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メッセージ主題:『教会は神の神殿』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年8月4日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌21「輝く日を仰ぐとき」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「主を仰ぎ見て」

交読: 交読文20:詩篇 第57篇:新聖歌p.894-895

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌342「神の子なるイエス」

聖書拝読:コリント人への手紙第一3章9~17節(新改訳聖書)

中心聖句:

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(16)

メッセージ主題:『教会は神の神殿』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『キリストの心』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント書第2章は、アテネでの伝道の反省をもとに、キリスト以外を知ることをせず、語ることをしないと、自らに言い聞かせているかのような告白に近い手紙文となっております。パウロはアテネで、ギリシヤ人に対して人間の知識によって伝道してしまいました。ですから、あまり成果があげられず、失意のどん底にあって、コリントを訪れました。そこで、宣教とは御霊と御力の現われであると悟ったのでございます。主の御心を知り、民を主に導くことができるのは、私たちにキリストの心があるからであると主張するのです。そのところから「キリストの心」を学ばせていただきました。

今朝は、『教会は神の神殿』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント書第3章では、2章で強調・導入された、「キリストの心」によって、教会として、神の神殿として「ひとつ」にならないといけないと、パウロは警告いたします。教会の中で、指導者たちとその取り巻きを中心にして、分派が起きてしまい、神の神殿が弱体化し壊れることのないようにと、パウロは説きます。この3章では、神の神殿を弱体化させる要因と神の神殿の基盤の再確認が行なわれています。今朝は、「神の神殿」ということをいっしょに考えさせていただきましょう。

短くお祈りいたします。(祈り)

パウロは、この「神殿」または「宮」という言葉を、個人と教会に対して用いています。

1コリント6章19節では、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだともって、神の栄光を現しなさい。」とありますように、「聖霊の宮」は、個人個人が聖霊の宿る宮であることを示しています。2章では、その聖霊様のことを「キリストの心」と表現していました。イエス様が十字架にかかり、私たちの罪をご自身の尊い命をもって贖われた、そのことを、パウロは「代価を払って買い取られた」と表現し、ゆえに、わたしたちは、ひとりひとり「主イエス・キリストのもの」であると説きます。ローマ書14章8~9節がそのことを明らかにしています。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」このように、パウロは、私たちひとりひとりが、主のものであり、主と一体化していないといけないことを強調し、それが信仰の基盤であると示唆しています。

そして、今朝の中心聖句にあります「神の神殿」では、信じる者の霊的集合体である教会を示しています。また教会のことを、パウロは、「神の畑」「神の建物」と表現しています。特に「建物」としてのイメージを膨らませて、その建物である教会をどのように建てるかが問題であると説き、建物の土台はイエス・キリストであり(3:11)、その土台の上に、何をもって建てるかは指導者によると述べています。そして、その神殿を建てた指導者の責任はとても大きいことを13節~15節で明らかにしています。13節の「その日は火とともに現われ」とは、キリストの再臨とその裁きを表しています。人間的な動機や思いで教会形成に携わった指導者(たち)の働きは、その火によって、燃え去り、その指導者だけではなく教会全体が救いにあずかることができないかも知れないと警告するのであります。もちろん、「救い」は、個人的であり、キリストと個人の信仰の結びつきによって成されるものですから、個人個人の信仰が試されるわけです。しかし、指導者が教会員をまちがった方向に導くなら、教会員の信仰も歪んだものとなりかねません。しかし、そのような教会が救われるのかどうかは、私たちが判断することではありません。裁きは主のものだからです。

キリストを土台にした信徒の集まりである教会には、いろいろな信徒、いろいろな指導者がいます。パウロは、その教会の多様性を否定しているわけでもありませんし、自分と考え方の違う人たちを排除しようとしているのではありません。教会の多様性を認めたうえで、教会がキリストのからだとして一つであることを強調し、「すべては、あなたがたのものです。」と述べています。「あなたがた」とは教会を意味していますので、「すべては、教会のものです」とパウロは述べているのです。救いは個人的なものですが、その救いに誰一人もれることなく、救いを共有することが大切であるとパウロは考えます。ですから、パウロは、「すべては、あなたがたのものです」「すべてのことはあなたがたのため(益)であり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。」(2コリント4:15)と説くのです。

私たちは、すべてのことは、神の栄光があらわれるようになるためであることを知っています。ですから、パウロの言うところの「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものである」(23)と言うことは、私たちは、神の神殿である教会に属し、その教会はキリストをかしらとし、つまり、教会はキリストに属し、キリストは神をかしらとし、キリストは神に属しているということになります。全てを益としてくださる神が、キリストを通して、教会において、一人も救いからもれることのないようにと、教会を導いてくださるのであります。

さて、ここで、八さん、熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、自分たちの教会のことをどう思いますか。

八: むずかしいっていうか、答えにくい質問だよなぁ。熊。

熊: 俺に、すぐにふるんじゃねぇよ。でも、教会にはいろんな人がいる。学者さんもいれば、社長さんもる。それに、俺たちのような、年がら年中、ふところの寒いのもいる。でも、そんなことは関係なくて、イエス様で一致し、いっしょに祈ることができるのは幸せだぁな。

八: 熊、なんか優等生的な答えじゃねぇか。おめぇ、いつから優等生になった?!

熊: 優等生じゃねぇよ。でも、俺のようなものを受け入れてくれる、教会っていうのはいいところだ、とつくづく思うんだよ。みんな、それぞれ意見や考え方も違うし、生活も違う。でもよ、祈りをしている時、礼拝で神様の話を聞いている時、愛餐会で食事をしている時、みんな変わんねぇよ。

八: たしかにおめぇの言うとおりだ。俺たちゃ、キリストをかしらとした、ひとつのからだでもあるし、仲間だ。牧師さんも、一歩講壇から降りたら、結局は、いっしょ。信仰の仲間さ。めしをいっしょに食べれば、仲良くもなるってもんよ。

熊: 俺は、今日、牧師さんの話を聞いていて、パウロのだんなの言葉が少し分かったような気がするんだ。

八: パウロのだんなのどの言葉だい。

熊: 1コリントの9章23節のことば。「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」

八: ああ、牧師さんがいつも、口語訳の方で言っている聖句だな。たしか、「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしと共に福音にあずかるためである。」

熊: そう、それ。俺はこの聖句が、福音伝道のために、パウロのだんなが言った言葉だと思っていたんだ。けどよ、今日の話をきいていて、「共に福音にあずかる」っていうところが、「俺たち全員が、救いからもれることのないように」とも、パウロのだんなが言っているような気がしてよ。

八: ということは何かい、「全てのことを福音のためにする」っていうことは、「信じていない人に対してだけじゃなくて、信じている人のためにもしているってことなんだ」。

熊: そう、パウロのだんなは、「全てが益となる」「神さまが全てを益としてくださる」って、疑いなく信じているから、言えた言葉なんじゃねぇかって。今日、そう思えたんだ。

八: なるほどねぇ。そう思えば、パウロのだんなの手紙はほとんどが教会宛てだから、教会員を叱咤激励していたんだよな。

熊: 今も昔も、教会の中でも、いや、教会の中だからこそ、つまづきが多いってことだ。

八: でも、俺たちの教会は、つまづくことがすくねぇから、感謝だ。だってよ、人が少ないから、スイスイ行けちゃう。

熊: なに、バカなこといってんだよ。ほら、見ろ。牧師さん、下向いて苦笑しているじゃねぇか。

八: 大丈夫だよ、だって、いつも言ってるじゃねぇか、「教会は家庭的なくつろげる場所であってほしい」って。今どきの家庭は、4人前後じゃねぇか。この教会も家庭的じゃん。

熊: 家庭的っていうのは、人数のことを言ってんじゃねぇんだよ、牧師さんは。家庭でも、いろんな苦労もあるし、いざこざもある。でもやっぱり家族だ。教会も主の家族だと言うこった。

八: みんながみんなを知っていて、祈り合っている。そんな教会にしてぇんだろうな、牧師さんは。あってますか、牧師さん。

熊さん、合ってますよ。教会が主の家族であり、祈り合えるものであればいいなと思っています。ところで、皆さん、祈りってなんですか。簡単に言えば、神さまとの会話です。どんなことでも正直にお話しできます。でも、どんなことでもお話しできるためには、聖霊様が必要なんです。イエス様の十字架の贖いによって、私たちは、罪赦され、神さまのことを「天のお父様、アバ、父よ」と呼べる関係にしていただきました。そして、イエス様が送ってくださった聖霊様の働きによって、私たちは、神さまと交信、親しく会話できるのです。神さまと親しく会話できる関係にある人たちの集まりが教会であり、個人個人の聖霊の宮が集まった神の神殿なのです。私たちは、個人個人は聖霊の宮であり、教会は神の神殿であることを常に覚えておかないといけません。聖霊の宮どうしが、つまずきあっていてはいけないのです。神の神殿でも、風通しをよくして、だれもが、スイスイとあいさつを交わし、祈り合い、お互いに足らないところを補って、助け合う、そういう教会、神の神殿でありたいと、私は願わされています。私たちは、イエス様につまずきませんでした。他のだれにつまずかされるのでしょうか。また、あなたがつまずきとなりえるのでしょうか。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「教会は神の神殿」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。聖霊の宮として、神の神殿として、つまずきになるようなものは、何なのか。そのつまずきの要因は自分の心の中にあるものです、ほかのひとにあるものではございません。今一度、ご自分の心を探ってみてください。主に探ってもらってみてください。

黙想の前に、マタイの福音書11章6節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

(3分間黙想)Holy Holy Holy

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「教会は神の神殿」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちは、聖霊の宮として、また神の神殿として、福音を共にあずかるものとしてください。私たちから、つまずきを取り除いてください。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌316「御言葉なる」

賛美: 今月のワーシップソング「主を仰ぎ見て」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Holy Holy Holy

Holy, holy, holy. Lord God Almighty!

Early in the morning our song shall rise to Thee;

Holy, holy, holy! Merciful and mighty!

God in three persons, blessed Trinity!

今月のワーシップソング「主を仰ぎ見て」♬

主を仰ぎ見て 力を得よ

主は我が力 我が盾

主を仰ぎ見て 光を得よ

主が全てを 成し遂げられる

私にせまるどんな山も

越える力 与えてください

私が恐れず ただ主を信じ

進むことができるように

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。