エレミヤは、そのみことばを、自分の血となり肉となるように深く黙想し、味わっていったのでございます。それが、今晩の聖句でございます。聖句を出して下さい。

エレミヤ書15章16節

皆さんでいっしょに読みましょう。

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」

まず初めに、このエレミヤ15章16節の言葉が記されている経緯を簡単に述べることにいたします。エレミヤは自国のユダの民から嫌われていました。なぜなら、彼らにとって耳の痛い不都合なことばかりを、神の言葉であるとして預言するからです。その嫌われ迫害されていることを知っていて、エレミヤは、神にその迫害を取り除いてほしい、助けてほしいと祈るわけです。「私はちゃんとこの16節のようにしています。彼らに愛想よくして、主のことばを曲げたりはしていません。」と訴えるわけです。実に神に愚痴ってしまうのです。すると神は、「弱音をはくな。おまえが、以前のようにわたしに全面的により頼むなら、わたしはおまえを預言者として再び立たせる。わたしが味方につき、おまえを守り、救い出すから、彼らはおまえに手出しはできない」というところで15章は終わります。

この15章16節は、エレミヤの必死なる訴え、「わたしはこのようにしていますから、どうか助けてください」と嘆願している箇所なのです。そして、それは自分自身に言い聞かせている箇所でもございます。

では、少しずつ見て行きましょう。

「私はあなたのみことばを見つけ出し」(後述:新改訳2017では、新共同訳のものに似た訳になっています)とありますが、はたして、エレミヤは一生懸命みことばを聖書の中から探し出したのでしょうか。預言者はみことばを捜すものなのでしょうか。口語訳では「わたしはみ言葉を与えられて」とあります。そして新共同訳では「あなたの御言葉が見いだされたとき」とあります。また、ほとんどの英語訳では、新共同訳と同じような訳になっています。エレミヤが一生懸命さがしたのではなく、御言葉がそこにあるのを見つけたのです。つまり、初めからその御言葉は用意されてあったのです。エレミヤにとってその時々に必要な、最も適切な御言葉が、神によって備えられてあったのです。しかし、もしもエレミヤが神のことを思わず、よそ見していたとしたら、その御言葉に気がつかずに通り過ぎてしますのです。心の中心を神に置かない限り、神が用意してくださった御言葉に気がつかないのです。

これは、残念ながら、私たちクリスチャンにもありがちなことではないでしょうか。聖書を読む時に、私たちが上の空でよんでいたり、邪念がはいっていたりしていますと、本当に私たちに必要な最高の御言葉が用意されているにもかかわらず、見過ごしてしまうのです。イエス様はこのことをたとえ話でおっしゃっています。マタイの福音書13章44節です。お読みいたします。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」この宝を見つけた人は貧乏な小作農です。頼まれて畑を耕していました。すると偶然に隠されている宝を見つけたのです。そして、それが、その農夫にとって最も価値のある宝であることが分かったのです。その上、宝は豊かにありました。ちょっと服にかくしてもって帰るという程度の大きさの宝ではないのです。ですから、全財産をはたいて、その畑をまるごと買う必要がありました。ここでの宝とは、真理であり、御言葉です。そして、その宝である御言葉は、豊かにあるのです。農夫がそれを宝だと気がついたのは、道を歩いていたからではございません、自分の仕事であり責任である畑を耕していたからです。私たちが主を求めている時に、主と深く語り合い交わっている時に、最も必要な御言葉である宝が、主によってあらかじめ用意されていることに気がつくのでございます。

そして、次にエレミヤはその御言葉を「食べました」。新共同訳では「むさぼり食った」とあります。御言葉に飢え渇きをもっていたのです。そして、食べて、栄養にし、血と肉としたのです。何回も咀嚼(そしゃく)し、消化をよくしたのです。御言葉を自分のものとしたのです。イエス様はおっしゃいます。「わたしは、天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」(ヨハネ6:51)イエス様の言葉や教えは私たちにいのちを与えてくださいます。しかし、イエスさまを食べる食べ方が問題なのです。ただ単にイエス様の言葉や教えを読むのであれば、それは噛まずに丸呑みしているのと同じです。消化が悪く、栄養になりにくいのです。イエス様を味わう、御言葉と教えを何回も口にしてみる、黙想してみることが大切です。それでやっと御言葉を食べたことになるのです。

次に「みことばは、楽しみとなり、心の喜びとなる」ということですが、美味しくいただいたものは、その食べ物を思うだけでも嬉しくなり楽しくなります。それと同じで、御言葉は、私たちの口には、蜜よりも甘いのです。詩篇119篇103節では、主の御言葉を次のように賛美しています。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」私たちにとって、神の知恵、神の教えは、とっておきの導きであると賛美しているのです。人は特に疲れた時に甘い物をほしがります。苦難・困難・迫害にあった時、私たちは、解決策を、救いを、守りを、導きを必要とします。それが、主があらかじめ備えて下さる御言葉なのです。105節では次のように言い換えています。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」道に迷わないように、つまづかないように、備えられた御言葉は光なのです。

最後に「私にはあなたの名がつけられている」とございますが、これは御言葉を完全に消化し、血と肉とされ、食べた物と同化するということです。イエス様はおっしゃいます、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネ6:56)この表現は、ぶどうの木の表現と同じです。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)イエス様を食べ、イエス様と接ぎ木され、つまり、わたしたちが聖霊様であるキリストを心の内に迎え入れ、ずっととどまっていただくなら、わたしたちは多くの実を結ぶのです。御言葉は、聖霊様が働いて下さるための栄養のようなものなのです。ですから、私たちは御言葉を毎日味わいながら食べないといけないのでございます。

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さて、ここまで、私のメッセージを聞いてくださっております皆さまの中に、天国長屋の八さんと若いお梅ちゃんがいます。少し彼らの会話に耳を傾けてみましょう。

梅:八のおっちゃん、今日はダイエットの話やからって来たのに、あの先生、ダイエットのこと何にも言いはれへんやん。

八:しっ、声が大きいって、聞こえるやんか。だって、今日は聖書の話を聞きに来たんやないかい。ここは教会やから。

梅:うち、聖書は毎日読んでいるからいいねん。お祈りもしてるし。

八:ほほう、関心やないか。ところで、お梅ちゃん、やせた? なんかほっそりしているような気がするんやけど。

梅:分かる? 3キロやせてん。大好きなパンやめたん。

八:お梅ちゃんが、パンを、やめた! 三食ともパンやったお梅ちゃんが。なんでまた。

梅:お友達がパンをやめてん、5キロもやせはったんよ。くやしいから、うちもパンやめた。

八:もうぜんぜんパンは食べへんのかいな。

梅:そう。でもなぁ、パン好きやから。パン屋さんの前を通って、あのいい匂いをかいだら、ついついお店にはいってしまいそうになんねん。

八:パンもいい香りがするからな。おっちゃんも、あの香り好きやで。だけど、そりゃ、なんぎやなぁ。この界隈は、パン屋も多くなってきたから。

梅:そうなんよ、外でかけるのも大変。

八:ところで、お梅ちゃん、ダイエットにいいパンがあるとしたら、どうや?食べても食べて太らんパン。

梅:え、そんなパンあるの?、、、まさか、フライパンとかしょうもないオヤジギャグいわんといてや。

八:フライパン?ちゃうちゃう、そもそも堅うて食べられへんし。

梅:じゃあ、どんなパン。まさか、エアパンっていうのあかんでぇ。反則やで、それ。

八:エアパンってなんや。

梅:食べるふりをするだけ。ほら、エアーギターっていうのんあるやん。

八:そんなんとちゃうって。聖書に書いてあるやんか、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがない」って。

梅:八のおっちゃん、それってイエス様のお言葉やんか。さっきあの先生がゆうてはった。「わたしは、天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」って。永遠に生きる、そして、飢えることがない、っていうだけで、ダイエットには関係あれへんやん。

八:いやいや、それがおおありなんやて。つまりやな、心の悪いところがそぎ落とされて、心のダイエットに効くちゅうこっちゃ。

梅:心のダイエット、それって?

八:心には良いところもあれば、悪いところもあるやん。でもな、イエス様が心にいてくれはったら、悪いことは考えなくなるかもしれへん。な、つまりやな、心のダイエットをしているちゅうこっちゃ。だから、パンであるイエス様はダイエットにきくんやって。

梅:なるほどね。でもな、八のおっちゃん、うちは、神様からお借りしている、この身体をもっと健康にしたいんよ。だから、いっぱいいろんなもんが入っているパンも食べへんなったし、揚げ物もひかえてんねんで。

八:お梅ちゃん、嘘いうたらあかんわ。この前、コロッケや鶏の唐揚食べてたやないかいな。見たでぇ。

梅:よく見てんなぁ。おっちゃん。油断も隙もあれへん。でも、嘘ゆうてないで。コロッケのころもは取ったし、唐揚げのころもはちゃんと残したもん。あのころもがあかんねんて、油いっぱいやし。

八:そうやな。あのころもは油のかたまりやからな。

梅:でも、八のおっちゃん、うち、ころもも好きやで。ころもにも油っぽくないのがあるもん。

八:へぇ、そんなころもってあったっけ?キャノーラ油で揚げてんか?

梅:八のおっちゃん、キャノーラ油って知ってんの?

八:知らん。言うてみただけや。

梅:もう、ちゃうよ。うちな、イエス様信じてるやん、聖書も毎日読んでるし、お祈りもしてるやん、キリストの衣、着てんやで。だから、もう心のダイエットしてんねん。

八:あぁ、お梅ちゃんに一本やられてしもたな。キリストを着てるか、、、どうりで、お梅ちゃん、キリストのええ香りがしてるわ。

天国長屋の八さんとお梅ちゃんは、私の話を聞きながら、こんな会話をしていたのでございますな。まあ、とにかく、心のダイエットとはいい言葉でございます。いただきましょ。イエス様を食べ、御言葉を食べるということは、心のダイエットに効くのでございます。御言葉を栄養にして、聖霊様の働きによって、悪いことは考えず、どんどん、「ありがとうございます、おおきに感謝です」と言えるようになっていくのでございます。そして、その御言葉は、ほんとうに美味しいのです。美味しいからこそ、また食べる。やみつきですわ。起きてからすぐに、そして朝ごはんの時、お昼ごはん、おやつに夕食時、そ上、夜食に、寝る前と。何回食べようが、太りません。御言葉は心のダイエット食ですから。榮先生が先日の日曜日、おっしゃってはりましたねぇ、主の祈りを朝、昼、晩と三回しなさいって。御言葉と主の祈りと一日何回食べることになりますか。そして、ふつう、食べる前には、「いただきます」食べた後には「ごちそうさま」って言いますよね。それを「神様ありがとうございます」って感謝したら、一日何回感謝していることになりますやろ。もうそうなるといつでも天国人やないですか。私たちの神様は、私たちにこのことを願っておられるんです。

「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべての事について感謝しなさい。」これはいつも御言葉を口ずさんで、聖霊様が働いてくださるからこそ、できることなんです。ほんまにアーメン!ですわな。いっしょに、キリストの香りを放つ者とさせていただきましょう。

賛美いたします。♪「主の教えを喜びとし」♪

「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1編2~3節)

もう一度、エレミヤ書15章16節の御言葉を読んで終わりましょう。

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」

お祈りをいたします。