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メッセージ主題:『キリスト・イエスによる贖い』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年4月14日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌316「御言葉なる」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「My Love Song」

交読: 交読文5:詩篇 第19篇:新聖歌p.882-883

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌332「主はまことのぶどうの木です」

聖書拝読:ローマ人への手紙3章19節~28節(新改訳聖書)

中心聖句:

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(23-24)

メッセージ主題:『キリスト・イエスによる贖い』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、聖書を閉じて、メモも取らずに、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『天国人』と題しまして、お話をさせていただきました。ローマ書第2章は、パウロは「自分のことを棚に上げて、人を裁く、人のあら捜しをする」という、人間の(ある意味)根源的な罪について語られています。そして、その罪を明らかにしてくださる神の慈愛が悔い改めに導き、その神の前に出て悔い改めをすること、新たにされることこそが、ユダヤ人や異邦人関係なく、御霊による心の割礼であるとパウロは主張するのであります。そのところから、先週は、裁きと悔い改め、そして心の割礼について、考えさせていただきました。

今朝は、『キリスト・イエスによる贖い』と題しまして、お話をさせていただきます。ローマ書第3章は、「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」という信仰義認のことが中心でございます。この考え方は、キリスト教の根幹をなすものでございます。いわば基本です。今週は次の日曜日・イースター(復活祭)を迎える受難週でございます。イエス様のご受難が、私たちの罪を贖われたと信じる信仰によって私たちは義とされ救われるということを、再確認させていただきたいと思います。

お祈りをいたします。

パウロは、2章の選ばれた民ユダヤ人の証しである割礼の話から、3章では、そのユダヤ人にゆだねられた律法の話へと移行していきます。律法は神から出たものですが、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」とパウロは主張します。また続いて「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」と説きます。(ローマ3:20) 律法を誠実に守ろうとすればするほど、その律法を完全には守れない罪の中にいる自分を見いだしてしまい、自らが罪の意識に埋没してしまうのです。それは、あたかも蟻地獄や底なし沼のように、もがけばもがくほど、あがけばあがくほど、身動きがとれなくなるのでございます。その罪の意識にがんじがらめにされた生活のことを、イエス様は「重荷」と呼ばれました。

皆さまよくご存じの聖句、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)ですが、この言葉の対象は、ユダヤ人であり、イエス様のいう重荷は律法のことであります。もちろん、ユダヤの律法の下(もと)にいない私たちも、社会通念や既成概念、「ねばならない」と思わされる規則などによって、心が縛られています。その縛りが重荷であるとイエス様はおっしゃいます。イエス様は「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とおっしゃって、律法が生む罪の意識とその罪を犯してしまうだろうという恐怖や重圧からの解放を実現させてくださいます。

では、イエス様はなぜ、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言うことができるのでしょうか。何をしてくださったから、私たちの重荷を軽くし、またその重荷から解放して下さるのでしょうか。それは、十字架でのイエス様の苦痛と死であり、十字架への道までのイエス様に与えられた苦難と屈辱であります。イエス様は、罪のないお方で、十字架にかかるほどの罪を犯していないにもかかわらず、十字架にかかることを覚悟されました。「わが父よ。できますならば、この杯(十字架のことです)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)と祈り、「時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。」と無抵抗のまま、祭司長や律法学者たちに誘導されたローマ兵士たちに捕えられます。イエス様は、かれらに屈したのではなく、天の父である神様の御旨に従ったのでございます。

その神の御旨とは、パウロは次のように説明しています。25節です。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。」 神の義(正しさ)を現わすとは、神の栄光を現わすことでもあり、本来、人間は神の栄光を現わすために造られました。しかし罪を犯すことによって、その神の栄光を受けるにふさわしくない者となってしまったのです。罪は死をもって清算されます。神は、私たちの犯した、またこれから犯すであろう罪を清算し、義と認めるために、神のひとり子であり、罪を持たないイエス・キリストを十字架にかけ、彼の血をもって、私たちの罪をぬぐい、キリストの死をもって、私たちを贖ってくださり、神の義を現わすにふさわしい者としてくださるのです。これが、私たちを創造された神の愛であり、恵みなのであります。神の恵みは無償の愛です。パウロは私たちに訴えます、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(24) そして神から義と認められるためには、私たちの罪を前もって贖い帳消しにして下さった、いわば私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかってくださったイエス・キリストを信じることが定められました。「(キリスト・イエスの十字架は)今の時に(神)ご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(26)とパウロが述べるように、この神様の恵み、無償の愛に対する、私たちの応答として、「イエス・キリストを信じ告白する」ということが、私たちに示されています。

私たちを創造された神は、選ばれた民であるユダヤ人に律法をさずけ、私たちの罪を明らかにされました。その律法を完全に行なうことによって、神の義を現わせるのでありますが、私たち全員は罪人ゆえに、そのように律法を完全に行なえる者はおらず、ゆえに、神は律法を通して神により頼むことをお教えになられたのでございます。しかし、それでもなお罪は消えることなく、神の義を現わす者としてはふさわしくありませんでした。神は、神の義を現わす、本来の私たちの姿をとりもどさせるべく、神のひとり子イエスをこの世に送り、罪のない彼の十字架上での死によって、全人類の過去・現在・未来のすべての罪を帳消しにされました。そして、神は私たちにひとつの条件を与えられたのです。それは、「イエス・キリストを信じる」ということです。パウロはそのことを次のように訴えます、「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」と。(28)また、イエス様はおっしゃいます、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)また、このようにもおっしゃいます、「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:44-46) イエス様を信じるということは、神様を信じるということであり、信じれば闇の中にとどまることなく、永遠のいのちを持つのです。それが、神様からの恵みであります、無償の愛であります。

さて、ローマではこのパウロの手紙が会堂で朗読され、集まった民が耳を傾けておりました。その中に異邦人である天国長屋の八と熊もいました。

八: パウロのだんなの話に律法とか律法の行ないっていうのが出て来るけどよ、異邦人である俺たちには関係ねぇよな。

熊: 確かに、律法は、ユダヤ人のものだ。彼らはそれを誇りにしているからな。けどよ、イエス様は、律法という代わりに「重荷」っている言葉をお使いになられた。これは俺たちにも当てはまるんじゃねぇかい。

八: 俺たちの重荷ってなんだろうね。

熊: 「ねばならない」ということのなかで、なんでそうしなくちゃいけねぇのか分からなくなっているのや、喜んでできないのは、全部かもしれねぇな。特に、教会のことで、「ねばならない」となれば、律法の感覚に近いかもしれねぇな。

八: 例えば、什一献金か。

熊: お金の問題は難しい。もちろん、什一献金には意味があるし、それは神様へ感謝の現われさ。でも、出来ない時もある。じゃあ、その時は神様は祝福してくださらないのかと言えば、そう言うことではない。たくさん献金したからたくさん祝福がいただけるというものではない。

八: 実は、俺は生活がかつかつだから、なかなか什一献金ができなくなるときもあるんだ。そんな時、神様の祝福がないんじゃないかと思うときもある。

熊: 神様は無から有を造り出せるお方さ。八の献金額がどうのこうのではない、でも八の感謝の心がどうかっていうことさ。

八: 俺、精いっぱい感謝して、献金しているぜ。感謝しているのは、献金の時だけじゃなくて、なんでも感謝するようにしているけどな。

熊: 八、それでいいんだよ。神様にいっぱい感謝したら、神様は喜ばれる。それがてぶらであってもな。それを、なにがなんでも什一献金をしなくちゃいけねぇと思ってしまうと、律法になっちまう。また、いっぱい献金をして、それを誇っちまうと、罪になってしまう。俺たちゃもともと罪人なんだから、むずかしいもんさ。

八: そうか、じゃあ、その律法のような重荷を軽くしてくださったイエス様には感謝だね。

熊: そうだな。実はイエス様は重荷を軽くして下さっただけじゃなくて、その荷物の重さの感じ方を変えて下さったんじゃないかと、俺は思ってるんだ。

八: 「荷物の重さの感じ方を変えて下さった」ってどういうこったい?

熊: たとえば、さっきの献金の話にしてもよ、「什一献金しなくっちゃ」と思うと重荷になるけど、「什一献金させていただきます」と喜んですると同じ金額でも軽く感じねぇか。

八: なるどほね。でも、熊の言っていることが、まだよく分からねぇ。

熊: 神様には初物をおささげするんだ、それが喜ばれるんだと思えば、いただいたお給料や利益の十分の一を使う前におささげしちまうんだよ。使う前だからまだお金はある。だから気持ちよく献金できるっていうものさ。使った後の残りで、献金しようと思うと、お金が残ってねぇから辛くなる。

八: でもよ、前もって使い道がわかっているお金があるじゃぇか。家賃とか生活費とか、月々の返済とかさ。それを差っ引いてしまうと、あまり残んねぇんだよ。

熊: こう考えたらどうだろう。先に献金しちまって、残りでやりくりさせてくださいって神様を信じてお祈りするんだ。そうすると不思議にも、やりくりできちまう。それが重なりゃ、もっと神様に寄り頼むことになる。もっと喜べるし、もっと神様の御名をほめたたえることになるじゃねぇか。

八: そううまく行くのかねぇ。

熊: 重荷のことで、イエス様はこうおっしゃったじゃねぇか。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:30)って。くびきが体にあっていると、荷が軽くかんじるんだと。イエス様のくびきだと、おなじ荷物でも軽く感じる、つまり荷物の重さの感じ方を変えてくださるんだよ。「嫌だな」と思うことを喜びに変えてくださるんだ。

八: ん~、確かにおめぇの言うとおりかもしれねぇな。

熊: われらが贖い主のイエス様を信頼してみようよ。5000人のパンの奇跡を信じるんだったら、このことも、必ずやりくりできるって信じられるよ。だから、前もって感謝して献金するんだ。

八: そうだよな。イエス様は、十字架にかかって、あらかじめ俺たちの罪を帳消しにしてくださった方だ。罪を赦すことと病気を直すことが同時にできなさる方だ、それもただで。

熊: そんなお方を信じなくて、どのお方を信じるよ。それに、神様の恵みは、いつもたださ。

八: モーセの民も、ただで、神様からの恵みをいただいた。マナという食べ物を40年間、無償でいただいていたしな。

熊: なにもモーセの民に限ったことでもねぇぞ。太陽の光や雨も、イエス様を信じる人にも信じない人にも、平等に降りそそがれるんだ。だから、イエス様は、全世界の人々のために十字架におかかりくださった。みんなの罪を前もって贖えるようにしてくださったんだよ。

八: 後は俺たちがイエス様を信じるか信じないかだな。

熊: そうさ。イエス様の十字架での贖いは、特別の恵みだからな。なにせ、永遠のいのちをいただけるかどうかの、恵みなんだから。

ほっとしました。八さんと熊さんは、献金の話で盛り上がっていましたから、どうなることかと思いましたが、イエス様の十字架の贖いに落ち着いて、やれやれでございます。熊さんのいうとおり、献金も、神様に初物をおささげする、一番良い物をおささげするという意識から出たものでありまして、感謝の現われです。それも先取りの感謝、信頼の感謝です。私たちは、金額よりも心をおささげするものでありたいと思います。ダビデは大きな罪を犯した時、詩篇でこのように告白しています。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16-17) 神様が一番喜ばれるのは、物や行ないではなく、私たちの心なのです。まず献げるべきは心です。そして、今日のメッセージで学ばれたように、神様がもっとも私たちに望まれるのは、「キリスト・イエスによる贖い」を信じる私たちの信仰という心なのでございます。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「キリスト・イエスによる贖い」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。最後に、コリント人への手紙第二の8章9節の御言葉をお読みいたします。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

(3分間黙想)Jesus, name above all names

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「キリスト・イエスによる贖い」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。今週は、次の日曜日がイースター復活祭であり、その前の受難週でございます。イエス様の、私たちの罪の贖いのために、通られた苦痛と死を覚え、感謝と御名をあがめる日々であることをお導きください。

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の学びに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌203「ああイエス君 こよなき友よ」

賛美: 今月のワーシップソング「My Love Song」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Jesus, Name Above All Names

Jesus, name above all names, above: 真上に、優位に  savior: 救い主

Beautiful savior, glorious Lord glorious: 栄光なる、神々しい  Lord: 主、神

Emmanuel, God is with us, Emmanuel : 救世主  blessed: 祝福された

Blessed redeemer, Living word. redeemer: あがない主  living: 生きている

今月のワーシップソング「My Love Song」

私を選び、あなたのものとされた、いつもそばにいて恵みを受ける

なにもできない弱虫だったけど、あなたは不思議な勇気をくれた

歌え、愛するわが主に、心 今広げ

My Love Song 愛しい主イエスよ、あなたに愛を歌う

神の子どもとされた この喜び、海より大きな主イエスの愛

あなたが私に愛をくれたから、私はあなたを愛し続ける

歌え、愛するわが主に、心 今広げ

My Love Song 愛しい主イエスよ、あなたに愛を歌う

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。