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メッセージ主題:『主の愛餐』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年9月29日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌105「栄えの冠を」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「求めて」

交読: 交読文28:詩篇 第91篇:新聖歌p.902-903

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌143「いとも尊き」

聖書拝読:コリント人への手紙第一11章20-29節(新改訳聖書)

中心聖句:

「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」(28)

メッセージ主題:『主の愛餐』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『脱出の道:港』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント第10章は、8章の時と同じように、偶像礼拝と律法の食物規制によるつまずきに関して述べられています。8章との違いは、8章では、信仰的にまだ不安定な兄弟姉妹に対して、つまずきとならないように、食べ物に対して配慮しなければならないと説かれていましたが、10章では、自分自身が、偶像礼拝という誘惑に陥らないようにと注意喚起がなされています。パウロは、その偶像礼拝の誘惑を「試練」として表わし、試練に対する脱出の道、のがれの道が供えられていると述べています。先週はその脱出の道について導いていただきました。

今朝は、『主の愛餐』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント第11章は、二つの事柄が説かれています。まず初めに、教会における婦人の位置、そして主の愛餐です。はじめの婦人の教会での服装に関しては、現代の教会にはそぐいません。男女同権であり、女性の牧師も許されている教会も多く、服装規定や髪の毛の長さを規定することは、好ましくありません。また、パウロが3節で主張する「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」は、キリストおよび神の御前に、信じる者はみな平等であるという考え方からは、隔たりがあります。もう一つの主の愛餐に関しては、当時のコリント教会では、財産共有の感覚はすでになく、主の聖餐のあとに行なわれる愛餐の時に、裕福な者が持ち寄った食べ物は持ち寄った者だけが食べられ、食べ物を持参できなかったものは、その愛餐にあずかれないという、まったく愛のない食事会となっていました。パウロはそのことを問題視したのです。今朝は、聖餐と愛餐のことに思いを巡らしたいと思います。

短くお祈りいたします。(祈り)

教会によっては、毎週聖餐式を行なうところもあります。平均的には月に一度聖餐式を行なうところが多いようです。また、聖餐式を全く行わないという教会もあるようです。聖餐式も各教会で少しずつ違うようですが、基本はイエス様のお言葉です。たとえば、マタイ26章26節~28節までです。「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」当時の聖餐では、このパンは一つで、それをイエス様の代わりに祭司が割り、次々にちぎってパンを食べ、ぶどう酒は杯を回し飲みしたそうです。すべてイエス様から出たことを重視してのことだそうです。しかし、今では、あらかじめ用意されたパンの小片をつまみ、小さなカップに入れたぶどうジュースを取り、聖餐式を行なうのがほとんどではないでしょうか。教会が家庭集会的なものから多人数になり、聖餐式も便宜的にも衛生的にも変化せざるを得なかったも思われます。

しかし、そのことが大事なのではありません。イエス様のからだを象徴するパンとイエス様の血を象徴するぶどうジュースが、主の愛を確認し、私たちの主への気持ちを新たにするために有効なのです。パウロはその聖餐を問題視しているのではなく、その後に行われている、現代でいうところの教会での愛餐会が、キリストの愛とは全くかけ離れたところで行なわれていることに対して、コリント教会を叱責しているのです。当時の愛餐は、今で言うところの持ち寄りパーティのようなものでしょうが、持ち寄った人たちだけで、食事をし、そこには貧富の差が歴然とありました。例えば、想像でしかありませんが、裕福な人たちのテーブルには豪勢な食事、中間層のテーブルには見劣りのする食べ物、貧困層のテーブルには、食べ物が無い、あっても粗末な食べ物。だから、貧しい人々は、富裕層のテーブルで食べ残しをいただく。そのことを、パウロは21節22節で次のように表現しています。「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。」

現代の教会では、愛餐会での食事は、教会が用意するか、持ち寄りパーティ的なところがあったとしても、皆に行き渡るように配慮されています。しかし、当時のコリント教会と同じように、礼拝中での聖餐式と礼拝後の愛餐会とは、まったく違うものとして扱われています。しかし、パウロは27節「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」とあるように、聖餐と愛餐は同じ意識で行なうべきだと主張するのです。それは、富む者も貧しい者も、みな主にあって平等である、主にあって一つのからだであるという意識です。現代の教会では、愛餐の時に、その意識とは別に、みな同じ食事をいただきますから、聖餐を意識しなくても、教会ではみな平等であるという意識が無意識のうちに育まれるのでしょう。その意味では、教会で同じものを食べるということはとても大切なことなのです。また、それに対してお金を徴収することは、あまり好ましくありません。たとえ少額であったとしても、それを出せない人は食べられないからです。それは、聖餐の意識に反すると、私は考えます。

今朝、私たちが考えるべきことは、愛餐=聖餐であるということです。ですから、愛餐においても今朝の中心聖句28節「ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」を思いめぐらさないといけません。食事自体に感謝し、もちろん食事を用意してくださった方々にも感謝し、それ以上に、その愛餐が主を通しての信徒同士の交わりであり、主の恵みを覚えつつ、聖餐式の延長線上にあるものだという意識をもつことが大切です。聖餐式の時と同じように、「イエス様を覚えて」「イエス様といっしょに」食事をするのであります。

聖餐式は、主の恵みを覚えるためだけものではありません。パウロは、26節で、「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と説くように、聖餐式が福音伝道の意識を高めるためのものでもあるのです。愛餐も同じです。愛餐も信徒同士の仲間意識を高め、仲良くするためだけではなく、むしろ、福音を伝えるための一つのきっかけであり、その意識強化でもあるべきなのでしょうか。

では、私たちは、愛餐において、どのような意識改革が必要なのでしょうか。今朝の1コリントの箇所、11章23節~26節まで、とくに最後の「主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」という言葉を省かずに読むだけでもいいと思います。

一度読んでみましょう。

「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」

これを愛餐の前に読むとすれば、それだけで、愛餐の意識が変わって来ないでしょうか。どう思いますか、そこの天国長屋の八さん、熊さん?いかがですか。

――――――――――

八: んー、なんか息苦しいなぁ。愛餐が聖餐式のつづきにあるっていうのは、なんとなくわかったんだけどよ、楽しいはず愛餐の時まで、あの聖餐式のおごそかな雰囲気にしてしまうっていうのは、かたっ苦しくていけねぇや。

熊: だよなぁ。礼拝が終わって、さあやっと食事だってぇ時に。めりはりっていうのを付けてもらいてぇよ。まじめな牧師さんの言うことは分かるけど、愛餐の時は、喜ばねぇとな。教会のみんなと一緒に食べるっていうのを楽しまねぇとな。

八: まあ、はっきり言って、牧師さんの言うのは野暮だね。福音伝道、大いに結構さ。教会は、教育の場でもあるけど、癒しの場でもあるとおもうんだ。礼拝が、神様に自分自身をささげる場だとすると、愛餐はこれから外に出て行くための英気を養うっていうか、そういう場でもあるんだ、と俺はおもうんだけどな。

熊: 俺もそう思うんだけど、どうして牧師さんは、そんな野暮なことを言い出したんだろう。パウロのだんなは、「飲食のためなら、自分の家があるでしょう」(22)と言ってた。つまり、「みんなで食事を共にする」ってぇことが大事だってことだ。

八: 俺たちゃ、やってるじゃねぇか。これまででも、みんなで楽しく。

熊: そうだよ。でも、愛餐の時に、聖餐式の時のように、イエス様を思ってるんだろうかねぇ、俺たち。イエス様はあの聖餐の時に、「わたしを覚えて」っておっしゃった。じゃ、俺たちは、愛餐の時に、「イエス様を覚えて」って、つまり、イエス様といっしょに食事をしているのだろうか。そういう気持ちで、愛餐をしているのだろうか。

八: 俺たちの心の中には聖霊様がいらっしゃる。俺たちが二人三人で共に祈る時、イエス様もその場にいらっしゃる、愛餐の時だってそうだろうよ。イエス様はいらっしゃるんだよ。

熊: 俺は、ちょいと、「イエス様を覚えて」っていうところが、気になってんだ。イエス様が俺たちの愛餐の場にいらしたとしたらって。そう思って、教会での食事の時を想像してみたんだ。そうするとよ。みんながグループになって、ワイワイ話している。イエス様もそん中にいらっしゃる。しかし、イエス様はぽつ~んと一人で食事している人に気がついて、その人のところに行って寄り添って、言葉をおかけになる。そこで、初めてそのひとりで食事をしている人が笑顔になるんだ。それが、本当の意味で、イエス様を覚えて、共に食事をするってことじゃ、ねぇのかな。

八: なるほどねぇ。イエス様と食事をするってぇことは、教会では、誰も一人で食事をしないってことなのかも知れねぇな。ひょっとすれば、それがパウロのだんなの一番言いたかったことなのかも知れねぇなぁ。「ひとりひとりが自分を吟味して」っていうのは、そういうことなのかも知れねぇな。ひとりひとりが、イエス様の目線に立って、あたりを見回しながら食事をする。みんなと一緒に座っていて食事をしていても、黙って、会話に入って来れていない人がいれば、その人に声をかける。イエス様だったら、そうなさるだろうねぇ。

熊: そこなんだよ。ひとりで黙って食事をするんだったら、何も教会で食事をする必要はないんだ。自分の家ですればいいんだ。その人は、だれかに話しかけてもらいたいのかも知れねぇ。その場で声をかけ、寄り添うことが、イエス様の愛を行なうことでもあるんだろうな。

牧師さん、牧師さんはその事を言いたかったのかい。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。私も愛餐の時に、聖餐式の時のような雰囲気にしたくありません。食事の時は楽しくしたいと思っています。聖餐式の時はともかく、愛餐の時に、パウロの言う「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」このことは、少し意味合いが違ってきていいはずです。愛餐の時には、福音伝道の意識を直接高めるのではなく、イエス様を覚え、イエス様の愛の実践を行なう場となるはずです。つまり、「イエス様といっしょに共に食事をする」という意識を高めることが大切なのだと思うのです。それが、間接的に福音伝道の意識を高めることにもなるかも知れませんが、まずは、イエス様の愛の実践であります。だからこそ、「愛餐」となづけられているのではないでしょうか。愛餐の時に、誰ひとりとして、ひとりで食事をなさっている人がいないように、配慮していただきたいと願っています。それが、「主の愛餐」であると信じています。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「主の愛餐」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。愛餐の時に、「イエス様といっしょに共に食事をする」ことの大切さを、イエス様に倣うことで学ばしていただきましょう。

黙想の前に、ルカの福音書22章22節のペテロに対するイエス様のお言葉をお読みいたします。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

(3分間黙想)Shimcha Kadosh

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「主の愛餐」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか、私たちが、常に励まし合い、祈り合うものであり、愛餐の時でさえ、その愛の配慮ができる者とさせてください。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌203「ああイエス君、こよなき友よ」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Shimcha Kadosh

https://www.youtube.com/watch?v=XIk0_WWIvU8&list=RDWC1zyHnV_dM&index=2

今月のワーシップソング「求めて」♬

あなたの 声をもとめて

あなたの 顔もとめて

あなたの 心もとめて 御前に 出る 

すべてをゆだねて

すべてをささげて 

あなたを もとめて 礼拝します

https://www.youtube.com/watch?v=PTNEi21khJk

 

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。