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メッセージ主題:『主にあって自由人』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年9月15日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌339「恵みの高き嶺」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文26:詩篇 第84篇:新聖歌p.900

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌397「神の御子にますイエス」

聖書拝読:コリント人への手紙第一9章11節~23節(新改訳聖書)

中心聖句:

「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(23)

メッセージ主題:『主にあって自由人』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『愛ある配慮』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント第8章では、信徒同士の配慮が説かれています。信仰があるから、偶像にささげた食物であっても、全く無関係で食べても大丈夫なのですが、そのことを教会の兄弟姉妹たちが見て、つまずきを覚えるなら、それは、「キリストに対して罪を犯している」とパウロは主張します。信仰的に弱い人のために、配慮が必要で、それこそが、神を愛し、人を愛することであるとパウロは説くのであります。先週は、そのことを通して、本当に神を愛することを考えさせていただきました。

今朝は、『主にあって自由人』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント第9章は、「私には自由がないのでしょうか」という問いかけから始まっています。そして、パウロは、他の使徒たちのように、信徒の献金によって生活しているという権利について述べています。パウロは、信徒の献金によって生活する使徒や今で言う牧師を非難しているわけではありません。むしろ、祭司や牧師が信徒の献金に支えられるのは当然の権利であると主張しています。当時のユダヤ教の祭司の生活は民衆によって支えられていました。それは、「主も福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定められておられます」(14)と述べ、その権利を肯定しています。しかし、パウロはその権利を用いることを固辞しました。そして、それはパウロの聖職者としての誇りでもありました。その主にある誇りによって、パウロは自由でありました。そのことについて、今朝は考えたいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

まず、パウロの立場をはっきりとさせておきましょう。パウロは特定の教会を立ちあげて、そこの聖職者になって、生活を支えられていた訳ではありません。聖職者の権利をあえて行使しませんでした。パウロの生活を支えたのは、もちろん主でありますが、パウロ自身の仕事によって自立していました。彼の仕事とは、今で言うアルバイトでありますが、テント・天幕造りであります。ですから、パウロのように、信徒の献金に頼らない、他に仕事をもつ聖職者のことをテントメーカーと呼びます。パウロがテント造りを生業としていたところから、このテントメーカーという名称がつけられました。今でも、開拓伝道をされる聖職者の方々は、テントメーカーです。アルバイトをして、日銭を稼ぎ、生活費にあてています。それを一生涯される方もいらっしゃれば、信徒が増え、アルバイトをしなくても良いようになるか、また、教会での仕事が多くなりアルバイトをしている時間がなくなってしまって、テントメーカーを卒業する方もいらっしゃいます。どちらが正しくて、どちらが正しくない聖職者の姿であるとは言えません。どちらも正しいのです。パウロは、それを、実践して見せたのです。

パウロには誇りが二つありました。一つは、「主を誇る」ということであります。1コリント1章28節から31節に記されています。「また、この世の取るに足らない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主にあって誇れ。』と書かれているとおりになるためです。」この「誇る者は主にあって誇れ、(口語訳では)誇る者は主を誇れ」とは、エレミヤ書の9章24節の引用で、エレミヤ書では、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」とあります。これは「主を知っていることを自慢せよ」と言っているのではなく、主に栄光をお返しする、主に感謝する、主を知ることを大切にするということを意味しています。

また、9章16節では、パウロは次のように告白しています、「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしてもしなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」つまり、福音を宣べ伝え、回心者を生み出すこと自体は主の業であって、その聖職者の自慢ではない、また信徒の数の多さを誇ってもいけないということです。それは全て主の業であり、種を蒔く手も刈り入れをする手も、誇ってはいけないのです。リバイバルが起り、信徒の数が増えることは喜ばしいことであり、主の御名をほめたたえ、主に栄光をお返しすべきことであります。しかし、聖職者や信徒が、あたかも自分たちの手柄のように優越感をもってはいけないのです。高ぶる者は、結局、頭をたたかれるか、滅ぼされるのです。「主を誇る」「主に栄光を帰する」「主に感謝する」ことを忘れた教会や集会は、その時点で衰退の道をたどるのです。

もう一つのパウロの「誇り」は、信徒の献金をあてにせず、経済的に自立しているということです。9章14節15節に次のように記されています。「主も福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定められておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」また、そのような誇りは主からの報いだと述べています。16節「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」パウロは、聖職者の生活権利を、ある種の束縛であり、不自由さであると考えていたのではないでしょうか。彼の言う、献金に頼ることなく、経済的に自立しているという「誇り」は、いろいろなしがらみから自由であることへの証しでもあるのでしょう。その自由は、主と一対一の関係を維持する自由なのです。パウロは、主との一対一の関係を維持するために、それを邪魔するすべてのしがらみを排除しようとしたのです。そのしがらみの一つが、聖職者の生活権利だったのです。12節で「(聖職者の生活権利を用いないこと)は、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。」と、その権利が福音に妨げになる可能性を示唆しています。19節で「私はだれに対しても自由です」と告白している通り、献金に頼る生活には、自由が妨げられる可能性があると指摘しています。

ここまで、パウロの使徒でありテントメーカーとしての「誇り」を説明させていただきました。では、このことに対して、信徒の方々はどのように向き合えばよいのでしょうか。私は、このパウロの二つの誇りを皆さんも大事にしてほしいと願っています。

一つ目の誇りは、「主を誇る」ということ、つまり「主を知ることを感謝し、第一とする」「主を知る」とは、主と霊的に一心同体となっていること、深い交わりをもつということです。そして、全てのことについて、主に栄光をお返しすることです。

二つ目の誇りは、主と一対一の関係を妨げる全ての要因を排除し、その関係性において自由であるということです。私たちの生活はしがらみだらけです。そして、それは主との対峙をじゃまする要因になりかねません。パウロは献金の世話にはならないという自由を主にあって感謝し、誇りとしていました。信徒の方々は献金の世話にはなりませんので、この誇りとは無関係のように思いがちです。しかし、世のしがらみを排除、または遠ざけて、自由となり、主の一対一の関係を邪魔が入らず築けたとすれば、皆さんは、本当の意味で、主にあって自由人となるのです。このことは聖職者であろうとなかろうと関係ありません。もう少し違った言い方をすれば、あなたの生活の中に、主が入って来て、主が統治してくださっているかということです。つまり、どの時点であっても、主の証人となっているかということでもあります。

この二つの誇りを違う言葉で表した御言葉が、今朝の中心聖句23節です。「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」「私はすべてのことを、福音のためにしている」とは、四六時中キリストの証人であるということ、つまり、「世のしがらみから解放され、主にあって自由人である」ということ。

また「私も福音の恵みをともに受ける者となる」とは、主を知り、主を誇る者とされ、救いからもれることがないように、お互いに注意し合い助け合うということです。

ですから、この23節は、聖職者だけの御言葉ではありません。キリスト者全員がこの御言葉の対象者です。さて、天国長屋の八さん、熊さん、今日の御言葉、どう思いましたか。

八: この御言葉は、牧師さんの大好きな言葉だよね、熊さんも覚えているだろ。

熊: 覚えているさ、神学校を卒業の時に、決意表明で出した御言葉さ。牧師さんは、新改訳の方より、口語訳の方がピタッとくるって言ってたよな。

八: そうだった、そうだった。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」だったよな。

熊: 俺は、いまの今まで、この御言葉は牧師さん用の言葉だと思ってたよ。なんか、こう力がはっている言葉だよな、今から伝道します!って感じで。

八: それによ、パウロのだんなの、経済的に献金に頼らず自立しているという誇りも、ありゃ、牧師さんのための言葉だよな。信徒は献金する側なんだから。それに、福音を伝えるため自由であるために、献金に頼らない、下手すりゃ、普通の牧師さんへの嫌味にもなりかねない表現だぜ。

熊: お金のからんでいることは、難しいやな。献金をする側にしても、献金をいただく側にしても。つまずきのもとになる。

八: だからこそ、パウロのだんなは、そのつまづきから自由になろうとしたんだよな。

熊: 俺は、今日のメッセージを聞きながら、イエス様の言葉を思い出していたよ。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

八: それって、マタイの福音書10章の8節にあるお言葉だろう。あれは、使徒たちに与えられた、癒しの力やよみがえらせる力、病人をきよめ、悪霊を追い出す力のことだよな。「その力をただで受けたのだから、ただでその力を使って福音を伝えなさい」というイエス様の勧めだよね。

熊: 確かにイエス様の使徒たちへの言葉だ。けど、俺たちが受けた救いも同じじゃねぇか。「ただで救いにあずかったんだから、ただで福音を伝える」。パウロのだんなは、そのイエス様のお言葉を知ってたんじゃねぇかな。

八: パウロのだんなは、イエス様のお言葉を直接はお聞きになってねぇ。でも、他のお弟子さんに聞いたかもしれねぇな、イエス様のお心を。福音はただだ。ぜ~んぶ、イエス様が先払いしてくださったんだから。

熊: だからこそ、牧師さんだけに、福音をお伝えするのを任せてはいけねぇんだ。おらたちゃ、学はねぇ、知識も乏しい、難しいことは分からねぇ。けど、イエス様大好きだ。だから、キリストの証人にはなれるんだよ、いや、ならねぇといけねぇんだ。パウロのだんなは、そのことを率先して言ってんだよ。「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」

八: パウロのだんなはテントメーカーの走りだ。仕事しながら、福音を伝えた。俺たちも仕事をしながら、キリストの証人になれる、いや、もう証人となってるんだ。

熊: そうさ。俺たちも、テントメーカーとされているんだよ。なんか、うれしいねぇ。えぇ、パウロのだんなと同じ、主にあって自由人なんだ。「生きることはキリスト」って、パウロのだんなは言ってたよな。俺たちも、この世で生きているあいだ、いつもキリストの証人でありてぇもんだ。

八: 「主にあって自由人」か。なんか、イエス様と直接結ばれているようで、いいね!

八さん、熊さん、ありがとうございます。八さん、熊さんがテントメーカーであるように、私もテントメーカーです。実は、テントメーカーがもっともっと増えればいいなと思っています。信徒の方々は、全員、テントメーカー予備軍です。社会で仕事をし、または家庭で主婦という仕事をし、証人として、世の人々と接する。普通の信徒という立場とテントメーカーとの違いは、意識の問題だけです。あの23節、「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」は、パウロの決意表明だと言ってもいいでしょう。彼は二つの誇りを持っていました。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」というイエス様のお心を知り、経済的に自立し、収入の負い目をなくし、主にあって自由になりました。そして、主を誇り、共に福音にあずかる者とされる恵みを得たのです。私たちも、パウロにならって、決意表明しませんか。「私はすべてのことを、福音のためにする。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「主にあって自由人」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。「生きることはキリスト。」生涯、キリストの証人として用いられますようにと、祈りましょう。黙想の前に、ヨハネの福音書8章31節32節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

(3分間黙想)Give Thanks To The Lord - Hodu La'Adonai

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「主にあって自由人」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか、私たちが、世のしがらみから解き放たれ、また、教会での律法的なしばりからも解き放たれ、主と一体となる時に何の障害もない自由な者とされますように。また、一人一人が主の証人としてのテントメーカーであると決意表明できますように、お導きください。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌136「御霊よ降りて」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Give Thanks To The Lord - Hodu La'Adonai

https://www.youtube.com/watch?v=y6WtFr8JQMA&list=RDXIk0_WWIvU8&index=12

今月のワーシップソング「求めて」♬

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

https://www.youtube.com/watch?v=PTNEi21khJk

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。