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メッセージ主題:『葛藤からの感謝』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年5月12日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌350「主の恵み語るは楽し」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「君は愛されるために生まれた」

交読: 交読文8:詩篇 第24篇:新聖歌p.885

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌242「われに聞かしめよ」

聖書拝読:ローマ人への手紙7章12節~25節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(19)

メッセージ主題:『葛藤からの感謝』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『新しい歩み』と題しまして、お話をさせていただきました。ローマ書第6章は、「キリストと共に死に、罪に対して死に、キリストと共によみがえり、永遠のいのちをゴールとし、キリストにあって新しく生きる者とさせていただく」ということが中心でございます。もちろん、私たちは肉体を持ち、罪の誘惑から無縁のものとなったわけではありません。誘惑は常にございます。しかし、イエス・キリストと共によみがえって、新しい歩みを始めたのでございます。日々新しくされ、新しい一歩を始めることを主は導いておられます。先週はそのことをいっしょに考えさせていただきました。

今朝は、『葛藤からの感謝』と題しまして、お話をさせていただきます。ローマ書第7章は、前半は、律法からの解放と新しい御霊、内に宿られる聖霊様によって、新たに神に仕えるということが説かれていますが、後半は、心の中の神の律法を喜びつつも、からだの中にある罪の律法にいまだに仕えている自分がいる、その葛藤をパウロは告白しています。パウロの言うところの「罪の律法」とは、罪の誘惑のことではございません。当時のユダヤ人の信仰の基盤である律法が、罪を際立たせるものであり、その文字による律法が、彼らの体にも頭にもしみ込んでいて、そこからの真の解放を難しくしていると告白しているのです。今朝は、そのパウロの葛藤から学びたいと思います。

お祈りをいたします。

パウロは正直に告白します。「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(24)「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(19)「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(15)

パウロは悪人なのでしょうか、犯罪者なのでしょうか。もちろん、それは違います。パウロはいたって普通の人間です。当然、神様からの召しを受けた方であり、罪に対して高い意識のある方ですが、やはり、普通の人なのです。私のいう「普通の人」とは、私たちと同じように、いえ私たち以上に葛藤があるという意味です。

パウロの体の中には、ユダヤ人としての律法がしみ込んでいます。ですから、6節で「今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」と主張しているのですが、律法から解放され、新しい御霊によって神に仕えようとしているにも関わらず、心とは裏腹に、完全なる解放にはいたらず、それによって、葛藤が生じているのです。

私たちの立場に置き換えてみますと、既成概念であったり、偏見であったりが、パウロのいうところの罪の律法、罪を際立たせる律法に当たるかもしれません。たとえば、私たちは、相手の服装で相手を安易に判断してしまうことがあります。しかし、それは私たちの目から見た判断です。神様の目から見たらその人はどのように映るのか、それが本当は問題なのであります、また私たちが問題にしなくてはいけないことなのです。パウロの言うところの「新しい御霊によって神に仕える」ということは、私たちが神様の目を持つと言うことではないでしょうか。これは霊的な話です。もし、私たちの心のうちに聖霊様がいらしてくださるなら、私たちは霊的に神の目をもつことが可能なのであります。私たちが、イエス様と霊的に一心同体とさせていただけるなら、私たちはイエス様の目から見た物事を感じることができるはずです。しかし、それは容易なことではありません。なぜなら、私たちには肉体的な目があり、また既成概念や偏見がからだにしみこんでいるからでございます。日本語には、「心眼」という言葉がございます。心の眼であります。まさに、聖霊様による「心眼」が私たちには必要なのであります。

聖霊様による心眼は、私たちが修行や鍛錬によって得られるものではございません。イエス・キリストに完全に寄り頼もうとすること、聖霊様に私たちを支配していただくことによって、その心眼に近づけるのではないでしょうか。そのことが行なえるのは、イエス・キリストの十字架の死と復活によるものであって、それ以外のなにものでもありません。ですから、パウロは7章の結びの御言葉で「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と告げるでございます。「こんなみじめな、善を行おうとしてもできない情けない自分でも、イエス・キリストは愛してくださり、死から救い出して下さった、もう感謝でしかない、ただただ感謝である」と主の御名を賛美するのでございます。

私たちには、善と悪の間に揺れ動く葛藤がございます。イエス・キリストの愛を知れば知るほど、自分の肉の罪が示され、それゆえに葛藤が大きくなっていきます。しかし、その葛藤が大きくなればなるほど、イエス・キリストの愛の深さがよりよく分かり、キリストの愛に感謝することが多くなるのです。そして、神への感謝が増せば増すほど、主への信頼と喜びと平安が増すのであります。いわば、このパウロのような私たちの葛藤は、神の愛を知るからこそ、生まれる葛藤なのです。また、この葛藤が、私たちをより深い神の愛へと導くとも言えるでしょう。

さて、ここで、そろそろ天国長屋の八さんと熊さんにバトンタッチしてみたいと思います。彼らは、ローマで、このパウロの手紙を朗読されていて、それに耳を傾けています。

八: 熊さん、パウロのだんなの手紙、分かるかい。俺にはどうもチンプンカンプンだ。

熊: 確かに、パウロさんの言っていることはちょいと難しいな。

八: いや、難しいって言うもんじゃねぇよ。だってよ、「律法から解放された」って言ってたのに、「からだの中にある罪の律法のとりこになっている」って言ってるじゃねぇか。俺たちゃ、解放されているのか、とりこにされているのか、いったいどっちなんでぇ。

熊: たしかになぁ。でもよ、結局どっちもじゃねぇのかな。

八: どういうこったい。

熊: 人間って、そんなに割り切れるものじゃ、ねぇだろうよ。イエス様の十字架の死と復活によって、律法とは、別の道ができたんだ。

八: どういうこったい、別の道って。

熊: つまりよ、一つの道は、律法を完全に守ったら、天の御国に入ることはできるんだ。でもよ、誰も完ぺきに律法を守ることはできねぇ。

八: えっ! 誰も律法を完ぺきに守ることはできないんだったら、天の御国に入ることはできねぇじゃねぇか。

熊: そうだよ。だから、誰も自力で天の御国に入れない。そこで、神様はもう一つの道をお示しくださった。それが、イエス様の道だ。イエス様が、みんなの罪を帳消しにしてくださるために、十字架にかかり、復活されて、永遠のいのちを取り戻された。

八: じゃあ、イエス様を信じれば、みんな救われるというのが、もう一つの道なんだね。

熊: イエス様を信じたら、自分が新しくされるんだ。でも古い自分もまだ生きている。だから、葛藤が生まれるんだよ。パウロのだんなも、「自分でしたいと思う善をおこなわないで、かえって、したくない悪を行っています。」って言ってるんだよ。パウロのだんなは正直だ。

八: じゃあ、イエス様の道も、けっこう大変だと言うことか。

熊: 大変だと言えば大変だし、大変じゃないと言えば大変じゃない。

八: なんだい、そりゃ。

熊: イエス様は、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」っておっしゃった。

八: ああ、知ってるよ。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)ともおっしゃった。

熊: だから、そういう意味では、イエス様の道は大変じゃない。一人で律法という重荷を一生懸命背負って生きていくのじゃなくて、イエス様がその重荷をとっぱらってくださった。

八: じゃあ、新しい自分と古い自分の間の葛藤はどうなるんだい。

熊: その葛藤を大変と思うかが問題なんだよ。例えば、イエス様はこうおっしゃったよな。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)

八: あれは、俺たち男にはきついよな。律法じゃあ、『姦淫してはならない』とだけ守っておけばよかったのに、「情欲で女をみてはいけない」と人には見えねぇ、心の問題にまで明らかにしようとなさっている。

熊: 「律法は霊的なものだ」とパウロのだんなも言ってなさる。つまりは、律法は心の問題にまで問う必要があるのさ。心を入れ替えることが大事だと。心を入れ替えようとするから、痛みがある、葛藤があるのさ。

八: じゃあ、あの金持ちの青年の話はどうなる。彼は、律法をぜんぶ守っていると言ってたけど。

熊: あの金持ちの青年には、律法はちゃんと守っているというプライドがあった。プライドは心の問題だ。あの青年は、形としての行ないは立派だったかも知れないけど、自分を心の中心に据えていて、神様はわきに置いていてしまっていた。それをイエス様は見抜いておられたのさ。

八: だから、イエス様は、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」(ルカ18:22)と言って試されたんだね。

熊: あの金持ちの青年に一つだけ欠けたものとは、心の入れ替えだったのさ。

八: イエス様は、心の入れ替えを、みんなに問われてなさるのだな。

熊: イエス様が望んでおられるのは、俺たちの心の入れ替えさ。それは、俺たちの努力だけでできるわけがねぇ。だから、助け手である聖霊様を、俺たちの心の中にお送り下さったのさ。だけど、俺たちの心は頑固だ。だから、毎日、心を入れ替える必要があるんだよ。聖霊様によって新しく生まれ変わらせていただくのさ。そうすると、少しずつ新しくされていくんだよ。もちろん、古い自分と新しい自分との間で葛藤しながら。

八: じゃあ、律法を守ろうとしているだけじゃダメなんだな。心を入れ替えなくては。

熊: そう、全ては心の問題だ。イエス様はそこを重視されるのさ。

八: それで、話を戻すと、その古い自分と新しい自分との間での葛藤は、大変なのかい。

熊: そこなんだよな。イエス様によって、神様の求めておられるのは、行いではなくて、心の入れ替えだ。また話がもとに戻っちまうけど、これを大変だと思うっていうことは、「まだ、自分ですべて頑張ろう」としているっていうことで、結局はそれこそが、古い自分なんだよ。イエス様や内なる聖霊様に任せきれていない、自分を明け渡せていないっていうことだ、だから大変っていうかしんどいんだ。

八: じゃあ、その葛藤が大変じゃないと思えるってことは、それだけイエスさまに寄り頼むことができている、自分の心をあけわたせているっていうことかい。

熊: 古い自分と新しい自分との間での葛藤のない人はいない。パウロでさえ、「私は、ほんとうにみじめな人間です」というぐらい、イエス様を見つめれば見つめる程、自分の足りなさ、罪深さが見えて来るもんだ。

八: じゃあ、パウロのだんなの、その葛藤は大きいんだ。

熊: 大きいんだけど、その葛藤はパウロにとって、大変じゃないんだ。むしろ、感謝なんだよ。

八: おいおい、感謝っていう言葉がでてきたぜ。葛藤が感謝なのかい。

熊: パウロの、古い自分と新しい自分との間での葛藤は大きい、だからみじめな人間だと言い放っている。でも、そんなみじめな罪深い人間なのに、いや、罪深い人間だからこそ、イエス様は愛され、ご自身を十字架にかけられた。その愛の大きさを知って、パウロは感謝しているんだ。

八: じゃあ、なにかい。パウロは自分が罪深い者であると示されれば示されるほど、より感謝しているっていうんだな。

熊: そうだよ。だから、パウロのだんなは、「私は罪人のかしらです」って言ったんだ。

八: ああ、その言葉聞いたことがあるな。俺は、どうして、パウロのだんなが、「私は罪人のかしらです」って言ったのか分からないよ。

熊: あの言葉は、こんな風に言われていたんだよ。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)

八: 「私はその罪人のかしらです」って、パウロの謙遜の姿勢ではないのか。

熊: ちがうよ。イエス様は、罪人を救うために来られた。そしてまず、迫害者であった罪深い者をイエス様は救われた、その神様の憐れみと御愛に感謝する。「私はその罪人のかしらです。こんなものでも救われました。」あれは俺には感謝してもしきれないぐらいの感謝の言葉に聞こえるんだ。

八: なるほどねぇ。あんな迫害者のパウロでさえ救われるんだから、誰だって救われると言いたかったんだな。

熊: そうさ。だから、今日のパウロの手紙の朗読で、最後が感謝の言葉で終わってんだよ。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

八: そうか。「神の律法と罪の律法に仕えている、みじめな者にも、神様は憐れみを降り注いでくださり、イエス・キリストにあって救ってくださった。その愛に感謝します。」ってパウロのだんなは言ってたんだ。じゃあ、その感謝の気持ちを表わすためには、俺たちはどうすればいいんだ。

熊: パウロのだんなは、こんなふうに言ってるな。「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(2テモテ2:8)これが、俺たちが、救われた感謝の気持ちをイエス様に表わす一番の方法じゃないかな。

天国長屋の八と熊の会話にもありましたが、私たち全員に、古い自分と新しい自分との間での葛藤がございます。また、善と悪の間に揺れ動く葛藤がございます。私たちには、その葛藤を通して、二つの道がございます。まだまだ自分は足りない者だと目を下に向けるか、それとも、こんな足らない者でも救って下さったと目を上げ、主に感謝するか。私は、目を上げ主に感謝したいと思います。そして、いつもイエス・キリストを思っていたいと思います。皆さまもそうではございませんでしょうか。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「葛藤からの感謝」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。最後に、ルカの福音書5章21-22節のイエス様のお言葉をお読みいたします。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

(3分間黙想)You Are My Hiding Place

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「葛藤からの感謝」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちには、古い自分と新し自分との間に葛藤がございますが、その葛藤を通して、「救われた」感謝をささげることのできる恵みを今日は教えていただき、ありがとうございます。私たちの感謝を表わす方法の最大のこととして、私たちがいつもよみがえりイエス・キリストを思うことができますよう、私たちをお導きください。

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌172「望みも消え行くまでに」

賛美: 今月のワーシップソング「君は愛されるために生まれた」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

You Are My Hiding Place

You are my hiding place hiding place: 避け所

You always fill my heart

With songs of deliverance deliverance: 解放、救出

Whenever I am afraid

I will trust in You trust in: 信頼する

I will trust in You

Let the weak say I am strong the weak: 弱き者

In the strength of my Lord strength: 力

I will trust in You.

今月のワーシップソング「きみは愛されるため生まれた」

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている (2回)

永遠の神の愛は、われらの出会いの中で実を結ぶ

きみの存在が私には、どれほど大きな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた 今もその愛うけている (2回)

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。