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メッセージ主題:『脱出の道:港』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年9月22日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌396「慕いまつる主の」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文27:詩篇 第90篇:新聖歌p.901-902

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌321「浮世の風と」

聖書拝読:コリント人への手紙第一10章13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(13)

メッセージ主題:『脱出の道:港』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『主にあって自由人』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント第9章は、「私には自由がないのでしょうか」という問いかけから始まっています。そして、パウロは、他の使徒たちのように、信徒の献金によって生活しているという権利について述べています。パウロは、信徒の献金によって生活する使徒や今で言う牧師を非難しているわけではありません。むしろ、祭司や牧師が信徒の献金に支えられるのは当然の権利であると主張しています。当時のユダヤ教の祭司の生活は民衆によって支えられていました。それは、「主も福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定められておられます」(14)と述べ、その権利を肯定しています。しかし、パウロはその権利を用いることを固辞しました。そして、それはパウロの聖職者としての誇りでもありました。その主にある誇りによって、パウロは自由でありました。そのことについて、先週は学ばせていただきました。

今朝は、『脱出の道:港』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント第10章は、8章の時と同じように、偶像礼拝と律法の食物規制によるつまずきに関して述べられています。8章との違いは、8章では、信仰的にまだ不安定な兄弟姉妹に対して、つまずきとならないように、食べ物に対して配慮しなければならないと説かれていましたが、10章では、自分自身が、偶像礼拝という誘惑に陥らないようにと注意喚起がなされています。パウロは、その偶像礼拝の誘惑を「試練」として表わし、試練に対する脱出の道、のがれの道が供えられていると述べています。今朝はその脱出の道について考えてみましょう。

短くお祈りいたします。(祈り)

今朝の聖書の箇所は、いろんな方が、聖書の引用とは知ってか知らずか、使っている表現のもととなっているものです。記憶に新しいところでは、白血病を公表した競泳女子元日本代表の池江璃花子選手が、ツイッターやインスタグラムで投稿した文章の中に「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています」と語っていますし、また、フィギュアスケートの羽生結弦選手が、あるインタビュー記事で、「よく言われる『試練は乗り越えられる者にしか与えられない』という感覚は、自分の中にあります」と語っています。また、私は、あまり見ていなかったのですが、テレビの人気ドラマ「JIN〜仁」という江戸時代の医者の物語でも『神は乗り越えられる試練しか与えない』という台詞が何度も登場したことがあるそうです。これは、もともとは連載漫画で、それをテレビドラマ化したものですから、漫画の中にも出て来ている台詞なのかも知れません。

このような「乗り越えられない試練はない」という言葉の「試練」とは、「逆境」であったり、「苦難」であったり、「迫害」であったり、そのような理解で市民権を得ているのだと思います。しかし、もともとの聖書の箇所での「試練」とは、「誘惑」であります。英語でははっきりと「誘惑」を表わす、temptation という言葉が使われていますし、原語のギリシャ語でも「ペイラスモス」という言葉が使われ、この「ペイラスモス」はイエス様が荒野で40日間断食し、悪魔から誘惑を受けたとされる箇所(マタイ4:1-11)でも登場し、そこでは「誘惑」と訳されています。また「主の祈り」の「われらを試みに会わせず」の「試み」も「ペイラスモス」が使われています。

この10章での「試練=誘惑」とは、偶像礼拝であったり、姦淫(ここでは、男女の浮気のことではなく、他の神と人間との浮気のことを示し、偶像礼拝と同じ意味を持ちます)であったり、つぶやき(神様への悪口や不信を意味します)であったりします。つまり、創造主である神とその被造物である人間との関係がずれること、神を神として崇めないこと、創造の神を信頼せず人間が造った偶像を礼拝することへの誘惑であります。このことは、神が一番嫌うことであります。

「乗り越えられない誘惑はない、耐えることのできない誘惑はない、誘惑を逃れる道・方法が必ず備えられている」と今朝の聖句は言っているのであります。人類の始祖、アダムとエバは、蛇の誘惑によって、罪を犯してしまいました。その罪とは、神を信頼せず、人間が神と同等になろうとした罪です。蛇であった悪魔は、アダムとエバの時のように誘惑を得意とします。その誘惑は、イエス様が40日間の断食後にも起こりました。イエス様は、わざわざ悪魔にご自身を誘惑させ、それを御言葉によって退けられました。これは、イエス様に悪魔を退散させる力がなかったのではなく、私たちに見本をお見せくださったのです。悪魔の誘惑には、御言葉によって対抗しなさいと暗に示唆されておられるのです。

少し、その誘惑と御言葉を見てみましょう。(マタイ4:1-11)

誘惑①「あなたが神の子なら、その石がパンになるように、命じなさい。」

御言葉①「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(申命記8:3)

誘惑②「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』(詩篇91:11-12)と書いてありますから。」

御言葉②「あなたの神である主を試みてはならない。」(申命記6:16)

誘惑③「もしひれ伏して私を拝むなら、これ(国々の栄華)を全部あなたに差し上げましょう。」

御言葉③「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」(申命記6:13)

このようにイエス様は、悪魔の誘惑に対して、御言葉を引用し、悪魔を退けました。私たちが、誘惑に負けないように、つねに御言葉を暗唱できるようにしておかなければならない大切さをイエス様は説かれておられます。神様は、たとえば、詩篇を通してそのことを、私たちに伝えてくださっています。詩篇119篇11節「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」詩篇119篇16節「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」私たちは、御言葉を心にたくわえ、忘れないようにする必要があります。

御言葉を覚え、暗唱するというのには、私たちの心を神様からそらす誘惑から、守る効果があるのです。ですから、小さな時から、御言葉を覚えることが大切なのです。天国長屋の八さん、熊さん、あなたがたもそうは思いませんか。

八: そうさなぁ、確かに、御言葉を覚えるってぇのは大切だな。けどよ、この年になりゃぁ、御言葉がなかなか覚えられねぇって言うのが本音だ。とくに俺の頭は、1覚えたら2忘れるんだから、始末が悪い。

熊: そうだよな。御言葉を覚えるには、その御言葉を好きにならないといけねぇって、横丁のご隠居が言ってたな。

八: ご隠居はインテリだからなぁ。でも、横丁のご隠居はこうも言ってたな。「たくさん、覚えられないんだったら、自分の一番好きな聖句だけでも覚えること」だって。

熊: 俺にはこうも言ってたぜ、「覚えられないんだったら、聖書を何べんも読むことだって。そのうちに、御言葉が心に残って来るって。」

八: そうか。何べんも聖書を読み直すか。一日一章だったら約3年、一日三章で、約1年。どっちにしても大変だ。

熊: 覚えられなくても、御言葉を三度のおまんまの前に言ってみるっていうのもいいようだぜ。

八: なるほどねぇ、あさげ、ひるげ、ゆうげにか。それもいいやな。そうすると、詩篇1篇2節が成し遂げられるわけだ。「その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことになるんだな。

熊: お、八の大好きな御言葉じゃねぇか。2節をすると、3節のようになる。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」

八: 嬉しいねぇ、何をしても栄える。でも「昼も夜も」っていうのは、四六時中ってことだろう。それがむずかしいやな。四六時中、御言葉を口ずさむっていうのは。

熊: それじゃ、これはどうだい。パウロのだんなは、このように言ってなさる。「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(2テモテ2:8)

八: これなら、できそうな気がするねぇ。要するに、イエス様としょっちゅう会話すればいいんだろう。

熊: イエス様を思っている時、会話している時って、俺は心が安らぐんだよな。なんか、ホッとするっていうか、いろんな危険から守ってくれるって言うか。

八: 俺のじっちゃん、魚屋の前は、漁師だったんだよ。漁を終えて、港に帰ってくると、堤防のうちっかわは、波が柔らかい。だから、港に入るとほっとするんだって、言ってたな。

熊: 港か。そうかもな。この季節、台風シーズンだ。台風が来るときには、船はみんな、港に戻って来て、じっとして、嵐が過ぎ去るのを待っている。イエス様のもとに帰ってきてお話をして、誘惑や試練が過ぎ去るのをじっと待っている。そうすると、港の防波堤が、さしずめ、御言葉なのかもしれねぇな。

八: 港の防波堤が御言葉で、港はイエス様か。俺たちもそうありてぇな。と、話が落ち着いたところで、牧師さんにお返しいたします。

八さん、熊さん、ありがとう。なるほどね。脱出の道は、つまりは、イエス様という港に身を寄せることなのかもしれませんね。私は、脱出の道は御言葉とばかり思っていました。試練に耐える力も御言葉からいただけますから。しかし、御言葉に力をあたえてくださるのも、聖霊様でありイエス様。脱出の道、逃れの道は、困難や逆境という嵐の中から、沈みそうになっているのを助け出すのではなく、港に帰って、そこでたたずむ、イエス様に身を寄せて、嵐が去るのを待つことなのかもしれません。イエス様に身をゆだね、誘惑からも、逆境からも、迫害からも守っていただきましょう。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「脱出の道:港」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。「主イエス様をいつも思うこと」が、主に身をゆだねることにもなります。また、御言葉は力です、私たちの身をまもる盾でもあります。御言葉を覚える努力もしてみましょう。

黙想の前に、ヨハネの福音書15章7節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

(3分間黙想)Kadosh Adonai (Hebrew) Elisheva Shomron (w/ lyrics)

 

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「脱出の道:港」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか、私たちが、つねにイエス様のもとに寄り添うことができますように。御言葉を携えて、誘惑や逆境や困難に立ち向かうことができますほうに、私たちを励ましてください。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌248「人生の海の嵐に」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Kadosh Adonai (Hebrew) Elisheva Shomron (w/ lyrics)

https://www.youtube.com/watch?v=WC1zyHnV_dM&list=RDWC1zyHnV_dM&start_radio=1

今月のワーシップソング「求めて」♬

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

https://www.youtube.com/watch?v=PTNEi21khJk

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。