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メッセージ主題:『口で告白する幸い』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年6月2日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌50「心を高くあげよう」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文11:詩篇 第32篇:新聖歌p.887-888

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌123「救いの主は」

聖書拝読:ローマ人への手紙10章8節~13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(10)

メッセージ主題:『口で告白する幸い』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『神の憐れみ』と題しまして、お話をさせていただきました。ローマ書第9章では、神は主権者であり、ご計画を定める自由と権限をもっていらっしゃることが記されています。神の選びの民、イスラエルは義の律法を追い求めながら、その律法に到達せず、神の憐れみの救いを受けようとはしませんでした。彼らは、信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。神は新たな契約を定め、異邦人をも憐れみ、イエス・キリストを信じる信仰によって、全ての人を救おうとされました。私たちをお造りくださった創造の神は、不信仰な私たちに怒りを示し、滅ぼすこともできますが、神は憐れみ深く、豊かな寛容をもって忍耐してくださっておられます。その憐れみによって、私たち異邦人も救われることができ、神の栄光を現わす者へと変えられるのでございます。先週は、その神の憐れみについて学ばせていただきました。

今朝は、『口で告白する幸い』と題しまして、お話をさせていただきます。ローマ書第10章では、パウロは、イスラエルの民がなぜ救いにあずかれなかったのかを説いています。裏を返せば、キリストが律法の時代を終わらせられたので、キリストを信じる者がすべて義と認められ救われるということが説かれています。パウロはここで、救いへの二つの過程を示しています。①イエス・キリストを心で神がよみがえらせた方であると信じ、義と認められることと、②口でイエス・キリストを主と告白し救われることです。今朝はこの二つの過程について学ばせていただきます。

まず、主に祈りをささげましょう。

まず初めに、「イエス・キリストを心で信じる」ということは、どういうことでしょうか。私は、人間の心と頭とは切り離せないと思っています。コインの裏表のようなものかも知れません。いくら頭で分かっていても心が動かないという場合もあるでしょう。または、その逆もあります。私事で申しますと、私は、今しばりのゆるい食事制限をしています。昨年12月に心臓手術をした後、いえ、それ以前の昨年3月に急性心筋梗塞で緊急入院手術の後、できるだけ、一日1800キロカロリー、6グラムの塩分という食事制限を守ろうとしてきています、最近は守れない日もたくさんあるのですが。頭で「野菜は健康にいい、いっぱい食べないといけない」と分かっていても、最近ではどうも、「そのまま食べれる野菜パック」に手が届かないのです。頭で分かっていても心が動かないのです。また、その逆に、甘い物、特に洋菓子や菓子パンなどは、高カロリーなため、控えなさいと栄養士の先生にきつく指導されているにもかかわらず、「ちょっとだけだったらいいか」と思って、買い物籠に入れてしまったり、こんなに暑くなりますと、アイスクリームやアイスキャンデーで、舌を喜ばせてしまうのです。やはりこれらの行為は、頭と心が一致していないのです。

ここで何がいいたいかと申しますと、本当の意味で「イエス・キリストを心で信じる」というのは、頭と心が一致して、イエス・キリストを迎え入れるということだということです。イエス・キリストが一体どんなお方で、どのようにして私たちの罪を拭っていただいたのか、なぜその自己犠牲の行為が、私たちの罪の贖いに有効なのか、またなぜ神はイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのか、このようなことが知識として分かった上で、心で認められなければ、本当の意味で「イエス・キリストを心で信じ、受け入れた」ことにはならないのではないでしょうか。私は、若い時に、次のような人を何人か見て来ました。若い人たちの中で楽しい時間を共有して、教会生活やフェローシップで盛り上がる。それは、けっして悪いことではありませんし、むしろ喜ばしいことです。しかし、ちゃんとした救いについての基本的知識の土台がなければ、盛り上がった気持ちはいつか冷めます。終わらない祭りがないのとおなじ、過ぎない夏がないのと同じように、何か些細なことで、つまずき、気持ちは冷めて行くのです。その気持ちが覚めた時、心が折れそうになった時、それを支えてくれる何かが必要です。友達であったり、先輩信仰者であったりするでしょう、また救いの知識でもあるでしょう、そして、その上に全てをつかさどる聖霊様であります。助け手である聖霊様によって、私たちは信仰に導かれ、私たちの信仰は守られるのです。聖霊様は信仰に導くために頭も心もバランスよく整えようとされるのです。しかし、もし、それを知らない間に無視したとすれば、頭と心のバランスは崩れ、主がそれを回復される時を待つしかないのです。

また、その逆に、長年、聖書を読み、知識的には十分な方なのに、信仰に導かれていない方もいらっしゃいます。その方は頭では分かっているのです。しかし、心がイエス様を救い主として自分の心の中に受け入れることを躊躇しているか、拒んでしまっているのです。聖霊様はどなたにも働いて下さるのです。ただし、求める方にはより一層働かれるのです。ある方は、そのような人を見て、知識が信仰の邪魔をしているとおっしゃいました。私は、知識が邪魔をしているのではなく、その人の心が信仰への邪魔をしているのだと思っています。知識である頭は、その人の心のサポート役なのです。イエス・キリストに私たちの心の中心にお招きし、支配されることへの恐怖があるのです。イエス様の私たちへの支配は、私たちを平安と喜びで満たすことです。イエス様を受け入れられない心は、心を開放し、自分の心の中を見られることに、極端な恐怖を覚えています。しかし、残念ながら、創造主である神は、その人の心をすでにぜんぶご覧になられご存じです。心を開放してもしなくても、創造の神は、その人の心を知ることができるのです。どちらにしろ、神に知られているのなら、心を開放した方が楽になれますし、キリストの平安と喜びに満たされ、キリストを味わうことになるのです。神に対してあがきもがくよりも、私たちをお造り下さった方に降参した方が、私たちは希望をもって生きられるのです。またこの世も本当の意味で生きやすくなるのです。

さて、二番目の「口でイエス・キリストを主と告白し救われる」ということを考えてみましょう。「口でイエス・キリストを主として告白する」ということは、信仰告白のことであります。周りの人の前で、「私はイエス・キリストを主であり神であると信じます」と宣言することです。宣言することによって、「自分は主のもの」であることを明らかにし、イエス・キリストの御名によって洗礼をうけると、聖霊様が下り、私たちの内に住んでくださるのです。パウロはこのことを「キリストを着る」という表現も使います。罪を帳消しにしてくださった贖い主キリストを着ることによって、私たちの罪は、神からは見えなくなってしまい、私たちを罪には定めません。ゆえに私たちは救われるのです。ここで勘違いをしてはいけないことがございます。それは、洗礼の時の信仰告白は、私たちが「イエス様を信じます」と宣言し、そしてその本人が救われるためのものであります。救いは、その宣言を聞く人のためのものではなく、宣言者のものです。もしも、あなたの洗礼時の信仰告白を聞いて、「自分も洗礼を受けよう」と決意したとしても、それは聖霊様の働きによるものでありますから、信仰告白は、カッコ良くてもカッコ悪くても関係ありません。信仰告白は、主イエス・キリストの御前で行う信仰宣言です、信仰の決意表明です。神に対してするものです。すでに信仰に導かれた人が行なう、信仰の経験談(救われた証)は、主に栄光を帰するためのものです。もちろん、耳を傾けている方に語っていますから、言葉を選び聞きやすい方がよいでしょう。その上、その経験談を聞いて、「自分も救いにあずかりたい」と思うかも知れませんが、それも聖霊様の働きによるものであります。とにかく、洗礼時の信仰告白は、言葉を飾る必要はありません。単純に、素直な気持ちで、「私はイエス・キリストを主であり神であると信じ、聖霊様を受け入れ、聖霊様を信頼し、全てを明け渡します。これからは聖書を中心として、御言葉に耳を傾けます。感謝いたします」と決意宣言をするだけでよいのです。その決意表明で、他の人がすくわれるかは、また別の問題なのです。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」これは、その人が主なるイエス・キリストの証人となった瞬間なのであります。

さて、ここまで話をしていまして、皆さまといっしょにこの話をきいてくださっています、天国長屋の八さんと熊さんと目があいました。ここで彼らにバトンタッチしてみたいと思います。少し私は休憩することにいたします。では、八さん、熊さん、よろしく。

八: おいおい、熊さん、えらいところで、牧師さん、話をふってきたよ。

熊: 目が合うのも、困ったものだね。頼るんだったら、俺たちじゃなくって、神様に頼れってんだよな。

八: でもさ、あの牧師さん、偉そうに言ってたけど、救いの確信は約30年間なかったそうだぜ。

熊: それって、今月出た、「福音の光」6月号に載ってた記事だろ。たしか、コリント人への第二の手紙8章9節「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」という御言葉がきっかけだったんだよな。

八: 洗礼の時には、救いの確信が得られなかったそうだ。俺なんか、洗礼を受けた時には確信はあったね。「あぁ、これで天国行けるんだって」俺は単純だからよ。「イエス様を信じた時に、聖霊様が心にお入りくださったんだから、もうこれで救われた」と思ったね。

熊: 八は単純だったんだな。今も変わらず単純だけどよ。俺はイエス様を信じたのは、ちょっと違うな。

八: どういう風に違うのさ。教えろよ。

熊: まあ、今となっては、時効だから、いいやな。俺はよ、中学の時に好きな子がいたんだ。その子が教会通っていることが分かった。

八: それで、教会行ったのかい。お前の愛は、恐ろしく向こう見ずだな。

熊: そんな勇気はなかったね。教会って敷居が高ぇからな。それに中で何やってるか分かんねぇし。入ったら出られねぇんじゃねぇかって。お化け屋敷みたいなもんだ。でもよ、ある日、その子が、「楽しい集会があるから来ない?」って誘ってくれたんだ。

八: ほー、熊が誘われたのかい、よっ、色男!

熊: 茶化すんじゃねぇよ。そんなんじゃ、ねぇ。まあ、その子に誘われたのも嬉しかったんだけど、教会っていう、ちょっと怖いもの見たさもあってよ。お化け屋敷じゃねぇけどな。その集会に出かけたんだ。

八: それで、どんな集会だった。

熊: 音楽集会だったね。それに、その教会の牧師先生のメッセージもあった。

八: メッセージは覚えてんのかい。

熊: いいや、まったく。あの子の笑顔しか覚えてねぇな。

八: それで、熊は、付き合ったのかいその子と。

熊: いいや、その子は夏の間に親の転勤で転校しちゃったよ。

八: で、教会はどうしたんだ。

熊: まあ、なんとなくなんだけど、楽しそうだったから、行ったり行かなかったり。

八: どういうこったい、行ったり行かなかったりって?

熊: 俺、テニスクラブに入ってたから、日曜日、試合があったりすると行けねぇんだ。いちおう、テニスの王子さまだったからね。

八: なにが、テニスの王子様だ。テニスラケットのような顔してよ。それで、結局どう洗礼と結びつくんだい。

熊: いや、こんときは結びつかねぇ。高校入ったらクラブで忙しくて、教会どころじゃなくなった。でもよ、牧師先生にはよくイエス様のことを教えてもらった。罪とか十字架とか贖いとか復活とか和解とか救いとか。教会の礼拝に出られない分、個人的に教えてもらってたんだ。まあ、行くとおやつやご馳走がでるから、半分はそれ目的でもあったけどな。

八: 熊さん、意外と動機が不純だね。

熊: 動機は不純でもいいのさ。信仰は結果オーライだと俺は思ってんだ。

八: それで、洗礼はいつだったんだい。

熊: 働くようになってからだったね。ふと、イエス様の話しが聞きたくなってよ。ちょいと教会のぞいたのが運のつきだな。なんかつき動かされるように、洗礼を受けちまった。

八: それで、救いの確信は、あったのかい、その時。

熊: あったような、なかったような。確かに「私はこれから、ずっとイエス様とひとつ心です」って宣言したんだけどな。

八: イエス様とひとつ心か、まるで一心太助だね。

熊: まあ、そんなところだ。だけど、救いの確信って言われるとちょいと不安になるな。でも、ヨハネの10章の27節から30節のところで、イエス様のお言葉、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。」それとか「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」また「わたしは父とは一つです」というところで、「俺はイエス様に愛されて、イエス様の羊になったんだ」「イエス様と俺とはひとつ心だ」「永遠のいのちをいただいた」そして「イエス様と父なる神様が一つなら、俺も神様と一つになりてぇ」と思ったんだ。そうすると、救いの確信かどうかはわからねぇけどよ、イエス様がいつも守って下さってるっていう安心感に包まれたんだ。

八: それって、洗礼の時かい。

熊: いや、後になってからだね。

八: そうか、救いの確信が得られるのは、人それぞれなのかも知らねぇな。

熊: でも、確実に言えることは、救いの確信は洗礼を受けた時かその後だ。だから、洗礼を受けるっていうことはとても大事なんだ、救いの確信を受けるためにもな。

八: そうか、だから、今日のメッセージのタイトルは、「口で告白する幸い」だったんだ。

熊: お、なんか、つながったねぇ。ということで、バトンを牧師さんにお渡ししよう。

八さん、熊さん、よく私の代わりに、メッセージをつないでくれてありがとうね。実は、洗礼を受けるということは、救いの確信をその後いつか得られるという幸いが待っているだけではありません。神様の祝福がこの洗礼の後から押しよせて来るのです。洗礼によって神様からの祝福と恵みを受けるものとされたということなのです。そのことを、イエス様はこのようにおっしゃっておられます。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)「安らかに出入りする」とは、神に祝福された平穏な日常生活を意味するヘブライ的表現だそうです。詩篇121篇8節にも使われています。「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」洗礼を受け、神のものとなった私たちは、神に守られ、平安の内に私たちをとどめておいてくださるということなのです。

もちろん、洗礼の前に、心でイエス・キリストを信じ、受け入れるという過程がありますが、その信仰を口で告白する幸いをかみしめて、私たちは歩ませていただきましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「口で告白する幸い」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。最後に、ヨハネの福音書10章11節のイエス様のお言葉をお読みいたします。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

(3分間黙想)You Are My Dwelling Place

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「口で告白する幸い」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。洗礼を通し、救いの確信を得、主からの祝福と恵みを受けるものとさせてくださり感謝いたします。私たちが常に主に守られていることを覚えつつ、何事にも恐れずに歩むことが出来ますよう、主に依り頼むものとしてください。このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌127「墓の中に」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

You Are My Dwelling Place

You are my dwelling place

My tower of strength

And that Your throne of praise

I humbly bow

My affections I pour out

My eyes released their tears

And I behold the beauty of You Lord.

How I long to see Your face

Yes I long to see Your face

You are my dwelling place

With You my heart will stay

今月のワーシップソング「求めて」

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。