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メッセージ主題:『キリストを着る』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年6月23日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌254「心にあるこの安きを」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文14:詩篇 第37篇:新聖歌p.890

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌113「君もそこにいたのか」

聖書拝読:ローマ人への手紙13章14節(新改訳聖書)

中心聖句:

「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(14)

メッセージ主題:『キリストを着る』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『霊的な礼拝』と題しまして、お話をさせていただきました。

ローマ書第12章では、パウロは、キリストを信じ義とされたゆえに、私たちにはすべきこと、すべきでないことが課せられていると訴えます。例えば、世にならってはいけない(2)、自身過剰になってはいけない(3)、神からの賜物を用いなさい(4-8)、いろいろな道で愛を表しなさい(9-13)、報復・復讐をしてはいけない(14-21)などでございます。しかし、それらは、すべて霊的な礼拝を主にささげることに集約されます。先週は、礼拝の姿勢について学ばせていただきました。

今朝は、『キリストを着る』と題しまして、お話をさせていただきます。

ローマ書第13章も、イエス・キリストを信じ、義とされた人の義務について書かれています。国家に対して従うこと、隣人を自分自身のように愛することが唱えられています。そして、その締めくくりとして、「主イエス・キリストを着なさい」とパウロは説きます。今朝は、この「主イエス・キリストを着る」ということはどういうことなのか、共に学ばせていただきましょう。

「主イエス・キリストを着なさい」とは、象徴的表現であります。イエス・キリストと霊的に結合し、それゆえに、古い自我は死に、新しい存在となるということです。なにか分かったような分からない説明ですから、もう少し具体的に見てみましょう。この「主イエス・キリストを着なさい」という表現には、二つの要素が含まれています。一つは、イエス・キリストの名による洗礼を受けることによって、聖霊が降り、キリストと一体とされ、その縦軸のキリストとの一体感が、横軸の信徒同士の一体感へと広がって行くということであります。もう一つは、キリストと一体とされることによって、キリストに倣う者となる、つまり、イエス様がこの地上でお示し下さった愛の業を私たちも継承し、経験し、他の方々に実践することができるということです。それらのことをひとつひとつ、見ていきましょう。

まず、一番大切な、「キリストと一体となる」ということですが、イエス様は次のようにおっしゃいます、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)「中にとどまる」ということがイエス・キリストと一体となることであります。このキリストとの一体感は、キリスト教の根幹をなします。キリストから離れてしまえば、すべてのことが無となるのです。神は愛です。ゆえにキリストも愛です。「愛がなければ、どんな良い行ないも虚しい」とパウロは主張します。(1コリント13:2)

この縦軸の「キリストとの一体」がなければ、何をしても虚しいのです。たとえ、信徒同時の横のつながりができたとしても、個人個人のキリストとの一体がなされていなければ、私たち、キリストを信じる者が一つになることはできないのです。また、信徒が一つになるためには、ひとりひとりがキリストだけを見あげ、キリストとの深い霊的な交わりを維持しなければいけないのです。パウロはそのことをガラテヤ書でも語っています。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」私たちは、「キリストとの一体」その基本あっての信徒同士の交わり、相互理解であることを覚えなくてはなりません。

私は、朝祷会、正式には朝食祈祷会に、毎週顔を出します。この集まりは、超教派の集まりで、カトリック、プロテスタントの垣根も越えた集会です。それぞれ、考え方が違うところはありますが、何がいいかと申しますと、イエス・キリストにあって、祈る時には心一つとなれるということです。カトリックの方は、プロテスタントの方と違って、自由な自分の言葉ではお祈りをされることはほぼほぼございません。しかし、カトリックの方も、プロテスタントの方の祈りから学び、いっしょに心を合わせて祈ってくださるのです。もちろん、人間の集まりですから、いろんなことはあります。しかし、祈る時には一致するのです。「祈る」時には、聖霊様が働いてくださって、キリストと深い交わりの中に導いてくださいます。つまり、「キリストとの一体」が祈りの場によってなされるのです。ですから、逆に、祈りによって、キリストと一体化されるともいえるでしょう、また同時に、信徒同士の霊的一体化が実現するのでございます。

さて、もう一つの「キリストとの一体」によって、「キリストに倣う者になれる」ということを考えてみましょう。パウロはエペソ書で次のように述べています。「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造りだされた、新しい人を身に着るべきことでした。」(4:21-24)まず心がイエス・キリストによって一新され、これが態度や言動に反映されていきます。その具体的な言動については、パウロはその後に諸注意を付け加えています。要するに、「イエス様だったら、どうするか」行動する前に考える癖をつけることが、「キリストに倣う」ということが実現できるでしょう。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」とパウロがアドバイスするように、これこそが、キリストに倣うことなのかもしれません。

私は、昔、一生懸命「キリストを着よう」としていたことがありました。しかし、キリストを上から着ようとしていても、まず自分の上着を脱いでいませんでしたから、キリストをなかなか着ることはできませんでした。先ほどの、コロサイ書にもありましたように、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべき」であることを忘れてしまっていたのです。古い自分を脱ぎ去ることは、並大抵のことではありませんが、聖霊様によって、薄皮を一枚一枚はがしていくように、新しくされていくのです。私は、そのことがなかなか分かっていませんでした。なにせ、当時、自分では教会生活、信徒としてよくやってると思っていましたから。それは、内容は違いますが、あたかも、裕福な青年将校の同じでした。自分では、「まあまあよくやってるんじゃない、オレ」とある意味、自分を褒めてしまっていたのです。これでは、新しくされるわけはございません。しかし、そのことに気づかされたことは、感謝でございました。パウロは、今朝の御言葉で「主イエス・キリストを着なさい」と言ってから、続けて、「肉の欲のために心を用いてはいけません」と告げます。自己満足も肉の欲でしかありません。パウロは「主イエス・キリストと一体となりなさい」と説くのでございます。

さて、そろそろ天国長屋の八さんと熊さんを呼んでみましょう。八さんと熊さん、そちらにマイクをお渡しいたします。あなた達は「キリストを着る」ってどんなイメージをもっていますか。

八: 牧師さん、どうどうと質問して来たよ、俺たちに。困ったお人だね。、、、そうだなぁ、、、俺は、「キリストを着る」って聞いた時、キリストを着たら、俺たちの罪が神様から見えなくなるんじゃねぇかと思ってたよ。だって、キリストは義のお方だ。そうすると、キリストを頭っからかぶれば、俺たちも義になって、神様からは罪のない者として扱われるんじゃあないかと。

熊: 八、お前うまいこと考えたな。キリストをかぶれば、神様からは罪が見えなくなる。なるほどねぇ。

八: いや、これは、全くの俺のオリジナルの考えじゃあねぇんだ。熊さん、昔話で、隠れ蓑の話、知ってるかい。

熊: ああ、「天狗の隠れ蓑」のことだろ。天狗をだまして、天狗の隠れ蓑をいただいちまうっていう話だったな、たしか。

八: その隠れ蓑をかぶれば、体は見えなくなるって。おれは、キリストを着るっていうことに、そんなイメージをもってるな。キリストを着たら、罪がみんな隠れちまうんだ。いいだろ。熊さんの方は、どうなんだい。

熊: 俺かぁ、、、俺は、イエス・キリストを信じるということが「キリストを着る」っていうことじゃねぇかと単純に思っていたな。ちょっと考えが足りなかったかもしれねぇな。けどよ。横丁のご隠居さんは、こんな風にも言ってた。『神様もイエス様も愛だ。だから、「キリストを着る」っていうことは、「愛を着ける」っていうことにもなる。パウロさんも言ってるだろう、「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」(コロサイ3:14)って。』

八: なるほどね、「キリストを着る」っていうのは、「イエス・キリストを信じて、すべての言葉や行ないに愛を着ける」っていうことなのかもしれねぇな。これの方が、さっきの牧師さんの説明より分かりやすいかも知れねぇな。

牧師: 八さん、熊さん、聞こえてるよ。悪かったね、難しくしてしまって。

八: ありゃりゃ、牧師さんに聞こえたか。あ~ぁ、すねちゃったかもな。

熊: 八、余計なこと言うんじゃねぇよ。牧師さんだって、人間だから、プライドもある。言葉に気をつけないとな。

八: あいよ。牧師さん、悪かったね。悪気はないんだよ。ところで、熊さん「キリストを着る」と聞いて、イメージ、他にないかい。

熊: そうさなぁ、、、、「キリストを着る」という表現には、「イエス様を味方につける」という励ましや力強さを感じるときもあるかも。

八: なるほどね。服の抗菌仕様みないな。菌を寄せつけない。つまり誘惑もはねのけちゃう、そんな感じかな。

熊: 八、いつになく、今日はさえてるじゃねぇか。「キリストを着る」抗菌仕様。悪魔の誘惑シャットダウン。いいねぇ。

八: たしかにイエス様、おっしゃったよな。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)って。

熊: 御言葉はいのちだ。それに平和だ。「キリストを着る」っていうのは、いのちである御言葉を思い出させてくださり、心にいつも天の平安をいただける。

八: さっき、牧師さんが言ってたよな。「キリストを着る」とは、「キリストと一体である」ということだって。

熊: いま思いついたんだけど、「キリストを着る」というのは「キリストを身にまとう」のと同じだとすると、イザヤ書なんかにでてくる「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり」(59:17)という戦いや抵抗の時の表現なんかも「キリストを着る」という表現なのかもしれねぇな。

八: けど、「キリストを着る」というイメージは、戦いや抵抗のイメージじゃぁ、ねぇんだけどな、俺ん中では。どちらかというと、パウロが言ってたような感じ、「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」(1テサロニケ5:8)の方がいいんだけどな。

熊: そうさな。そのイメージの方がいいかもしれないなぁ。でも、俺は、どっちもあり、だと思うんだ。

八: さあ、そろそろ、牧師さんにこのマイクをお返ししよう。出尽くした感もあるしな。こんなもんでどうでしょう。講壇にマイクをお返ししますよ。

いやぁ、八さん、熊さん、ありがとう。さっきのことだったら、気にしてないから大丈夫だよ。私だけだったら、メッセージが分かりにくくて堅くなっちゃうから。、、、いろいろなイメージがでて、だいぶ膨らんだんじゃあないかな。感謝です。

さて、皆さまはいかがでしょうか。今、「キリストを着ている」という実感はございますでしょうか。キリストが内にいて働いて下さっている。キリストと一体となっている。キリストによって守られ、導かれている。そんな実感が、私は大切だと思っております。もし、なければ、求めてください。イエス様を感じてみてください。内なる聖霊様の平安を体験してみてください。神様もイエス様も聖霊様も目には見えません。しかし、ありがたいことに、感じることができるのでございます。御言葉を味わいつつ、主を感じてみてください。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「キリストを着る」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。「キリストを着る」ことによって、私たちは主と一体となり、キリストを頭とし、私たちがキリストのからだとして、一つとなりうるように、願い求めていきましょう。

最後に、ヨハネの福音書17章23節のイエス様のお言葉をお読みいたします。「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

(3分間黙想)Sing Hallelujah to the Lord

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「キリストを着る」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちは、すでにキリストを着ていますが、それぞれにおいて、そのことを実感させてください。

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌165「栄光イエスにあれ」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Sing Hallelujah to the Lord

Sing Hallelujah to the Lord (x2)

Sing Hallelujah, Sing Hallelujah

Sing Hallelujah to the Lord

Sing Christ is risen from the dead (x2)

Sing Christ is risen, Sing Christ is risen

Sing Christ is risen from the dead

Sing Hallelujah to the Lord (x2)

Sing Hallelujah, Sing Hallelujah

Sing Hallelujah to the Lord

今月のワーシップソング「求めて」

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。