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メッセージ主題:『新しい歩み』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年5月5日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌300「御恵み豊けき」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「君は愛されるために生まれた」

交読: 交読文7:詩篇 第23篇:新聖歌p.884-885

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌263「罪 咎を赦され 神の子とせられ」

聖書拝読:ローマ人への手紙6章4節~11節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(4)

メッセージ主題:『新しい歩み』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『イエス・キリストによって大いに喜ぶ』と題しまして、お話をさせていただきました。ローマ書第5章は、「イエス・キリストによって神と和解し平和を持ち、神を大いに喜ぶ者とされている」ということが中心でございます。確かに私たちにはいろいろな苦難や困難がございます。しかし、それは、イエス・キリストの十字架と復活によって、神との和解、神の怒りからの救い、神との親しい交わりを得られたという喜びの方が勝ち得て余りあるのでございます。その喜びを先週は、皆さまと分かち合わせていただきました。感謝いたします。

今朝は、『新しい歩み』と題しまして、お話をさせていただきます。ローマ書第6章は、「キリストと共に死に、罪に対して死に、キリストと共によみがえり、永遠のいのちをゴールとし、キリストにあって新しく生きる者とさせていただく」ということが中心でございます。もちろん、私たちは肉体を持ち、罪の誘惑から無縁のものとなったわけではありません。誘惑は常にございます。しかし、イエス・キリストと共によみがえって、新しい歩みを始めたのでございます。日々新しくされ、新しい一歩を始めることを主は導いておられます。今朝はそのことをいっしょに考えたいと思います。

お祈りをいたします。

罪のないイエス・キリストが十字架にかかって、死なれました。まるで欠陥のない小羊が、私たちの罪のために犠牲になるように。罪の報酬は死であります。小羊は私たちの罪の身代わりとなって、その命を落とします。では、イエス・キリストは誰のために十字架にかかったのでしょうか。これは皆さん、お分かりのように、私たち全人類のためです。いえ、あなたがた一人一人のために十字架にかかり死なれたのです。では、誰が、イエス・キリストを十字架にかけたのでしょうか。実際に手を下したのは、ローマ兵であり、その指示を出したのは、当時のローマ総督ピラトでありました。そのように焚きつけたのは、ユダヤ教の祭司長たちでありました。しかし、それで終わりでしょうか。そういう風に思うのであれば、私たちはイエス・キリストと無関係であり、無縁であり、キリストを神とあがめる必要はなにもございません。キリストを十字架にかけ、殺したのは、いえ百歩ゆずって、キリストを見殺しにしたのは、私たち、つまりあなたなのです。

わたしの罪が、あなたの罪が、キリストを十字架で殺し、または見殺しにしたのです。「いや、わたしは手を下していない。見殺しにもしていない、あれは2000年前のことだ。どうして私が手をくだせる、見殺しにできる」と言い張るなら、あなたに救いはございません。イエス・キリストの罪の贖いの死は、あなたと無関係になるからです。「キリストを信じる」という信仰は、「あなたの罪がイエス・キリストを十字架にかけたのだ」ということを信じることから始まります。キリストが私たちの罪を一身に背負ってくださって、ご自身の聖い命の犠牲によって、私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。つまり、私たちの古い自分、罪のからだは、キリストの命と共に、死に葬られたのです。そして、神がキリストを死者の中からよみがなされたのは、私たちも、キリストにあって、共に、新しい人生を、新しい一歩を歩み出すようにとの、神の導きであり、神の愛を私たちはいただいているのでございます。

イエス・キリストは、自らの命と引き換えに私たちを買い取り、私たちを罪の奴隷から解放し、新しい歩みをさせるために、神のしもべとされました。奴隷もしもべも、言葉が違うが同じ意味じゃないのかという声が聞こえて来そうですが、罪の奴隷には喜びはありません。罪悪感で逃げ場をなくした人です。しかし神のしもべには、自由があります、喜びがあります。もちろん、神を誠心誠意愛するという戒めはございますが、それは、私たちにとってこの世を歩む上で最適なことであり、次の世では永遠のいのちを得るという最高の結果がえられるのです。

さて、今朝の中心聖句で「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とありますが、「いのち、つまりキリストにあって新しい歩みをする」とはどういうことなのでしょうか。まず「キリストが死者の中からよみがえられたように」とありますから、新しい人に変えらえたことを意味します。キリストにあって癒されれば別ですが、普通、キリストを信じて、全く新しい体を得られるというのではございません。心が変えられるということです。新しい心によって、この世で新しい一歩を踏み出すということです。死を克服しよみがえられたキリストを信じると告白すれば、聖霊様が降り、心に聖霊様を受け入れ、聖霊様が心にお住まい下さることになります。ですから、心が新しくなって、その新しい心によって、言動が変わってくるはずです。もし、「イエス・キリストを信じます」と告白しているにも関わらず、心や言動が新しくされていないのであれば、本当にイエス・キリストを信じているかどうか疑わしくなります。劇的に変わる人もいらっしゃるでしょう。ボチボチ変わる人もいらっしゃるでしょう。多かれ少なかれ何らかの変化があるはずです。イエス・キリストを信じただけで、アーメンと言って信じただけで、救われるのですから、必ず変化はございます。毎日毎日、意識無意識のうちに、変えられていきます。日々の糧である御言葉を読み、その御言葉が分かる分からないとは関係なく、主を思う内に、主のもの、神のしもべ、天にふさわしものとして変えらえて行くのです。個性がなくなるというのではございません、個性は神からの授かりものですから、個性をより生かす人へと変えられていきます。

さて、今日は天国長屋の常連、熊さんが、同じ長屋の住民、吉三(よしぞう)さんを連れてきております。少し、彼らに耳を傾けてみましょう。

吉: おい、熊さんよ。あの牧師さん、「俺たちが、イエス・キリストを殺したと思わなかったら、救いはない」って言ってるよな。どういうこったい。

熊: イエス様は、神様と同じ聖いお方だ。ただ俺たちと同じ肉体をもって生まれたけど、俺たちとは違って、罪のないお方なんだよ。そのお方が、俺たちの罪を父である神様に赦してもらうために、十字架にかかって、血を流されたんだ。

吉: 真赤な血か?

熊: あたりまえじゃねぇか。緑だったら、宇宙人じゃないかって、大騒ぎだ。

吉: けどよ、そもそもだけど、俺たちには罪があるのかい。

熊: 罪っていうのは、何も犯罪だけじゃねぇんだよ。嘘をつくことも罪だ。それに、おおもとの罪は、本当の創造の神様を知らんぷりするってぇことだ。

吉: 俺は、神様をシカトなんかしてねぇよ。神社に行っても、お寺にいっても拝んでるさ。

熊: この世の中、本当の神様はお一人だ。この世をお造りなされた、創造の神様さ。

吉: じゃ、その創造の神様を拝めばいいんだよな。

熊: ところが、神様が、イエス様を通して、神様を知ることができるようになさったんだ。イエス様を通してでしか、俺たちゃ、神様を知ることはできねぇんだ。

吉: それで、そのイエス様と罪の関係が、よく分からねぇんだけどな。

熊: 分かりやすく言うと、人間には罪があるから神様を本当に知ることができねぇんだよ。

吉: そうか、罪が壁になってんだな、神様と俺たちの間の。

熊: そうだよ。吉と俺は、長屋で隣同士だよな。でも壁があるから、吉んところは見えねぇ。

イエス様は、その壁をとっぱらちまったんだ。

吉: 大胆なことをするねぇ、イエス様っていうお方は。いくら薄い壁だからって、とっぱらっちまったら、ちょいと恥ずかしかねぇか。

熊: まあ、神様やイエス様の方からは、もともと壁があっても丸見えなんだけどな。俺たちからは、罪の壁で見えなかったんだ。

吉: なんか、刑事の取り調べ室にある、マジックミラーみたいな感じだね。

熊: まあまあ、その壁でもマジックミラーでも、どっちでもいいけどよ、イエス様によって、それがとっぱらわれて、まあ、神様と俺たちの間の風通しが良くなったわけだ。

吉: その壁をとっぱらっちまったのは、イエス様の十字架によるのかい。

熊: そうだよ。だからな、イエス様が十字架の上で亡くなった時に、神様と祭司長が年に一度まみえる聖所の開かず部屋の分厚い垂れ幕が、真っ二つに裂けたんだ。

吉: なるほど、それが俺たちの罪の壁だったんだな。

熊: まあ、そういうことだ。はじめっから罪の壁がなかったら、イエス様も十字架にかかる必要はなかったんだよ。でも俺たちには罪があった。自分ではどうしようも壊れない罪がな。

吉: あの長屋の壁だったら、俺でも拳骨いっぱつで壊せそうだけどな。

熊: 長屋の壁じゃなくて、人間には壊せないほどの壁なんだよ。イエス様は、俺たちの罪ゆえに、死なれたとも言えるし、俺たちが、罪ゆえに、イエス様を殺したとも言えるんだよ。

吉: なるほどね。でも、イエス様はもう死んじまったんだろ。

熊: イエス様は三日目によみがえりなさった。つまり、死を克服して、神様から永遠のいのちをいただいた。それから天に上げられなさった。

吉: イエス様は、自分の命を犠牲にして、俺たちの罪の壁をとっぱらっちまったから、神様からご褒美をちょうだいしたんだな。

熊: そうじゃ、ねぇよ。イエス様はもともと、永遠のいのちをもってらしたんだ。でも、俺たちのために、俺たちの罪を帳消しにしてくださるために、この世に現れて死んでくださったんだ。そして、元に戻られた、天にお帰りなさったんだ。

吉: でも、なぜ俺たちはイエス様と共に葬られたって言われたんだよな。

熊: 俺たちも、イエス様を信じる前の罪深い俺たちではなくなったんだ。それをパウロは「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」とか「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、罪の奴隷ではなくなる」と言ったんだ。

吉: 熊、話の腰をおって悪いんだけど、「バプテスマ」ってなんだい。

熊: バプテスマっていうのは、洗礼のことだ。「イエス様を信じます」とみんなの前で宣言することだ。

吉: 熊は、もうバプテスマを受けたのかい?

熊: そうだよ、「これからはイエス様を信じて、イエス様に従います」って、みんなの前で宣言したんだ。

吉: でも、イエス様は死んで、よみがえって、天に昇られたんだろ?じゃあ、どうやってイエス様に従うんだよ。

熊: それは、この聖書さ。聖書はイエス様や天のお父様である神様のお言葉がぎっしりつまっている。それを読んでいると、イエス様に従う道が示されるのさ。それに、神様との静かな会話である祈りの中でも示されることもある。

吉: はぁ、なるほどね。で、俺たちが、生まれ変わるのはいつなんだい。寝ている間かい、昆虫みたいに、さなぎから成虫に変わるのかい。

熊: 吉さんは吉三のまんまさ、でもバプテスマを受けた時から、心に聖霊様が住まわれる。

吉: この胸んなかに、霊が取りつくのかい。それともエイリアンみたいに、最後は腹ん中から違う生物がでてきたりして、やだよ、気色悪いね。

熊: 聖霊様は、神様と同じさ。イエス様が聖霊を送って下さる。イエス様はこういう風におっしゃった、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)平安とは聖霊様のことだ。その聖霊様が、俺たちに必要なすべてのことを教え導いてくださるんだ。だから、恐れてはいけないとおっしゃるのさ。

吉: じゃあ、聖霊様は良い霊なんだ。取り憑かれるのかと思って、ちょいと心配したよ。

熊: 意外と怖がりなんだな、吉さんは。その聖霊様が、俺たちが聖書を読んでいても、分かるように目を開いてくださるし、導いてもくださるんだ。

吉: じゃあ、一夜にして、生まれ変わる訳じゃ、ねぇんだ。

熊: んー、どういったら分かりやすいかね。そうだ、バプテスマを受けた時に、吉さんは生まれ変わるんだ、でも、赤ん坊として。

吉: 俺が、また赤ん坊になるのかよ。でも、おむつはやだぜ。まあ、死んだオヤジも最後には紙パンツはいていたけどな。ムーニィとかパンパースははき心地がいいって言ってたな。

熊: 何ブツブツ言ってんだよ。肉体的には、今の吉さんと変わらねぇ。でも、なんでも習い始めはそうだろ、初心者は赤ん坊と同じさ。

吉: じゃあ、俺が赤ん坊や若葉マークのクリスチャンになったとしたら、どうすりゃいいんだ。

熊: 食べるものは、聖書だろ、、、

吉: 熊、おまえ聖書を食べるのか。マヨネーズか、醤油か、それともシンプルに塩か。

熊: 本当に聖書を食べるバカがどこにいるんだよ。それに、俺はダイエット中だからマヨネーズはかけねぇ。

吉: じゃあ、やっぱり塩か、醤油か、、、ゆずポンでいう手もあるな。

熊: 食べねぇよ! まず、クリスチャンの成長のためには、聖書を読んだり、礼拝の時のメッセージを聞いたりすること、賛美することも、それから祈ることも、、、それらが、神様が吉さんを大人のクリスチャンへと成長させてくださるのさ。イエス様は、「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)とおっしゃった。イエス様を食べねぇよ!マヨネーズも、醤油も、塩も味ぽんもなしだからな!でもイエス様をいつも思って、味わうようにして、成長させていただくのさ。

吉: じゃあ、毎日の「新しい歩み」っていうのは、クリスチャンとしての成長のことを言っているのかい。

熊: そうだよ、イエス様を味わって、成長させていただくのさ、キリストの身丈にまでな。ありがたいじゃねぇか。

吉: そうか、イエス様の身丈にまでか。赤ん坊からだったら、なかなか時間がかかりそうだな。

ところで、熊さん、イエス様の身長はいくらだったんだい。

熊: そりゃ、高かっただろうよ、天に届くんだからな。

吉三さんのトンチンカンな質問にも、遊びで返される熊さんの心には、いつも平安がございます。さて、皆さんは、もうすでに心にイエス様の平安をいただいているでしょうか。その平安が皆さんの心を常に支配してくださっているでしょうか。日々の生活の中にあって、いつも新しい歩みに導かれておられるでしょうか。イエス様によって、神様と皆さんの間にある壁はすべてこわされているでしょうか。風通しがよくなっているでしょうか。この機会に、今、それぞれにおいて、これまでどうであったか振り返ってみてください。イエス様との足跡がそのつど残されているでしょうか。そして、これから、どうするのか、皆さんの心を開放して、イエス様に問うてみてください。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「新しい歩み」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。最後に、ヨハネの福音書15章10節のイエス様の言葉をお読みいたします。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」

(3分間黙想)Jesus, Name Above All Names

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「新しい歩み」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。今週は、長いGWの休暇を過ごされ、少しお疲れ気味の方も多いかと思います。それぞれにおいて、主の守りと平安と、お疲れの癒やしと喜びがございますように。

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の学びに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌257「キリストは生きておられる」

賛美: 今月のワーシップソング「君は愛されるために生まれた」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Jesus, Name Above All Names

Jesus, name above all names, above: 真上に、優位に

Beautiful savior, glorious Lord savior: 救い主  glorious: 栄光なる、神々しい

Emmanuel, God is with us, Lord: 主、神  Emmanuel = Immanuel: 救世主

Blessed redeemer, Living word. blessed: 祝福された  redeemer: あがない主

今月のワーシップソング「きみは愛されるため生まれた」

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている (2回)

永遠の神の愛は、われらの出会いの中で実を結ぶ

きみの存在が私には、どれほど大きな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた 今もその愛うけている (2回)

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。