· 

メッセージ主題:『主のものとして』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『ローマ人への手紙』

2019時年6月30日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌263「罪咎を赦され、神の子とせられ」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文15:詩篇 第40篇:新聖歌p.890-891

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌397「神の御子にますイエス」

聖書拝読:ローマ人への手紙14章5-9節(新改訳聖書)

中心聖句:

「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(8)

メッセージ主題:『主のものとして』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『キリストを着る』と題しまして、お話をさせていただきました。

ローマ書第13章は、イエス・キリストを信じ、義とされた人の義務について書かれています。国家に対して従うこと、隣人を自分自身のように愛することが唱えられています。そして、その締めくくりとして、「主イエス・キリストを着なさい」とパウロは説きます。先週は、この「主イエス・キリストを着る」ということはどういうことなのか、「キリストを着る」というイメージを膨らませて、学ばせていただきました。

今朝は、『主のものとして』と題しまして、お話をさせていただきます。

ローマ書第14章は、主に、食生活のことについて書かれています。律法が規定している、清い食べ物や汚れた食べ物のことで、信仰において、その食物規制をどう扱うかという議論がローマのクリスチャンの間で起こっていました。パウロは、信仰において、食べても食べなくてもよいと主張しました。ただし、「信仰からでていないことは、みな罪」であるとし、律法よりも信仰が優先されるという大事なことを説きました。今朝は、その議論の中において、「死ぬも生きるも主のため、なぜなら私たちは主のものである」ということを考えてさせていただきます。

短くお祈りいたしましょう。(祈り)

律法は、当時のユダヤ人の思考と行動をがんじがらめにしました。律法を守れば、義人となり救われると思い込んでしまったのです。もともとは、主はモーセに十戒を与え、主の民を導こうとしました。そして、その十戒も、律法の二つの柱、「主なる神を誠心誠意愛すること」「周りの人々を、自分のことのように愛すること」に集約できるものでした。しかし、人間は、人間の知恵によって、律法に細則をつけ、自らの心をかたくなにしていったのです。心はがんじがらめにされ、柔軟さを失い、それだけではなく、主への思いも表面的なものにしてしまいました。「律法さえ守っていればいい」という考え方は、結局、人間の都合よく律法を変えてしまう罪まで犯してしまったのです。そして、より悪いことには、それを罪だとは考えないぐらいに、自分を正当化し、心は石のように固くなっていったのです。「律法さえ守っていればいい」、これは恐ろしい考えであり、私たちを主なる神から引き離してしまう、傲慢でもあります。そして、この「律法さえ守っていればいい」という考え方は、その律法が重荷となっていることすら、無感覚になってしまう、生きて働いていてくださっている神の存在を感じられなくさせるのです。

その現状を憂えて、イエス様は、おっしゃいました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)まず、イエス様は、律法はあなたの重荷となっているのですよと無感覚となっていた心の眼を開かせてくださいます。そして、イエス様には魂の安らぎ・救いがあることを伝えます。また、イエス様の教えは、律法学者のように高飛車に言うのではなく、難解でもありません。弟子として学ぶのですが、イエス様の教えは単純で分かりやすいものです。イエス様はそのように訴えながら手を差し伸べてくださいます。

ユダヤ人の律法のなかで、どうしても譲れないもの、頑なに守ろうとするものが二つあります。それは、割礼と食物規制であります。西暦49年に行なわれたエルサレム会議では、ユダヤ人であってもなくても、クリスチャン全員に割礼を受けさせるべきか否かで紛糾します。結局ペテロが割礼を不問にふすことを主張し、しかし、まだまだくすぶり続けている様子をみて、ヤコブが折衷案として、食物規制は残すことを提案し、その場をおさめます。(使徒15章)ですから、エルサレム会議以降は、ユダヤ人と異邦人の間では、律法としての食物規制が問題視されていきます。そして、西暦70年のエルサレム滅亡で、ユダヤ律法による食物規制は、事実上、有名無実化してしまいます。ローマ人への手紙は、56年頃にコリントの地に滞在途中に書かれていますので、まだ食物規制が、クリスチャン同士が裁き合ってしまう材料となっていました。ですから、パウロは、その状況を憂えて、「食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」と、食べても食べなくても、信仰によってそのようにし、神に感謝しなさいと諭すのでございます。

そして、パウロは、信仰によって、感謝することを、食物規制の枠をこえ、生きること自体に求めています。それが、今朝の中心聖句です。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(8)

パウロが、言うところの「主のために生きる」とは、生きて証しをし、主の栄光が現わされることを意味しています。つまり、主を信じ、信頼して、喜び、感謝して活き活きと生きることです。では、「主のために死ぬ」とはどういうことでしょうか。パウロは殉教のことを言っているのではありません。主の証人として、主を賛美しつつ、生を全うすることを述べています。もちろん、死んだ後は永遠にキリストと共にいることになりますから、それはそれで一番素晴らしいことなのであります。しかし、パウロはここで死後の平安を強調しているのではありません。ですから、どちらも、主にあって活き活きと生き、すべてに感謝しつつ死ぬまで生きることをパウロは主張しています。なぜなら、「私たちは主のもの」であるからです。「主のもの」とは、主が所有しているという意味でもあるでしょうが、主が造られたものであり、主が守って下さっているという意味でもあるでしょう。主は愛の方でありますから、つまり、「主のもの」とは、「主に愛されているもの」でもあります。主に愛されているから、主に感謝し、主を賛美しつつ、毎日を喜んで生き、主に愛されているから、死ぬまで生きて、主を証しするのであります。

パウロは、同じようなことをピリピ人への手紙にもしたためています。「私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(1:20-21)パウロにとって、キリストは生きがいであり、死ねば永遠にキリストと共にいることができるという確信が与えられていたのです。パウロは次のようにも続けています。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」(1:23b-24)パウロにとっては、死ぬことの方が、キリストと共にいることができるのですから、その方が望ましい。しかし、パウロは自分が主のものであることを認識し、主のために、しばし生きて福音のために働くことを覚悟しているのです。

では、私たちはいかがでしょうか。私たちは、私たちが主のものであるという認識をきちんとできて、日々の生活をいとなんでいるでしょうか。また、「私は主のものです」と言った場合、どのようなイメージをお持ちでしょうか。そこの天国長屋の八さん、熊さんはいかがですか。

熊: おいでなすったね、来ると思ってましたよ。八っあん、なんか言っておあげぇな。

八: え?熊さん、なんですぐにおれにふるんだよ。熊さん、先に言ったらいいじゃねぇか。

熊: 仕方がねぇな。まあ、牧師さん、言ってたよな。「主のもの」とは「主に愛されているもの」だって。俺は、これを聞いた時に、嬉しくなっちまったねぇ。イエス様が本気で俺を愛してくださっている、大切に想って下さっていると思うとさ。え、イエス様のためだったら、何でもしてやろうって思っちまうじゃぁねぇか。八っあんは、どうだい。

八: 俺かぁ、俺は、やっぱり、主が俺を造ってくださったから、俺は主のものだと思うんだよ。俺たちゃ、生かされてるんだ、「おぎゃぁ」と生まれて、息をひきとるまで、神様が責任をもってお付き合いくださってんだよ、育ててくださってんだ。人間の親は、順番で先にあっちに行っちゃうけどよ、神様は永遠のお方だから、親以上のお方なんだ。

熊: 親以上に俺たちを愛してくださっているお方だよな。俺は、その神様の愛に、なんとかむくいたいと思うよ。

八: 神様が報いてほしいと思っているかどうかは別にしてよ、俺たちゃ、神様を誠心誠意、愛したらいいんじゃねぇのか。

熊: まあ、そうなんだけどよ。誠心誠意、愛するっていうのは、並大抵のこっちゃねぇぞ。自分たちの命をかける、命を預けるっていうことだからな。

八: イエス様は、おっしゃったじゃねぇか。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)これがイエス様を愛する極意じゃねぇか。

熊: つまり、なにかい。イエス様の声を聞いて、イエス様を信頼して、イエス様について行く。ってことなんだな。でも、「イエス様の声を聞く」っていうことはどういうことなんだい。

八: 実際に声をきくことはないかもしれねぇけどよ、聖書の御言葉から、イエス様の声を感じることはできるかも知れねぇな。それに、詩篇なんかにゃ、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(46:10口語訳)とあるから、日常の思い煩いから離れ、主と向き合いなさい、そういう時間を持ちなさいともおっしゃるんだろうな。

熊: それに、俺たちゃ、「聞き分ける」必要があるんだよ。これが、本当にイエス様の声かどうかって。自己満足や自分本位の思いも混ざって来るから。でも、どうしたら聞き分けられるんだ?

八: 横丁のご隠居がこんなふうに言ってたな。「毎日、聖書を読み、イエス様と会話するんだ」って。そうする中で、自然と聞き分けられるんだとよ。神様を親しむんだって。

熊: そうか、やっぱ、それしかねぇのか。

八: 愛おしいと思う人の話には、耳を貸すだろう。親しくしたいと思うじゃねぇか。それと同じさ。

熊: 結局、「主のもの」って言ったら、主に愛され、主を愛するものたちのことなんだろうなぁ。

牧師さん、俺たちが思っている「主のもの」っていうのはこんな感じだ。これで、いいかい?

八さん、熊さんありがとうね。お二人の会話を聞いていて、ふと詩篇の100篇が気になりました。短いですからお読みいたします。

「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は世々に至る。」

私たち個人個人が主のものであると同時に、私たち全員が主のものであり、「主に仕える」とは、私たちが心ひとつとなって主に礼拝をささげることであります。この詩篇100篇は、祝祭日の行列の賛歌であるそうですが、礼拝の状況が描かれているとも言えます。「主のもの」のイメージは、個人的でもありますが、クリスチャン全体を表わすものとして、主のからだ、教会を対象としているとも言えるでしょう。ここで、私たちは、「主のもの」のイメージに、共に賛美し、共に祈り、共に礼拝する教会のイメージを付け加える必要があると思うのです。

主のものとして、個人的に神様と親密な関係を築くと同時に、教会として礼拝をささげ、その両方から主を喜び、主にあって活き活きと生き、主からいただいた人生をキリストの証人として全うする。主に愛され、主を心から愛する個人であり、と同時に、教会でありたいと願わさるのであります。パウロはコリント教会に次のように唱えます、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(1コリント6:20)

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「主のものとして」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。「主のものとして」の個人であり教会であることを喜びとしましょう。

黙想の前に、マタイの福音書20章28節のイエス様のお言葉をお読みいたします。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

(3分間黙想)As We Gather / The Steadfast Love of The Lord never ceases

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「主のものとして」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。個人として、そして教会として、私たちは主のものである、主に愛され、主を愛するものであるという認識を改めさせていただき、感謝いたします。

このお祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌316「御言葉なる」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

As We Gather / The Steadfast Love of The Lord never ceases

 

As we gather may Your Spirit work within us

As we gather may we glorify Your name

Knowing well that as our hearts begin to worship

We'll be blessed because we came

We'll be blessed because we came

 

 

Chorus:

The steadfast love of the Lord never ceases,

His mercies never come to an end,

They are new every morning, new every morning

Great is Thy faithfulness (Oh Lord)

Great is Thy faithfulness

 

 

You have called us by Your Spirit into worship

In this temple You have set our hearts aflame

As we lay our hearts upon Your holy altar

We'll be blessed in Jesus' name

 

 

Let us cleanse our hearts as we begin to worship

Let us fill our hearts with love for You and sing

Open up our eyes so we may come to know You

And unto us the Spirit bring

今月のワーシップソング「求めて」

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。