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メッセージ主題:『福音は救いを得させる神の力』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年3月31日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌209「慈しみ深き」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「あなたの大庭で」

交読: 交読文3:詩篇 第16篇:新聖歌p.880-881

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌172「望みも消え行くまでに」

聖書拝読:ローマ人への手紙1章16節~17節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめキリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」(30-31)

メッセージ主題:『福音は救いを得させる神の力』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

聖書を閉じて、メモも取らずに、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『福音を伝える恵みと喜び』と題しまして、お話をさせていただきました。28章では、マルタ島に漂着したパウロたちは、シシリー島のシラクサに行き、そしてイタリヤ半島の最南端にありますレギオンを通り、ローマに近いポテオリに入港し、そこから陸路をつたってローマ入りを果たします。ローマでは、番兵付きで自分だけの家に住むことを許され、そこで、パウロは約二年間、自由に福音を伝えるという機会を得ます。この二年間はパウロにとって至福の時であったと思われます。先週は、そのパウロを通して、「福音を伝えるのは恵みである」ことを考えさせていただきました。

今週から、パウロの執筆による、ローマ人への手紙を一章ずつ学ばせていただきます。このローマ人への手紙は、パウロの第三回目の伝道旅行に出かけた時、ローマを目ざしたにもかかわらず、結局、ギリシヤのコリントまで行って戻って行きます。そのコリントに滞在した時に、ローマの信徒に手渡してもらうようにしたためたのが、この手紙でございます。西暦56年ごろとされています。ちなみに、パウロが念願のローマへ護送されていきますのは西暦60年のことでございます。

さて、今朝は、『福音は救いを得させる神の力』と題しまして、お話をさせていただきます。第1章は、パウロのローマの信徒の方々への挨拶的なところです。今朝の聖句で大切なことは、4つあると思います。①キリストの福音は、恥ではないということ。②福音は全ての人のものだということ。③福音は信じる人にとって救いを得させる神の力であること。④福音を信じる人は、義人として生きるということです。ひとつずつ見て行きましょう。その前にお祈りをいたします。

キリストの福音は、恥ではない

パウロはなぜ、この言葉を出したのでしょうか。それは、この時代のキリスト教は、ユダヤ教から異端視されていたからです。ユダヤ教の神は天地創造の神であり、人間であるイエス・キリストを神の子であるとは受け入れがたかったのです。キリストという名称は、もともと、祭司や王やメシア(救い主)に用いられたもので、「油そそがれた者」つまり「神に選ばれ任命された者」という意味です。「油そそがれた者」は他の人々からもそのように認められなければいけないのですが、イエス・キリストは、自分自身でキリストであると明言したので、問題となった訳です。その上、ナザレ人という、少し上流階級からはさげすまれて見られていた町の出身ですから、なおさらでございます。しかし、旧約聖書の預言者たちがメシアである救い主は、これこれしかじかから出て来ると預言し、その通りにイエス・キリストは出現し、その預言を成就させたのでございます。当時の上流階級である政治的宗教的指導者たちは、そのことを無視し、イエスを迫害し、十字架刑に処し、イエスの復活は、弟子たちの嘘であると言いふらしたのでございます。民衆たちは政治的宗教的指導者たちを信じたばかりでなく、イエスに期待していた分、イエスの十字架刑によって裏切られたと失望したのでございます。民衆は、メシアである救い主を待ち望んでいました。彼らの救いとは、ユダヤ民族のローマ支配からの解放であり、それをキリスト・メシアに期待していたのでございます。しかし、イエスは、結局ローマ軍によって処刑されてしまったのです。民衆は誤解をしていました。イエス・キリストは、ローマ支配からではなく、罪の支配からの解放を実現させたのです。パウロが、「福音は恥ではない」と言った背景には、このように同じユダヤ人から誤解され、異端視され、迫害され、肩身の狭い思いをしているかも知れないローマの信徒を勇気づけるためだったのです、イエス・キリストを信じることは恥ずかしいことではないということを。

キリストの福音は、すべての人のもの

イエスはユダヤ人であり、田舎町のナザレの出身でした。彼は、ユダヤ人の罪の意識のもとである律法からの解放と本当の救いと永遠のいのちのことを説いていました。しかし、イエスが十字架にかかり、死を克服して、復活すると、弟子たちに、はっきりと次のように言われました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)では、福音とはなんでしょうか。簡単に申しあげれば、それは、イエスの十字架上の死と復活でございます。もう少し具体的には、私たちの親しんでおります使徒信条のところにございます。「主イエス・キリストは、聖霊によってやどり、処女マリヤより生れ、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」これが福音の骨子でございます。イエス様は、全世界の人に次のようにおっしゃるのです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」これはマルタという女性に対して言った言葉ではありますが、全ての人に投げかけられた言葉でもあるのです。

福音は信じる人にとって救いを得させる神の力である

律法は罪を意識させるもので、その罪を犯さないようにするためのガイドラインでもありました。しかし、そのガイドラインは結局、人間の罪深さを際立たせるだけのもとであり、良い行ないをするだけの人間はいませんので、良い行いによって、罪から逃れ、霊的死から逃れることは不可能なのであります。人が救われ、永遠のいのちをもつためには、行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ成し遂げられるのです。なぜなら、イエス・キリストの聖い死によって、私たちの罪は贖われ、帳消しにされたのです。そして、イエス・キリストは復活することによって永遠のいのちを得ました。そのイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストと共に死に、共に復活し、共に生きることが約束されたのです。私たちが良い行いをしたから救われるのではなく、イエス・キリストを信じ、私たちの主であると受け入れ信頼することで、私たちは救われるのです、永遠のいのちをもつことができるのです。

福音を信じる人は、義人として生きる

「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)という聖書の言葉がございます。これは、パウロが詩篇14篇1-3節、53:1-3節にあります「善を行なう者はいない。ひとりもいない」という言葉を少しアレンジしたものです。先ほども申しましたが、私たちは、良い行いだけをしようとしても、どうしても悪い行いや悪い考えもしてしまうものです。ですから、「義人はいない。ひとりもいない。」「善を行なう者はいない。ひとりもいない」となるわけです。では、その事を知っているパウロは、どうして、「義人は信仰によって生きる」と主張するのでしょうか。「義」とは「正しい」ということです。そして、この「正しさ」とは、神ご自身の正しさであり、私たちの神に対する正しさでもあります。パウロは次のように言い換えています。「人が義(正しい)と認められるのは、律法(常識や慣習や法律)の行ないによるのではなく、信仰(キリストを通しての神への信仰)によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)義つまり、神に対する正しさとは、神の方を向く、神を神としてあがめるということでありますから、例えば、何回も聖句を唱えたから義人になるとか、献金をいっぱいしたから救われるというのではございません。そして、残念なことに、この世に100%の義人は存在いたしません。私たちは、自分を守るためにも、見栄のためにも嘘をつきます。もうその時点で義人ではありません。嘘をつく時は、神の方を向いていないからです。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちの過去・現在・未来における全ての罪はすでに赦されているのです。もしも、罪を犯しても、悔い改めれば、つまり神の方を向き直して謝れば、何度でも赦されます。それは、イエス・キリストが私たちを覆ってくださることによって、神の目からは罪が見えなくなっているのでございます。ですから、私たちは、イエス・キリストに対する信仰によって、義とされるのです。もちろん、その罪が人間社会での犯罪となるのであれば、人間社会での償いや刑罰は受けないといけませんが、それと同時に私たちは神に対しても罪を犯しているのです。義であり正しさである神にそっぽを向くので罪が発生します。そして、その罪の代償は死なのです。それを帳消しにされたのが、イエス・キリストですから、イエス・キリストを信じることで、その罪はなかったことにされるのです。少し、難しい話をしましたが、大切なことなのです。

さて、ローマでは、このパウロの手紙が朗読され、大勢の信者が聞いております。その中に天国長屋の八と熊もいます。二人はいろいろと自分たちの言葉で信仰談義をしております。

八:熊、パウロのだんなの言うことは難しいなぁ。学があるだけに、俺たち下々の者にももっと分かりやすく言ってもらいたいもんだよ。俺たちゃ、直にイエス様をしらねぇから、ピンとこないこともたくさんある。とくにさ、「福音は、、、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」って、なるほどねぇ、って聞いたけど、分かったようで、分からねぇ。

熊:そうだよな。でもよ、こう考えちゃ、どうだろう。八、覚えてるかい、イエス様が「わたしはパンです」って言ってたところ。

八:ああ、「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:35&48)だろ。

熊:そうだけど、こんな風にもおっしゃってたな、イエス様は。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」(ヨハネ6:51)

八:そのパンとパウロのだんなの言葉とどうつながるんだい。

熊:福音はよ、いわば、パン食い競争のパンみてぇなものじゃねぇかな。

八:イエス様はわたしの肉っておっしゃったから、パンより肉まんの方がいいなぁ、俺は。

熊:それじゃ、肉まんにしておこう。この肉まんが、おめぇの目の前にぶら下がってんだ。

八:いいねぇ、でも他の奴らに取られる心配はねぇのかい。

熊:その肉まんは、お前だけのもんだ。だから心配するこたぁねぇんだ。

八:じゃあ、食おうとしたら、誰かがひょいっと上にあげちゃうっていうんじゃないのかい。

熊:その心配もねぇ。そもそも競争でもねぇんだ。ただ、肉まんがお前の目の前にぶらさがってんだ。そして、その肉まんは救いなんだよ。永遠のいのちさ。

八:じゃあ、俺くっちゃうよ、いいんだね。

熊:ああ、遠慮せずに、ガブリとやっとくれ。

八:うまく食べれたら、後でお金をとられるっていうんじゃねぇんだろうな。

熊:疑り深いやつだな。そんなことねぇよ。はやくガブリとやんなよ。

八:はい、ガブリ! 

熊:その肉まんが、福音なんだよ。永遠のいのちがいただけるんだ。ガブリっとやっただろ、それが、信仰さ。八、おめぇ、その肉まんがおいしいだろうと信じて、ガブリってやったんだろ。

八:まずいと思ったら、食やしねぇよ。

熊:それによ、食べたら胃の中で消化されて、肉まんのにおいが体からプンプンしてくる。特に551の蓬莱の豚まんはそうだ。食ったやつはすぐに分かる。

八:そうか、俺は、肉まんマンになるのか。アンパンの方がよかったかな。アンパンマンだから。

熊:何ばかなこと言ってんだよ。肉まんマンでも、アンパンマンでもどっちでもいいさ。そのパンを食べるということは、イエス・キリストを食べるということさ。肉まんを食べると体から肉まんの匂いがするように、キリストを食べるとキリストの香りがしてくるんだよ。八、おめぇさんは、もうキリスト・マンだ。

八:キリスト・マンねぇ。イエス様だからイエス・マン、、、やっぱキリスト・マンだね。それに、キリストの香りってなぁ、いいやねぇ。

熊:その香りは、義の香りさ。神様の正しさの香りだよ。それはこの世で放つ香りだ。クリスチャンとして、この世で生きるための香りなんだよ。

八:じゃあ、神様は上の方から、キリストという肉まんを俺のためにぶら下げてくださって、ガブリって食べたら、永遠のいのちをいただけるだけじゃなくて、この世でもクリスチャンとして生きられるようにしてくださってんだ。ありがてぇな。

熊:だろ、ありがたいだろ。八は何もしなくていいんだよ。ただ、ガブリって食いつきゃ。それが福音さ。そのガブリが信仰さ。

八:そうか。パウロのだんなは、「福音は、、、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」って言ってたけど、神の力というよりは、神の愛なんじゃねぇかな。

熊:八、いいこと言うね。「神は愛」だよ。「福音も愛」なんだ。そして「愛は力」さ。その力によって、他の人にも肉まんを勧めたいと思えるようになる。やっぱ、神は愛なんだなぁ。

八と熊の信仰談義はまだまだ続きそうですが、福音を肉まんにたとえるところが彼ららしいですね。さて、皆さまはいかがでしょうか。イエス・キリストを信じた時点で、神の力としての福音が皆さまの生きる原動力となっていらっしゃるでしょうか。福音を他の人にも伝えたいという力になっていらっしゃるでしょうか。キリストを信じるということを、パウロは次のように説明しています。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9-10)私たちが心で思っているだけではダメなのです。口で信仰告白して初めて救われるのです。なぜなら、信仰告白し、洗礼を受けることで、あなたの心に聖霊様が下りてきて、そのまま宿ります。その聖霊様こそが私たちを罪を犯しにくい性質へと変化させてくださるのです。キリストの香りを放つ者へとされるのです。聖霊様が私たちの力となって下さるのです。どうか、聖霊様によって、イエス・キリストを信じ、この世を活き活きと生き、喜びと感謝に満ちた生活を送る者へといっしょに変えられ続けてまいりましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「福音は救いを得させる神の力」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。最後に、コリント人への手紙第一の1章18節の御言葉をお読みいたします。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

(3分間黙想)Seek ye first

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「福音は救いを得させる神の力」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。イエス・キリストを信じる私たちが、つねに福音を心に留め、聖霊様によって、主の聖餐に常にあずかる心の準備ができていきますように。そして福音が私たちの力となりますように

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の学びに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌101「イエスよ十字架に」

賛美: 今月のワーシップソング「あなたの大庭で」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Seek ye first

Seek ye first the Kingdom of God seek: 探し求める  ye: = you

And His righteousness Kingdom: 王国  righteousness: 義(正しいこと)

And all these things

Shall be added unto you Allelu Allelujah add: 付け加える

♬今月のワーシップソング「あなたの大庭で」

主イエスに愛されて 生きてゆけるよろこび

主を愛し 主と語り合う その楽しき交わりよ

主イエスに愛されて 生きてゆけるやすらぎ

主を愛し 主と語り合う その楽しきいのりよ

主よ あなたのみそばに ひきよせられた

よろこび  主よ  あなたの大庭に住まう   そのやすらぎよ

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。