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メッセージ主題:『愛ある配慮』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年9月8日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌198「God Bless You」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文25:詩篇 第73篇:新聖歌p.899-900

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌143「いとも尊き」

聖書拝読:コリント人への手紙第一8章2-3節、9-12節(新改訳聖書)

中心聖句:

「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」(3)

メッセージ主題:『愛ある配慮』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『主にあって自然体』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント第7章では、信徒となった人々が、独身者、既婚者、割礼の有無、奴隷など、それぞれが神を知り、イエス・キリストを信じ、彼の名によってバプテスマをうけたのなら、できるだけ、その時のままの自分を受け入れ、とどまりなさいとアドバイスします。しかし、それも命令ではなく、容認であると(6節)としています。無理に変わる必要もなければ、無理にとどまる必要もありません。自然体であればよいのです。一番重要なことは、「あなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できること」であると説きます。先週は、そのことを踏まえ、「主にあって自然体」ということを一緒に考えました。

今朝は、『愛ある配慮』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント第8章では、信徒同士の配慮が説かれています。信仰があるから、偶像にささげた食物であっても、全く無関係で食べても大丈夫なのですが、そのことを教会の兄弟姉妹たちが見て、つまずきを覚えるなら、それは、「キリストに対して罪を犯している」とパウロは主張します。信仰的に弱い人のために、配慮が必要で、それこそが、神を愛し、人を愛することであるとパウロは説くのであります。今朝は、そのことを通して、本当に神を愛することを考えて見たいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

私たちには、神様から二つの戒めが渡されています。一つ目は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」二つ目は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37&39)です。この二つの戒めはとても大切なものなのですが、実は二つ目の戒めには、大きな落とし穴があります。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めの「あなた自身のように」が問題となる可能性があります。「あなた自身」つまり、人間である「あなた」が基準になるのです。あなたがもし「自分を愛せない」精神状態にあれば、他人を愛することは、到底出来ません。また、「自分」が基準となりますから、「信仰的に強いと思いこんでいる」自分を基準にすると、弱さを覚える人への配慮に欠けます。実際には、その配慮の仕方も分からないのです。

イエス様もこのことはご存じでした。ですから、イエス様は次のように補足されたのです。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)「イエス様が愛されたように」と、判断基準を抽象的で不安定な「自分」から、絶対的で具体的な「イエス様」に置いたのです。「もしイエス様だったら、どうされるか」ということを常に思うようにと指示されたのです。このことで、弱さをもつ人々への配慮も含まれるようになりました。

パウロは、「イエス様のように」とは言っていませんが、信仰的弱者への配慮を怠り、彼らをつまずかせるなら、「キリストに対して罪を犯している」のだと忠告します。なぜなら、イエス様はその信仰的弱者の人々のためにも死んでくださったからです。これは、きびしい言葉です。食物のことで罪を犯していると思ってもいなかった人に対して、その高ぶりを指摘し、キリストに対して罪を犯していると迫ったわけですから。

先程の第一の戒めである「神を誠心誠意、愛す」ということは、神様と人間の縦の関係を示し、第二の戒めである「隣人を愛す」は、信徒同士の横の関係を表します。しかし、この二つの戒めは各々独立している訳ではありません。縦と横の関係ではありますが、実は、神様と人間の縦の関係が、本当の意味で良好で、神様を誠心誠意愛することが出来ていれば、第二の戒めはおのずと成就するのです。

パウロはこのことを3節の言葉をもって、現わしています。「人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」「その人が神に知られている」とは、「神に対して罪を犯していない」ということであります。ですから、「神を愛している」と言いながら、信仰的弱者をつまずかせ、12節のように「キリストに対して罪を犯している」のであれば、その人は、本当には神を愛していない、「神を愛している」と言っている自分を愛しているにすぎないのです。

これは、実は、私の姿です。クリスチャンは、私を含めて、よく「愛の足らない者」と自己評価を下します。へりくだっているようにも聞こえます。この時の愛の対象は、隣人です。「隣人に対して愛の足らない者だ」と告げているのですが、そんなことは、不完全な人間なのですから当たり前のことなのです。ですからわざわざ言う必要はありません。私に限って言いますと、私がこの「愛の足らない者」と告げる時は、なにか収まりがいいからです。へりくだって言っている感じがするからです。自分でも呆れてしまいますが、愛がないことを言い訳しているのですが、この方がちょっとかっこよく聞こえるからです。「愛の足らない者」と言った瞬間に、赦されている気がするのです。まったく情けない。最近はそれがいやでいやで、仕方がなく、もうこの言葉を使っていません。その代わり、「神様と隣人を一生懸命愛します」と足りない自分を分かりつつ、シンプルに告げるようにしています。

話が少し横にずれましたが、「神様を一生懸命愛す」そのことで、第二の戒めである、隣人を愛す、隣人への配慮をすることが可能となるのです。その逆はありません。隣人を愛すから、神を愛すことにはならないのです。まず神を愛すことが、全てにおいて優先されます。「神を愛す」ことは必ずしも「神を礼拝する」ことではありません。「神を愛するがゆえに、神が愛する隣人を助ける、隣人に配慮する」のです。キリストは、私たちの救いのために死んでくださいましたが、私たちの隣人のためにも死んでくださったからです。

では、私たちは、隣人に対してどのような愛の配慮が必要なのでしょうか。「愛の配慮」はその人が信仰的につまずきを覚えないことです。では、具体的にはどのようなことでしょうか。そこの天国長屋の八さん、熊さん、あなたたちはどう思いますか。

八: 「愛の配慮」ねぇ、難しいなぁ。ユダヤの人々には、食べ物の規制がある。クリスチャンは、本当はその規制を守らんでもええんやけど、食べ物でクリスチャンにつまずいてしまうのは、残念や。だから食べ物の規制は、いちおう守っとこ、ちゅう「配慮」やな。

熊: けど、日本人の俺たちには、その食べ物の規制はない。それでつまずくことはないんや。けど、お酒に関しては、ちょっとあるような気がするなぁ。酔っぱろうたらあかんけど、ちょっとぐらいたしなむのはええんちゃうかな。イエス様も飲んではったし。

八: 俺も熊も、下戸やから、お酒は飲めん。だから、そんなこと気にせんでもええんやけど、世間の人は、クリスチャンは飲まへん、お堅い人ばっかりやと思てはる人もいるから、そこで飲んでしまうと「なんやクリスチャンも飲むんや」とホッしたり、または、期待を裏切られたり、受け取り方も人それぞれやろなぁ。

熊: だから、横丁のご隠居は、そんなことでつまずいて、救いにもれる人がいるんやったら、もうこんりんざい飲まん、ちゅうて、お酒断ちはった。今じゃ、お茶けで十分やゆうてはる。

八: クリスチャン同士で、「飲む飲まへん」ゆうて、言い争いになることもあるらしいな。俺に言わしたら、「どっちゃでもええやん」って思うんやけどな。

熊: その人がお酒少し飲んだからいうて、クリスチャンじゃないとかあるとか、なんか神様、ちんまいなぁ。神様って、もっと大きいお方や。それだけでつまずくとは思われへん。他にもっと大きなことが隠れてて、人はつまずくんやと思う。

八: 例えば、クリスチャンの二枚舌とか、外面、内面が違い過ぎるとか。

熊: 八、お前、きついこと、はっきり言うなぁ、耳痛いわ。誰だって大なり小なり、そんな面もってるんとちゃうか、聖人君主やあるまいし。

八: そやねん。クリスチャンは聖人君主やあれへん、罪人の集まりや。だから、お互いに裁きあってはあかん。それよりも、イエス様、聖霊様の力を借りて、認め合って、赦し合わなあかん。違いをつつき合うんじゃなくて、イエス様を見あげて一致せなあかん。

熊: そや、イエス様を見あげて一致してたら、他の人もつまずかんのとちゃうやろか。それって大事やな。先週、教えてもらった「主にあって自然体」、これやって。俺たちが、主にあって自然体で、イエス様を喜んでたら、ほかの人も、俺たちを見て、つまずかんのとちゃうやろか。

八: そうや。俺たちがイエス様を喜んで生活してたら、俺たちを見たって、つまずかん。だって、俺たちを見てても、その人たちの目には、俺たちはどんどん小そうなって、その代わりにイエス様が大きく写ってくださる。主にあって自然体、それこそが、愛の配慮なのかもしれんなぁ。

熊: あれ?そうすると、愛の配慮してないのとかわらんのとちゃうか? もとに戻ってしもて、結局、具体的なこと、なんも分からへんやん。

八: ごめん、牧師さん、結局、愛の配慮って、分からんようになってしもた。牧師さん、牧師さん、聞いてる? なんか、聖書めくってたけど。配慮たらんのんちゃう。

いえいえ、聞いてましたよ。有難うございます。八さんや熊さんの話を聞いていて、思い出した聖書の箇所がありましたので、ちょっと見ていました。コロサイ人への手紙3章です。少し長いですけど、ぜんぶ読んでみますね。3章12節から17節までです。

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」

これを一言でまとめますと、23節になります。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」つまり、「主キリストに仕えなさい」ということでしょう。

ここにも愛の配慮はでてきません。愛の配慮とは、私たちが頭で考えるのではなく、心で感じるものではないでしょうか。それも、主イエス様と一心同体となっているとき、主キリスト様に心から仕えている時、私たちは愛の配慮ができるものに変えられるのではないでしょうか。今朝の中心聖句、「人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです」つまり、「人が神を愛するなら、愛の配慮ができるものとなっている」のであります。どうか、今日、もう一度、コロサイ人への手紙3章をお読みください。皆さんが、この聖書の箇所をお読みくださって、主と心を合わせるなら、あなたは、愛の配慮ができるものとされているはずです。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「愛の配慮」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」、そのような者に、聖霊様によって変えていただきましょう。黙想の前に、マルコの福音書10章45節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

(3分間黙想)Shimcha Kadosh

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「愛ある配慮」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。私たちが、愛ある配慮と頭で考えるのではなく、主を感じ仕えていくなかで示されるままに、その配慮が与えられますように。主と一体となった時にこそ、そのことが示されますように、私たちの言動がまわりの人々のつまずきとなりませんように。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌428「キリストには代えられません」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Shimcha Kadosh

https://www.youtube.com/watch?v=XIk0_WWIvU8

今月のワーシップソング「求めて」♬

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

https://www.youtube.com/watch?v=PTNEi21khJk

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。