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メッセージ主題:『パン種』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年8月18日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌300「御恵み豊けき」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「主を仰ぎ見て」

交読: 交読文22:詩篇 第65篇:新聖歌p.896-897

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌111「生くる甲斐もなしと」

聖書拝読:コリント人への手紙第一5章6-8節(新改訳聖書)

中心聖句:

「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(7)

メッセージ主題:『パン種』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『すべての栄光を主に帰する』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント書第4章では、教会の高ぶりが描かれています。これは、教会が成長し、人数が多くなると、必ずといってもいいぐらい教会内で「高ぶり」が生じます。「高ぶり」は、神を恐れない思いあがりであり、ゆえに、主に栄光を帰さない、主に感謝をささげない心のことであります。先週は、私たちの陥りやすい「高ぶり」について考えさせていただきました。

今朝は、『パン種』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント書第5章でも、教会内での「高ぶり」「高慢」のことが語られています。とくに、教会内での不道徳な人々との交際をしないようにと説かれています。それだけ、当時のコリント教会では不道徳がはびこっていたのか、いいえ、そうではなくて、数名の不道徳者がいて、その人々が教会全体に影響をもたらしているとパウロは述べています。その不道徳者をパン種と比喩しているのです。また、私たちの内にも、「パン種」が潜んでいることも示唆しています。

今朝は、その「パン種」のことについて、主に導いていただきましょう。

短くお祈りいたします。(祈り)

一般的に「パン種」と言いますと、イースト菌で、パンの生地に少量混ぜ込み、そのままパンをねかせておきますと、パンは数倍にも膨れ上がって、それを焼きますと、ふかふかなパンができるわけです。私たちはそのパンを美味しいと思って、いただきます。逆にパン種の入っていないパンはほとんど見かけません。教会で聖餐式をされるときに、出されるのをみるだけではないでしょうか。パン種はパンの食感を良くしますが、長持ちはしません。ですから、旅をするときなどは、パン種の入っていないパンを持ち歩いたそうです。

パン種の記述が、聖書に初めてでてきますのは、創世記です。ある夕暮れ時、ソドムに住んでいる、アブラハムの甥っ子ロトのところにふたりの御使いが現われ、ロトは彼らをふしおがみ、家の中に招き入れ、接待をします。後にその二人はドムが滅ぼされる前にロトとその家族を救い出すために来たことが判明します。彼らに振る舞ったご馳走の中に、パン種を入れないパンがでてきます。19章3節です。「しかし、彼(ロト)がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」夕暮れ時ですから、もうロトたちは食事を済ませてしまっていたのでしょう。普通のパンを焼くには、パン種を入れて数時間ねかせないといけませんので、急いで客人に出すためには、パン種の入っていないパンを焼くしかなかったのです。パン生地自体は、明日の朝の食事のために用意してあったかもしれません。急いでいる時にはパン種をいれないパンで食事をするという習慣が定着していた、または、パン種をいれたパンを食べるのが、特別な時だったのかもしれません。創世記では、パン種のことはこの一箇所しか出て来ません。しかし、出エジプト記では、モーセの民たちが、エジプトを出る直前に、神様から指示される「過越」の準備に、パン種を入れないパンのことが出て来ます。「過越」は、「神のさばきを通り過ぎる、神によってその裁きを容赦してもらう」ことで、エジプトは裁かれ、モーセの民たちはその裁きを逃れ、それを機にエジプトを後にします。この時、神様は、パン種を入れないパンのことを口酸っぱく指示します。出エジプト記12章では「過越」のことが神様によって細かく指示されています。「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを小羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたは、この月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。」(12章5節~8節)と続きます。また、15節では、「あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」もうここまでくると、パン種の入っていないパンは、急いでいるときに食べるパンというよりも、パン種がイスラエルの神以外の宗教意識や宗教儀式を意味していることは明らかであります。そう考えますと、ロトの時の、あのパン種の入っていないパンというのも、ソドムという不道徳はびこる町とその風習から離別するためのものであるとも考えられます。創世記も出エジプト記も執筆者はモーセでありますから。どちらにしろ、モーセの時代の、この「過越」から、パン種の入っていないパンとは、聖別されるべきイスラエルの民のこと表わすようになりました。

そのような「過越のパン種の入っていないパン」の聖別されたイスラエルの純粋なる民という意識は、その後、今に至っても受け継がれています。しかし、イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」(マタイ16章6節)と、自らのイスラエルの民の中でもユダヤ教に従事している人たち、いわば同国人エリート集団、かれらの教えに気をつけなさいと言っています。信仰に悪影響を及ぼすものを「パン種」と呼んだのです。とくにイエス様の教えを中心とするキリスト教では、人種や民族に関係なく、キリスト信仰に悪影響のあるものを「パン種」と呼ぶようになりました。

パウロは、この5章のところで、パン種に二つの意味を持たせています。一つは、教会に対して悪影響を及ぼす、つまり一致の妨げ、不和の原因となる教会内の人のことです。もう一つは「古いパン種」とわざわざ「古い」とつけていることでもお分かりいただけますように「古い自分」「自らの信仰に悪影響を及ぼす、自らの悪習慣、不道徳」です。これら両方とも「取り除きなさい」と言っています。そして、それらを取り除いて、「純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか」とすすめています。祭りとは、7節にありますように「過越」の祭りのことですが、パウロは実際の過越の祭りを述べているのではありません。「ひとりひとりが、過越の小羊キリストの信仰に堅く立ち、教会一致で、主を礼拝しましょう」と言っているのであります。

同じ信仰者にもかかわらず教会の一致を妨げる人を排除してしまうのは、愛が足らないのではないかと、自問自答する方や教会に対してつまずきを覚える方もいらっしゃるでしょう。パウロは、そのことにも配慮しています。4節5節をごらんください。「あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」同じ信仰に立つ人を、結局、排除してしまわざるを得ない時、戸惑い、苦しみ、悲しみがございます。しかし、「主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡す」とありますように、「祈って、主の導きによって、その人を教会という信徒の集まりから出す」のであります。決して間違ってはいけないのは、彼自身はサタンではありません。パウロの言う「サタンに引き渡す」とは「教会から排除する」という意味です。「彼の肉が滅ぼされる」とは「肉体の死」を意味しているのではありません。「肉的な心の死」つまり「悔い改め」であります。彼が教会から追放となって悔い改め、たとえ教会に戻らなかったとしても、「彼の霊は主の日に救われる」のです。つまり、一度キリストを信じた者は、悔い改めれば救われるのであります。イエス様との個人的な信仰関係を修復または維持していれば、救いにはもれないという大原則であります。逆に言えば、教会員であっても、イエス様との個人的な信仰関係が失われていれば、救いにあずかれない可能性もあるということです。

では、救いは常にイエス様との個人的信仰関係にあるとすれば、なぜ、教会が必要なのかという疑問をいだく方もいらっしゃるでしょう。簡単に言えば、人間は弱いからです。信仰的にも励まし合いが必要なのです。イエス様は私たちを羊になぞらえます。羊は一匹では生きて行けません。狼などの敵に無抵抗で倒されてしまうからです。それだけ弱い存在です。ですから、羊が群れで飼われ、イエス様はその羊の群れの羊飼いなのです。迷子の羊が一匹いたとしたら、イエス様はそれを捜し出し、連れ戻すのであります。教会は、お互いの信仰を強めるため、祈り合い、励まし合って、共に主に礼拝をささげる喜びのためにあるのです。しかし、教会という集団になじむ人もいれば、馴染めない人もいらっしゃるのです。主はどちらもお救い下さるのです。

話を「パン種」に戻しますが、私たちは、まず、他の人のなかに「パン種」を見つけようとするのではなく、自分の中に潜む「パン種」に気づくようにしましょう。私たちは弱い。ですから、必ず自分の中に「パン種」があります。主は、モーセを通して、「七日間種を入れないパンを食べなければならない」とおっしゃいます。私たちは、今までに、パン種の入っているパンを食べすぎていて、私たちの心には「パン種」が巣作っています。それを取り去るには、七日間、一週間のうち七日間、つまり毎日、種を入れないパンを食べないといけないのです。では、種を入れないパンとは何でしょうか。「わたしはいのちのパン」(ヨハネ6章48節)とおっしゃるイエス様ご自身であり、イエス様の教え、御言葉であります。私たちは、毎日、イエス様の御言葉を食べ、新たにされ、自分のものにすることによって、私たちの心に巣作っているパン種を取り除いていただきましょう。

さて、もうそろそろ終わりますが、最後に天国長屋の八さん、何か言いたそうですね。どうぞ。

八: 「パン種」なんか悪いイメージがついちゃったなぁ。でもあのイースト菌や他のパン種を入れないパンは、あまり美味しくない。なんか、パン種がかわいそうでさ。そう思わねぇか、熊。

熊: でもよ、イエス様、パン種のこといいようにもつかってらしたな。

八: それって、天国の話のことか。

熊: 「天の御国は、パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」(マタイ13章33節)と天の御国をパン種にたとえてお話しになった。この譬のところでは、パンは、この世界だ。パン種は、イエス様は天の御国っておっしゃられるけど、ありゃ、イエス様ご自身じゃないか。イエス様ご自身がこの世に来てくださって、この世を変革してくださるんだ。そして御国を広げて下さる。救われる者が多くなる。

八: なるほどねぇ、じゃ、からし種の譬えと同じだな(13章31節)。あれも天の御国が拡大し、栄えていく。パン種にもいいイメージがあるんだ。

熊: イエス様の発想は自由なんだ。パン種を天の御国にたとえることもあれば、パリサイ人のような人間にたとえることもある。パリサイ人にたとえたのは、モーセから続いている律法にひっかけているのだろうね。本当の意味での、パン種の入らないパンのことを気づきなさいとおっしゃっているような気がするよ。

八: でも、弟子たちは大変だったかもな。パン種のことは、一方では良いように使われ、もう一方では悪いように使われる。混乱しちまうんじゃねぇかな。

熊: いや、イエス様のことだから、ちゃんと分かるまで、お話しくださっているのじゃないかな。

八: 牧師さん、ありがとうございます。こっちでこれで。

そうですか。ありがとうございます。確かにイエス様の発想は自由です。私たちのようにいろんなものに縛られていません。ですから、私たちはひとつ考えておかないといけないことがあります。今日のパウロの「パン種」には、私たちの心の中のパン種ともう一つ同じ信仰を持つ人が含まれていました。教会に悪影響を及ぼす人です。しかし、その人は本当に悪い人なのでしょうか。教会側から見ると悪い人というレッテルを張られがちです。でも、同じ信仰者なのです。私たちもその方も完ぺきではありません。しかし、イエス様は、その方もお救いになられる。その人はその人で、他の所で生かされるのです。イエス様はその人をお使いになるのです、尊いパン種として。残念ながら教会や群から離れる人、その人もイエス様にとっては尊い小羊です。私たちは、その人のためにも祈る必要があります。上から目線の祈りではなく、同じ小羊としての祈りです。真に難しいことです。イエス様は「汝の敵を愛せ」とおっしゃいました。イエス様のいうところの「敵」とは教会内のことです。イエス様の中では、「汝の隣人を愛せ」と「汝の敵を愛せ」とは同じことなのです。答えはすぐには見つかりません。しかし、まず、私たちは、このことを主にゆだね祈るべきであります。自分の中にパン種があるのに、どうして、あの人はパン種だと呼ぶことができるでしょうか。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「パン種」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。自分の心の中にあるパン種とそのパン種の巣を取り除いていただくよう、主に具体的に祈り、委ねてみましょう。

黙想の前に、ヨハネの福音書8章7節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

(3分間黙想)Baruch Haba B'Shem Adonai

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「パン種」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか、わたしたちの心にある見えない「パン種」をお示し下さい。また、その「パン種」が示されましたら、私たちから、そのパン種を取り除けるよう、私たちの頑なになっている心をくだいてください。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌378「罪の世人らに」

賛美: 今月のワーシップソング「主を仰ぎ見て」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Baruch Haba B'Shem Adonai

https://www.youtube.com/watch?v=uv6_iYoRKzI

今月のワーシップソング「主を仰ぎ見て」♬

主を仰ぎ見て 力を得よ

主は我が力 我が盾

主を仰ぎ見て 光を得よ

主が全てを 成し遂げられる

私にせまるどんな山も

越える力 与えてください

私が恐れず ただ主を信じ

進むことができるように

https://www.youtube.com/watch?v=TrYpqqFIYu0

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。