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メッセージ主題:『ひとつのからだ:調和』

ぶどうの木キリスト教会

礼拝シリーズ主題:『コリント人への手紙 第一』

2019時年10月6日

礼拝前祈祷:9:45 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌45「十字架の血に」

使徒信条: 新聖歌p.826

賛美: 今月のワーシップソング 「すべてにまさる愛」

交読: 交読文29:詩篇 第95篇:新聖歌p.903

十戒:末ページに記載

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌101「イエスよ十字架に」

聖書拝読:コリント人への手紙第一12章4-13節(新改訳聖書)

中心聖句:

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(13)

メッセージ主題:『ひとつのからだ:調和』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

先週は、『主の愛餐』と題しまして、お話をさせていただきました。

第一コリント第11章は、二つの事柄が説かれています。まず初めに、教会における婦人の位置、そして主の愛餐です。主の愛餐に関しては、当時のコリント教会では、財産共有の感覚はすでになく、主の聖餐のあとに行なわれる愛餐の時に、裕福な者が持ち寄った食べ物は持ち寄った者だけが食べられ、食べ物を持参できなかったものは、その愛餐にあずかれないという、まったく愛のない食事会となっていました。パウロはそのことを問題視したのです。そのところから、先週は聖餐と愛餐のことに思いを巡らしました。

今朝は、『ひとつのからだ:調和』と題しまして、お話をさせていただきます。

第一コリント第12章は、御霊の賜物のことが記されています。御霊は同じでも、奉仕(賜物)にはいろいろの種類があり、知恵や知識、信仰や癒し、奇跡や預言、そして異言であります。これらをキリストのかただとしての器官になぞらえ、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(27)と、パウロは説きます。12章の終わりには、「さらにまさる道をしめしてあげましょう」と、これらの賜物よりもすぐれたものがあることを示します。それは、「愛」であり、有名な「愛の章」13章へとつなげていきます。今朝は、11章での「主の愛餐」の意識から13章「主の愛」へと移行する話の流れのなかで、さまざまな賜物は、同じ主からのものであると「主にあって一つ」を強調しているところを共に学ばせていただきましょう。

短くお祈りいたします。(祈り)

パウロは、「教会は一つのからだ」であることを強調せざるを得ませんでした。当時、西暦50年代の教会(イエス様が昇天され20年以上がたった教会)には、今の私たちが持っています新約聖書の原典となるものが、まだ何もありませんでした。教師である使徒の数は少なく、諸教会は遠く隔たったところにあり、交通手段や連絡手段も少なく時間を要した時代です。ですから、いたるところで、偽教師が現われ、教会が荒らされていきます。パウロが生んだコリント教会もその例外ではありませんでした。ですから、パウロはエペソに滞在中に、このコリントの手紙をしたため、ばらばらになりつつある教会を一つにしようと試みました。

キリストにあって、同じ救いを得ていることが強調された、聖餐・愛餐の意識を植え付け、その上で、教会で必要となる賜物について、12章では述べています。なぜなら、彼らは、どの賜物がいちばん優れているかということを競っていたからです。パウロは、28節で賜物の優位性を述べています。「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、そしていやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」この賜物の優位性の順番には、パウロの意図が見えます。当時の乱れたコリント教会では、皆が異言を語ろうとし、治め、助け、癒しの賜物をほしいと願っていて、一番の賜物は異言であるという考え方が支配しつつあったのです。そのことに対して、パウロは警笛を鳴らし、順序を逆にしました。そして、31節で、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と、教会員の目を、教師や預言者、使徒に向けさせたのです。

では、本当に、この順序は教会において存在すべきなのでしょうか。イエス様がまだこの世でいらして、弟子たちを教育なさっておられた時、弟子たちは、自分たちの中で、誰が一番偉いのか、だれが一番イエス様に愛されているのかを論じていました。その時、イエス様は次のように弟子たちを諭しました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」(マタイ20:25-27)このように、イエス様は、弟子たちに、自ら仕える者になることを教えられました。パウロもこのことは、百も承知で、ガラテヤ書では、次のように説いています。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(5:13)ですから、この順番は、コリントの教会に悟ってもらうために、わざわざ逆にして出したのです。事実、パウロは、それらの賜物よりももっと優れたものたあると述べています。「また私は、さらにまさる道を示してあげましょう」と述べて、「愛の章」へと導きます。

そして、12章内では、これらの賜物は、すべて必要であり、その意味で等しく価値のあるものだと示唆しています。それをパウロは、体の器官になぞらえています。「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その部分が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です」(12)そして、22-24節では、弱い器官も必要であることが解かれています。「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。」英語でも「からだと調和させる」をharmony や compose (整える、作曲する)を採用しているヴァージョンがあります。まるで、体の調和を音楽になぞらえているような感じです。

そう、神は、私たちを使って、教会という音楽を奏でていらっしゃるかのようです。なにか嬉しくなりませんか。教会は競ったり争ったりするところではないのです。「ひとつのからだ」として、神への美しい音楽を、賛美を奏でるべきものなのです。不協和音で、神を悲しませてはいけないのです。もし、教会が音楽だとしたら、皆さまは、どんな音楽を想像されるでしょうか。私は、教会はオーケストラのようなもので、指揮者はイエス様。それぞれの楽器の演奏者は、指揮者をみて演奏します。もちろん、それぞれの楽器に応じた楽譜があり、それを忠実に守るのでありますが、それぞれの音を調和させ、音に命を吹き込まれるのは、指揮者であるイエス様です。

教会がオーケストラだとしたら、皆さんは、どの楽器だと思われますか。天国長屋の八さん、熊さんはいかがですか。

――――――――――

八: そうさなぁ、俺は楽器というもんには、縁がねぇから分かんないけど、打楽器やシンバルがいいなぁ。なんか、迫力があってよ。打楽器やシンバルって、オーケストラでは、引締め役じゃねぇか。

熊: なるほどね。シンバルなんざ、最後にジャーンってやらかしたら、かっこいいやね。

八: そうだろ。だけどシンバルがずれたら、最悪だろうな。しまらねぇ、音楽になる。だから、責任重大だね。ところで、熊さんは、なにするよ、楽器。

熊: 俺は、こうみえても小学校の時にはリコーダー得意だったんだよ。だから、縦笛のようなもののほうがいいな。うん、クラリネット!

八: クラリネットねぇ、なんか、熊からは想像できねぇな。

熊: オーケストラっていやぁ、花形は弦楽器じゃねぇか。トップのコンサートマスターは第一バイオリンだしな。俺はどちらかというと、ちょいと控え目な方がいいんだよ。けど、いい味だしてる、みたいな。

八: 指揮者がイエス様だったら、どんな曲に仕上がるんだろうね。

熊: どんな曲であっても、聞く人をうっとりさせたり、励ましたり、慰めたりしてくだるんだろうな。

八: そうさ。聞く人はもとより、演奏する俺たちも、元気がでて、嬉しくなってくる、いい音が作れればな。イエス様は指揮者だ、けど俺たちもその音楽をいっしょになって作ってくんだ。嬉しいじゃねぇか。

熊: イエス様が俺たちの音楽に息を吹き込んでくださる。そのためにも、俺たちゃ、ひとりひとりが、指揮者であるイエス様をじっと見ておかないといけねぇな。自分勝手な音を出しちゃ、音楽じゃなくて、雑音にしかならねぇからな。

八: 聞いて下さる方も、それじゃあ、二度と聞いてくれねぇだろうし。

熊: 不協和音ばかり出しているオケじゃ、楽団員も増えねぇ。

八: やっぱり、楽団員も増えれば、それだけ難しさもでてくるけど、音に幅でできていいやね。

熊: 楽団員が増えれば、なおさら、指揮者を見る必要もあるし、隣の人の音をよく聞く必要もでてくる。

八: ところで、牧師さん、牧師さんはどんな楽器になりたいんだい。

私ですか。私は楽器というよりは、できれば譜面台になりたいかな。皆さんが、指揮者と楽譜にちゃんと目を向けて下さるように。楽譜がぐらついたら、楽譜を一生懸命みようとして、指揮者を見なくなる。楽譜がしっかり固定されていたら、安心して、皆さんはイエス様に集中できる。だって、もう楽譜は大半覚えているだろうからね。

――――――――――

八さん、熊さん、ありがとう。ローマ書では、パウロはこうも述べています。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるためにかかれたのです。それは聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いをもつようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」イエス・キリストにあって、同じ思いをもち、心一つになって主を賛美し、お互いを尊重し合うことが大切です。

ただいまより3分間、黙想をいたします。まず、創造の神、主の御名をあがめ、「天のお父さま、アバ、父」と呼べる幸いに感謝いたしましょう。今朝の「ひとつのからだ:調和」という神様からのメッセージで、学ばれたこと、また導かれたことをもう一度振り返ってみてください。主にあって、お互いに競い合うのではなく、認め合い、心一つとなって、主の愛の証人として、お互いに励まし合う者にさせていただきましょう

黙想の前に、ヨハネの福音書17章21節のイエス様のお言葉をお読みいたします。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

(3分間黙想)Ki Ko Ahav (For God SO Loved)

お祈りいたします。愛する天のお父さま、今朝の導きを感謝いたします。今朝は「ひとつのからだ:調和」と題しまして、あなた様からメッセージをいただきました。どうか、私たちが、常に主を見つめ、主の御声に耳を傾け、お互いがお互いを主によって尊重し、心一つとなって、主の御名を崇めることができますよう、お導きください。教会が、回りの人が心動かされるような音楽を奏でるオーケストラの如く、良い働きができますように、主イエス・キリストを頭とした主のからだでありますように、私たちを整えてください。

この祈りを、主イエス・キリスト様の御名により、今朝の導きに感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、御前におささげいたします。アーメン。

賛美:新聖歌105「栄えの冠りを」

賛美: 今月のワーシップソング「求めて」(献金の時)

献金の祈り

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

アーメン四唱:新聖歌59.7

黙想時の歌

Ki Ko Ahav (For God SO Loved)

https://www.youtube.com/watch?v=X7us5Y-S2mI&list=RDXIk0_WWIvU8&index=6

今月のワーシップソング「すべてにまさる愛」♬

すべてにまさる

すべてにまさる

すべてにまさる

あなたのあい

https://www.youtube.com/watch?v=8_-BaA1zLyw

 

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。