· 

メッセージ主題:『主にあって自然体』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年9月1日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌172「望みも消え行くまでに」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文24:詩篇 第67篇:新聖歌p.898-899

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌231「いさおなき われを」

聖書拝読:コリント人への手紙第一7章17-20節(新改訳聖書)

中心聖句:

「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。」(17)

メッセージ主題:『主にあって自然体』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『神の栄光を現わす』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント第6章では、教会内でのもめ事を教会外の人に判断をあおごうとするぐらい、教会の自浄作用が効かなくなってしまっている状態を表わしていて、パウロはそのことをとても憂(うれ)えています。キリスト者は、主イエス・キリストの御名と創造の神の御霊によって、すでに洗礼をうけ、聖なる者とされ、義と認められた者であると、パウロは訴えます。「キリストにあって聖なる者」とは、「主と交わった一つ霊の者」であり、「聖霊が内に住み給う聖霊の宮」であるのだから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさいと説いています。先週は、「聖霊の宮」として「神の栄光を現わす」ことについて、主から学ばせていただきました。

今朝は、『主にあって自然体』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント第7章では、信徒となった人々が、独身者、既婚者、割礼の有無、奴隷など、それぞれが神を知り、イエス・キリストを信じ、彼の名によってバプテスマをうけたのなら、できるだけ、その時のままの自分を受け入れ、とどまりなさいとアドバイスします。しかし、それも命令ではなく、容認であると(6節)としています。無理に変わる必要もなければ、無理にとどまる必要もありません。自然体であればよいのです。一番重要なことは、「あなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるため」であると説きます。今朝は、そのことを踏まえ、「主にあって自然体」ということをいっしょに考えてみたいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

まず、皆さんには、皆さんが、「神を知り、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた」時点での、ご自分の立場、ご自身の環境を顧みていただきたいと思います。神がなぜ、その時点で、皆さんを選び、召されたのか、イエス・キリストを信じる、神のタイミングがあったはずです。独身であった時、既に結婚していた時、学生であった時、社会人であった時。所得が不安定であった時、または低いところで安定していた時、その反対に高い所得を維持していた時。弱い時、強い時。みなそれぞれであったはずです。

もちろん、クリスチャンになって変わるべきこともあります。イエス・キリストを信じた時点で、生まれ変わるのです。肉的な生活から遠ざかるのです。使徒ヨハネは次のように説きます。「しかし、この方(イエス様)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の要求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)キリストを信じる人々を新生させる新しい創造のわざが示されています。この時点で、私たちは変わり続けて行きます。しかし、これは、内的なものの変化、つまり心の変化です。パウロは、告げます。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:5-6)今の私たちに心の内には、肉的な思いと霊的な思いが混在しています。私たちは、私たちの内に住み給う聖霊様によって、日々新しくされ、肉的な思いから遠ざかり、霊的な思いで充満されつつあるのです。また、聖書では、このことが強調され、また神の意志でもあります。

しかし、パウロがここで述べていることは、外的な変化のことです。「神に召されたままの状態で歩むべき」であると言っています。特にこの7章では、結婚のことについて多く語られています。神がアダムとエバという男女を造り、お互いがお互いを必要とするように導いています。しかし、だからと言って、無理に結婚する必要もないし、無理に独身でいる必要もないのです。パウロは周りの意見に左右されることなく、結婚したければ結婚すればいいし、独身でいたければ独身でいたらいいとアドバイスするのです。神がひとりひとりを召された時、すでに神の御計画があり、私たちはその神の御計画に従うべきだと、パウロは考えています。彼は、むしろ、私たちが「秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できる」(35節)ことこそが重要であるとしています。ここで勘違いをしてはいけないと思うのですが、「主に奉仕するために結婚する」とか「主に奉仕するために独身でいる」とか、「主に奉仕する」ことを盾に、結婚か独身かを決める必要はありません。「主に奉仕する」ことと、結婚・独身とは別次元の問題です。結婚したければすればいいし、独身のままでいたければそうすればいいのです。ただし、「主に奉仕する」ことを第一に考えないといけません。どちらも主は祝されるのです。

「主に奉仕する」とは、さまざまです。質的にも量的にも、それぞれに神様のご計画があります。しかし、それは、だれもが、神様と一対一で向き合い、神様とひとつとなって、はじめて、お互いに協力しあって「主に奉仕する」ことがかなうのです。ですから、先程、「主に奉仕する」ということと、結婚とか独身とかとは、次元が違うと申し上げたのです。

今朝はここで、「主にあって自然体」ということをもう少し考えて見たいと思います。これは、20節の「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」という御言葉に起因しています。結婚や独身の状態だけでなく、当時の奴隷や召し使いも、そのままでいなさいと言っています。つまり、「主に奉仕する」ことを中心にすれば、自分の置かれている状況の中で、主に仕え、周りの人に対して、主の証し人として堅く立つことが要求されているのではないでしょうか。わたしは、このことを「自然体」ということばをあえて使わせていただきました。「主に仕え、福音を伝える」ということは、24時間主の証人たれ、ということであると私は理解しています。そして、それを全うするためには、自分自身に正直になり、受け入れ、自然体で主の栄光を現わせる人であれということだと思うのです。自然体で主の栄光を現わす人とは、「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っている」(2テモテ2:8)人であり、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」(詩篇1:2)人であり、「常に主をほめ、さんびが口に絶えない」(詩篇4:1)人であり、そして私のいちばん大切にしている御言葉、「いつも喜び、常に賛美し、すべてのことに感謝する」(1テサロニケ5:16-18)人であります。もちろん、主に対して愚痴を言う時もあるかも知れません。悲しみの涙でむせぶ時があるかもしれません。それらをひっくるめて「主にあって自然体」であり、四六時証人でもあるのです。そして、この全てのことを成し遂げてくださるのは、聖霊様であることをつねに覚えておきましょう。

八: あれ、今日は出番はねぇのか。牧師さん、ちょっといいすか。

熊: 八、なんだよ。出番がなければ、ないでいいじゃねぇか。

八: おらぁ、ちょいと質問があるんだよ。おれもおめぇも独身だ。

熊: そうだよ。それがどうした。

八: パウロのだんなは、「できれば、ひとりもんは、ひとりもんでいた方がいいって」。おれは、やだね。できれば、嫁さんもほしいさ。

熊: パウロのだんなは、「ひとりもんでいるのもいい、嫁さんもらうのもいい」って言ってんだよ。おめぇの、はやとちりだ。

八: そうか、それならでぇじょうぶだな。

熊: 八、嫁さんもらうのはいいさ。でも、それで、パウロのだんなのいう、「秩序ある生活が送れるか」が問題なんだよ。

八: それなんだよな、「秩序ある生活」ってなんだ。

熊: イエス様の平安じゃねか、って俺は思うんだよ。ほら、イエス様がおっしゃってたよな。「わたしはこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては、患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

八: 「秩序」というのは、「平安」か。じゃあ、聖霊様がイエス様の平安だから、この世の中が無秩序で、イエス様はこの世に勝たれたんだから、イエス様は秩序の方だということになる。

熊: そうさ。イエス様の教えそのものが、秩序なんだよ。だから、「秩序ある生活」っていうのは、「イエス様の教えに従った生活」「イエス様を中心とした生活」ってことだ。

八: そうか。じゃあ、今俺がやっているのが「秩序ある生活」ってことにもなるな。だって、俺、いつも、「イエス様だったら、どうなさるか」って思いながら生活しているからな。

熊: そうさ、八いいこと言うじゃねぇか。「イエス様だったら、どうなさるか」っていつも考えながら生活をすれば、そりゃ、ぜったいに「秩序ある生活」になるんだ。

八: ということはよ、俺が嫁さんもらうときには、嫁さんもらって「イエス様中心の生活になるかどうか」が問題だっていうことか。

熊: まあ、初めはそううまくはいかねぇよ。だって、生まれも育ちも違う、それに男と女っていうこともあるしな、いろんな、波風が吹く、いや波風だけじゃなくて、大嵐がくるかもしれねぇな、けど、いつもイエス様の平安が、おめえと嫁さんにあれば、なんとかなるんじゃねぇか。そこが一番大事かも知れねぇな。

八: なるほどね。で、熊は、おめぇ、嫁さんもらわねぇのかよ。

熊: おれは、どうもいけねぇ。今の暮らしで十分だ。おれは、パウロのだんなといっしょでいいよ。もう、十分、恵みはいただいているしな。ひとりもんの方が楽だ。

八: そういう考えもあるわな。牧師さん、ごめんな。そろそろメッセージ終わろうとしているのに、横やり入れちゃって。

八さん、かまいませんよ。お二人の会話で、「秩序ある生活」というのが、「イエス様の教えに従った生活」「イエス様を中心とした生活」であると具体的になりましたからね。「イエス様を中心とする生活」でなければ、「ひたすら主に奉仕する」ことも無理です。人は分相応ということもありますから、それぞれが、主にあって自然体であれば、いいのではないでしょうか。イエス様の譬えでもあったではないですか。5タラントあずかった人も2タラントあずかった人も、それぞれ一生懸命、主に仕えていれば、同じ喜びが与えられるのです。(マタイ25章)主にあって自然体で、それぞれが、主の証人とさせていただきましょう。聖霊様の導きに、素直に従った生活を送らせていただきましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「主にあって自然体」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。どこを切っても金太郎飴のように、どこをきっても主にあって自然体であり、主の証人となることができますように。黙想の前に、使徒の働き1章8節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

(3分間黙想)Let The Weight Of Your Glory Fall

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「主にあって自然体」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちが、自然体で主を証しできる者とさせてください。キリストのかおりを放つ器として用いてください。そのためにも私たち一人一人が主に堅くつながり、主によって整えられますように。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌156「われは主にありて楽し」

賛美: 今月のワーシップソング「主を仰ぎ見て」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Let The Weight Of Your Glory Fall

https://www.youtube.com/watch?v=TZ5YlUzqHJU

今月のワーシップソング「求めて」♬

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

https://www.youtube.com/watch?v=PTNEi21khJk

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。