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メッセージ主題:『よみがえりの主』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年4月21日

聖書拝読:ローマ人への手紙4章18節~25節(新改訳聖書)

中心聖句:

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(25)

メッセージ主題:『よみがえりの主』

イースター復活祭、おめでとうございます。そしてお帰りなさい。

できるだけ、聖書を閉じて、メモも取らずに、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『キリスト・イエスによる贖い』と題しまして、お話をさせていただきました。ローマ書第3章は、「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」という信仰義認のことが中心でございます。この考え方は、キリスト教の根幹をなすものでございます。いわば基本です。イエス様のご受難が、私たちの罪を贖われたと信じる信仰によって私たちは義とされ救われるということを、再確認させていただきました。

今朝は、『よみがえりの主』と題しまして、お話をさせていただきます。ローマ書第4章は、アブラハムの信仰が義と認められたことと同じように、主イエス・キリストを死者の中から、よみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるということを学ばせていただきます。

お祈りいたします。

信仰とは、いったいなんでしょうか。ヘブルの著者は11章で答えています。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)つまり、ただ単に希望という不確かなものに留めるのではなく、すでに現実に見ている・起こっているかのように確信することです。ヘブルの著者は、それから11章全体をとおして、「信仰によって」と今までの歴史的人物の信仰を浮き彫りにしています。ローマ書4章では、パウロはアブラハムの信仰にふれています。同じようにヘブル書の著者もアブラハムの信仰に触れています。今回はとくに息子イサクとのことについての記述を抜粋してみましょう。

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは(イエス・キリストのいけにえの)型です。」(11:17-19)アブラハムは自分の思いではなく、神の公義(約束は守られる)を確信し、神様は絶対にイサクをささげてもよみがえらせると、アブラハムは思ったのであります。それが信仰であります。先取りの感謝をささげることでもあります。

今日はイースター、キリストの復活を祝う日でございます。イエス様は、ご自身の復活を口酸っぱくしておっしゃってられましたが、弟子たちは信じませんでした。聖霊に満たされていない信仰は実にもろくて弱いのです。しかし、聖霊が下ると弟子たちは大胆に語り、イエス・キリストを証ししていくのです。(ローマ2:4)このところからも分かりますように、聖霊様の働きが私たちの信仰には不可欠なのです。聖霊の働きによる信仰によって、私たちはキリストの十字架上での罪の贖いを信じ感謝することでき、またキリストの復活によって、永遠のいのちが与えられることを確信するのです。

そして、この救いの確信が得られない限り、聖書の言葉がその人の中で成就しないのです。今朝はこのことを、私の証しを加えて、礼拝のメッセージとさせていただきます。

証し2019.4.21

「救いの確信」

皆さまは、イエス・キリストをわが主として、信じ受け入れた時に、それぞれにおいて大切な御言葉をいただいていると思います。私の場合は、皆さまよくご存じの聖句中の聖句と言われるヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」この聖句をにぎって、洗礼を受けました。1983年6月4日のことです。

しかし、これはあくまでも、信仰の始まりでありました。この時、実は、今だから言えるのですが、「救いの確信」というものが与えられていませんでした。では何をその時点で神様からいただいていたのかと申しますと、恐らく「救いのあこがれ」「救いの希望や願望」であったでしょう。イエス様を信じると決心し、歩み始めた信仰ではありますが、順調なものではありませんでした。しかし、信じると決めたイエス様の救いをあきらめることは考えられませんでした。私は、いたって頑固です、それにケチです。いったん信じ始めたのに、「もったいない」と思ったのです。どんなことでも道を究めるのに、時間がかかりうることは知っていましたから。

では、今、「救いの確信」は得られているのかと申しますと、私は、今だからこそ「はい」とはっきりと言えるような気がします。それは、私が牧師だからというのではありません。牧師になるほんの少し前に、その確信は突然得られました。洗礼から三十数年の歳月が流れていました。

「救いの確信」には、ある曲がそのきっかけとなりました。それは、「主は豊かであったのに」という比較的新しい曲です。その曲を耳にした時に心が揺さぶられ、涙があふれてきました。号泣しました。曲の折り返しのところが次のような歌詞となっています。「主は豊かであったのに、貧しくなられた。わたしたちが主によって、豊かになるために」この歌詞のベースになっています聖句をパウロの手紙のどこかで読んだと記憶があり、すぐに捜し始めました。そして、しばらくして、それが、コリント人への第二の手紙8章9節であることを見つけました。ご紹介いたします。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」神は私のために、御子イエス・キリストをお送り下さり、十字架にかかり、神の資質をすべて備えた力を惜しげ無く、私の罪を拭い去るために、お使いくださりました。「主は富んでおられたのに、私のために貧しくなられ」たのです。それは、私が永遠のいのちという富であり宝を得て、主の栄光を現わすためであります。そして、私が完全に富むものとなるために、主は死を克服してよみがえられました。私が、主と共に死を克服できるようにされたのです。主と私は、聖霊様を通して一体となったことを実感しました。そして、以前から与えられていました聖句、ヨハネの福音書15章5節のぶどうの接ぎ木の御言葉が、私の中で成就していくのを感じたのであります。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

そして、この「救いの確信」が得られ、主と一体となった時点で、それを継続させていただけるなら、すべての御言葉がわたしたちの内にあって成就することをわたしは信じております。例えば、マタイ21章22節の「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」この御言葉は真実です。聖霊様を通し、主と一体となって、求めるものごとは、自らの利益を優先することのない、公義の求めであり、ただただ主の栄光が現われるための求めでありますから、主はその祈りを必ずかなえて下さるのです。「祈り求めても与えられない」ものごとは、主の御旨ではなく、主と一体となった祈りや求めではないとも言えるでしょう。または、その時期ではないとも言えるでしょう。実に、真の「救いの確信」は、主と一体となった時に導かれるものだと思うのです。「救いの確信」を求めて下さい。私たちの主、イエス・キリストが、わざわざ苦痛を伴いつつ十字架にかかり、三日目に復活し、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださった、その愛を全心全霊をもって受け止めて下さい。

最後に、「主は豊かであったのに」という曲を賛美し、御名をあがめ、栄光をお返しさせていただきます。